シン・レッド・ライン(その2)

監督 テレンス・マリック 主演 ショーン・ペン、ジョージ・クルーニー、ウディ・ハレルソン、ニック・ノルティほか

養老龍雄(4月29日)
yourou@hi-ho.ne.jp
http://www.hi-ho.ne.jp/yourou/
★5つです。この作品を手放しで支持します。みなさんの評論を一通り読みましたが、私は一番最初のNaomiさんのものが最も秀逸であると思います。まず言えることは戦争映画について「まじめに」考えた場合、そこには不可避的にある種の空しさが漂います。なぜなら、私たちは戦争を体験していないからです。このことをまず念頭に置くべきだと思います。繰り広げられる議論においても、いつしか戦争が歴史的「事実」であったことが置き去りにされ、「記号」と化しているように思えます。
そん(4月26日)
sonda@excite.co.jp
確かにこの映画の映像は「絵葉書のように」キレイです。そして、パンちゃんのおっしゃるようにガダルカナル島が舞台でなくても、そして第2次世界大戦が舞台でなくても良かったかもしれません。
ただ、監督は“戦争”自体を描きたかったのではなく、ぎりぎりの体験をすることによって肉体と精神を蝕んでゆく人間を描きたかったのではないでしょうか。そういう意味で「プライベート・ライアン」とこの作品を並べて論ずるのは疑問に感じます。「プライベート・・・」はあの大戦を舞台にする必然性を持つ作品だと思うので。
一人の人物に焦点を絞らずに、あえて兵士の集団の断片的なエピソードと、ある意味不自然に明るい自然描写を積み重ねていくことによって精神世界をなぞってゆく手法は、私にとって新鮮で心奪われるものでした。
ショーン・ペン以外のカメオ出演スターには大いに疑問が残るし(特にクルーニー・・・)評判の悪い(?)モノローグはやはり少しうっとおしかったのですが(途中からBGMだと思ってあまり字幕を見ないようにしたら、これがなかなか良かった。)私は好きな映画です。
監督の神格化や「プライベート・・・」とのオスカー対決は大げさな気もしますが、そのおかげか客の入りも良いようだし(佐賀でも日曜日に7割方客席が埋まっていた)何にせよ多くの人が映画館に足を運んだことは私にとっては嬉しいことです。
ビデオでしか観たことのない「天国の日々」をスクリーンで観る機会があればいいな、と思いました。
ふむふむ(★★★★)(4月22日)
huka1092@yominet.ne.jp
ストーリーも出演者も知らずに見に行ったのだけれど、それが却って良かったのかもしれない。とてもまじめな戦争映画で、というとおかしいけれどきわめてまじめに兵が恐れ、戦い、死んでゆく。戦争は肉体を通じ精神を痛めつけ、死の世界を考えさせる。「木のように死んでゆく。ゆっくりと確実に」というセリフがじわじわと極めて確実に内臓を悪化させている身にはずっしりとこたえた。途中で舞台がガダルカナル島とやっとわかりストーリーが理解できた。家に帰ったら米の高校生の乱射事件が夕刊に大きく報じられていた。犯人らはヒトラーの信奉者とも。
イングマル(4月22日)
furukawa@joy.ne.jp
くどいようですが、やはりもう一度この映画について書くべきだと思い、敢えて再投稿させていただきます。
先日「シン・レッド・ライン」がアカデミー賞の7部門にノミネートされたことが意外だと書きましたが、まず、この発言についてもう少し説明する必要があるようですね。
僕が言いたいのは、アメリカ・アカデミー賞とは通俗的な映画の祭典であり、「シン・レッド・ライン」のような観念的で明快なストーリー性がない映画が作品賞を含む7部門にもノミネートされたのは不思議だということです。
まあ、僕はアカデミー賞の選考に関与してないので、理由は分かりませんし、もちろん無冠に終わることを確信などしてません。僕は作品を観た上で意外だと感じたのです。アカデミー賞の発表の時点では、当然作品を観てなかったわけですから・・・。
僕は、この作品を非の打ち所のない映画とは思っていないし、批判的な意見の中には納得できるものもあります。しかし、僕がこの映画を高く評価する大きな理由の一つは、戦争映画でありながら“正義”とか“善意”といったうざったい概念が介在していないことです。パンちゃんの言う“アメリカ兵の「善意」”には大いに疑問を感じます。ワニが日本兵の象徴だとか、アメリカ兵のワニ退治が楽園の復活の象徴だなんて甚だナンセンスです。まず、日本兵だけがそれほど獰猛な生き物として描かれているとは、僕には思えません。この映画の中で、日本兵のどんな蛮行が描かれてるでょうか?
しかも、一体どの場面がアメリカ兵の「善意」を描いているのでしょうか?ワニはガダルカナルの自然(楽園)の一部であり、神の創造物ですから、人間の都合で退治するアメリカ兵の行為こそがむしろ“暴力”的なのではないでしょうか。自然の前では、日本兵もアメリカ兵も所詮同じ侵略者なのです。しかも、あの時点で日本との戦闘はまだ終わっていないわけですから、楽園の復活と結び付けるのもおかしいと思います。
それから“日本兵はアメリカ兵のように「高級なモノローグ」をしない人間として描かれる。”という部分にも甚だ疑問を感じます。高級かどうかは別として、モノローグとは、映画という媒体で用いられる手法の一つであり、登場人物の“行為”とは異なるものです。モノローグをしない人間として描かれるという表現は矛盾してると思いますけど・・・。モノローグをしないから何も考えてないわけじゃないし、日本兵のモノローグがないのは単に視点の問題じゃないんですか。
どうして僕がそんなことにこだわるのかと言えば、この作品には日本兵に対する侮蔑が微塵もないことを強調したいからです。従来の第二次世界大戦を舞台にした外国映画では、ドイツ兵と日本兵は下等で野蛮な生き物として描かれることが多かったような気がしますが、この作品に登場する日本兵は少なくとも“血の通った人間”として描かれていることを僕は評価しています。
ガダルカナルの自然はもっと狂暴だというご指摘については、僕はガダルカナルへ行ったことがないし、この島の風土をよく知らないので、残念ながらコメントできる立場ではないし、美しいか、美しくないかは観る人の美的感覚の問題であって、この映画の映像が美しくないという人がいても反論するつもりはサラサラありません。しかし、僕の美的感覚から言えば、この映画には美しい場面がたくさんあります。人間の苦悩を、逆説的に明るい色調の美しい映像で描くことも映画の一つの手法だし、絶望的な状況にある人間の目には美しい絵ほど残酷に写るのではないでしょか。
確かに自然の映像を映画から切り離して見れば、抒情的かもしれないし、絵葉書のように見えるかもしれない。ただ、一つ強調したいのは、当然ながら僕は映画の話をしているわけです。戦闘と自然と兵士の心象とのモンタージュという映画的な技法を用いることで、“絵葉書”は残酷さを秘めた美へと変わるのです。戦闘が始まる直前に丘陵に光が差し込む場面など、僕は背筋の凍るような美しさを感じました。少なくともCGと特殊メイクに頼って表現される戦争の恐怖より、ずっと映画的ではないでしょうか。、
物量にものを言わせて、大量の火薬と血ノリを使って戦争の愚かさを描くのは、ハリウッド映画なら容易なことでしょう。しかし、マリック監督はそんな安易な方法を用いずに自然の美を描くことで逆説的に戦争の不条理と恐怖を浮き彫りにしています。それを“演説”と感じる人もいるようですが、少なくとも僕の耳には“演説”は聞こえてきませんでした。“演説”とは従来、直接的で押し付けがましいものだと考えます。例えば、主人公が作品のテーマをご親切に文字通り演説してくれる「パッチ・アダムス」のように・・・。
「シン・レッド・ライン」が深遠なテーマを持った作品だと言うつもりなどサラサラありませんが、観客に何も強要しない作品であることを僕は評価したいのです。間接的に戦争の愚かさを語っていても、直接的には何も訴えていないのですから・・・。
血を描くことでしか戦場の狂気を表現できない映画作家よりずっとマリック監督は表現力に長けていると僕は考えます。
長々とこんなことを書きつつも、実は僕自身この映画の素晴らしさの半分も理解できていないような気がするし、作品から感じたことの半分も文章で表現できていないのではないかと思っています。何せ観たい作品がたくさんあり過ぎるので無理かもしれないけど、時間が許せばもう一度劇場に足を運んでこの映画を観たい。そうすればきっと新しい発見がありそうな気がします。
最後に念のために一言付け加えますが、派手な銃撃戦と出血がないと戦争映画を観た気がしないという人や、アカデミー賞にふさわしい“愛と感動の戦争巨編”をお望みの方には「シン・レッド・ライン」は絶対お薦めしません。
パンちゃん(4月22日)
私もくどい人間なので、またまた書きます。(イングマルさんの書き込みに対する言及なので、イングマルさんの文章につづけて並べます。)
「ワニ」については私の説明が足りなかったようだ。私は「ワニ」が日本兵の象徴とは断定していない。象徴とも受け取れるように描かれている、と書いたつもりがだ。
また、「ワニ」の退治が楽園の復活とは私も信じていない。イングマルさんの書いているように「ワニ」もいてこそガダルカナルの自然なのだと思う。ワニ(日本兵の象徴ではなく、本物のワニ)がいてこそ、楽園なのだと思う。凶暴な暴力の共存、暴力が抱えるやさしさがあってこそ自然なのだと思う。ところが、この映画ではワニがいてこそ自然、毒蛇がいてこそ自然というふうには描かれていない。凶暴な自然の美しさというものを排除し、繊細で、透明で、輝かしいもの強調している。これは私から見れば、一種のペテンだ。
アメリカ兵の「善意」は、最後のシーンに象徴されている。アメリカ兵が日本兵をやっつける。そして帰って行く。そのとき海岸に芽吹いたヤシの実がある。それは自然の命の復活の象徴であり、それはアメリカ兵が日本兵をやっつけなくてもありえる映像だけれど、アメリカ兵が日本兵をやっつけたあとに表れると、それはアメリカ兵の行為の結果を表現したものと受け取るべきものだ。(表現と「意味」とは、そのような関係の上に成り立っている。)
またアメリカ兵と日本兵の描き方については、私にははっきりした対比が感じられた。アメリカ兵は神について、存在について自問(モノローグ)し、苦悩する。これに対して、日本兵は神について、存在について哲学的自問をしない。なかにお経をとなえる人が出てくるが、これはお経を知っている人には、彼の哲学的苦悩は理解できるだろうが、知らない人には理解できない。アメリカ兵のモノローグが誰にでも理解できる「論理的言語表現」であるのと比べると、その差は大きい。アメリカ兵にとっては、日本兵は「論理的野蛮」(知性的野蛮)として描かれている。ここには日本兵への侮蔑が明瞭にあらわれている。(私は日本兵を弁護するつもりはないけれど、侮蔑的に描かれていることは明瞭だと思う。アメリカ兵が精神的苦悩をするのに対して、多くの日本兵は死への動物的恐怖を感じているだけの存在として描かれているのだから。)
戦争の描写について言えば、私は火薬と血のりを使えば戦争の愚かさや狂気を描けるとは思っていない。それを戦争映画とも思っていない。
テレンス・マリックが豊かな自然、命の輝き(ワニなどの動物と同時に、セックス、ブランコをこぐ妻)と戦争を対比することで、戦争の狂気、愚かさを表現しようとしたことは、とてもよくわかる。その「深遠なテーマ」(イングマルさんと違って、私はこの映画は深遠なテーマ、巨大なテーマを持った映画だと信じている)はわかりすぎるくらいわかる。むしろ、わかりすぎて困る。そして、私は、この「わかりすぎる」ということに疑問を感じている。本当のテーマは何度も何度も吟味しなければ理解できないようなものだと思う。わかりすぎるから「演説」を聞かされた気持ちになる。
この映画には、凶暴な自然(ワニのいる自然)、暴力の共存としての自然が欠如している。だから私はそれを「絵はがき」と呼び、「抒情」と呼ぶ。
この映画の「美しい」自然描写は、その「深遠なテーマ」をとてもきれいに、繊細に彩っている。飾っている。それはそして、露骨に言えば、単に飾りに過ぎない。「深遠なテーマ」と向き合い、そのテーマをより一層深めるのではなく、「深遠なテーマ」を解説しているに過ぎない。
この映画には矛盾がない。矛盾がないから、力強さを欠いている。矛盾しながら存在する力がない。へなへなだ。貧弱な精神だけになっている。「頭でっかち」だ。
役者が演技をする必要がない。役者の肉体、映画の自然は、「頭では理解できない」不可思議なもののありよう(深遠なテーマ)を、うむを言わせず納得させるものでなくては魅力がないと思う。(これは私の映画観です。)何かわからないけれど、役者の顔を見ていたら気持ちが伝わって来て苦しい、というような作品こそ映画だと思う。字幕を読んでアメリカ兵が精神的苦悩をしている、と理解するような映画は私にとっては映画ではない。台詞だけで人間の苦悩を伝えるような映画は、私には映画を裏切るものとしか思えない。
panchan world
Movie index(映画採点簿の採録)