シン・レッド・ライン

監督 テレンス・マリック 主演 ショーン・ペン、ジョージ・クルーニー、ウディ・ハレルソン、ニック・ノルティほか

ふむふむ(★★★★)(4月22日)
huka1092@yominet.ne.jp
ストーリーも出演者も知らずに見に行ったのだけれど、それが却って良かったのかもしれない。とてもまじめな戦争映画で、というとおかしいけれどきわめてまじめに兵が恐れ、戦い、死んでゆく。戦争は肉体を通じ精神を痛めつけ、死の世界を考えさせる。「木のように死んでゆく。ゆっくりと確実に」というセリフがじわじわと極めて確実に内臓を悪化させている身にはずっしりとこたえた。途中で舞台がガダルカナル島とやっとわかりストーリーが理解できた。家に帰ったら米の高校生の乱射事件が夕刊に大きく報じられていた。犯人らはヒトラーの信奉者とも。
パンちゃん(4月19日)
私がこの映画が嫌いなのは観念的すぎること。観念がわかりすぎること。
映画のファーストシーンではワニが沼に入っていく。このワニは「暴力」(戦争)の象徴、ガダルカナルに侵入して来た「日本兵」の象徴であるかもしれない。沼の水草はワニによってたやすく割れる。しかし、そのワニを包み込むようにしてまた元のように水面を覆う。これは、ガダルカナルの豊かな自然が「暴力」によって破壊されるほど弱々しいものではないということを語っている。
ラストシーンには海岸に漂着したヤシの実が緑の芽を吹いている。これはやはり自然の復元力というもの、あるいは自然界の命の力というものを象徴している。さらにはワニ(日本人の象徴)を退治したアメリカ兵(ワニを捕まえるアメリカ兵のシーンがある)によって、楽園が復活することの象徴かもしれない。
その二つのシーンの間で、人間の「戦争」が繰り広げられる。その人間の暴力を超越して自然は存在する。あるいはガダルカナルの豊かな緑は生き続ける。楽園は存在し続ける。
そう語ることで、この映画は「戦争」の愚かさを間接的に語る。アメリカ兵の「善意」を語りもする。
一方、具体的な人間描写として、戦争中の兵士たちが思うことがモノローグによって語られる。(ただし、日本兵のモノローグは省略されている。日本兵はアメリカ兵のように「高級なモノローグ」をしない人間として描かれる。)それはキリスト教の観念とかかわることばである。神はなんのためにこんな行為を人間にさせるのか、そう問いかけながら兵士たちは自分のしていることの意味を見出そうと苦悩する。死を見つめ深く自分というものを見つめる。
また、ある兵士は妻のことを思い出している。平和な日々。静かな風があり、穏やかな光があり、また肉感的な記憶がある。これもまた、死と向き合った兵士の内面にありようをくっきりと描写する物である。
この映画は戦争と、風土としての自然(つまり豊かな緑やあふれる光)、人間としての自然(愛しあい、セックスをし豊かな時間を生きる)を対比させることで、戦争の愚かしさ、戦争に巻き込まれる人間の苦悩を描こうとしている。
この図式があまりにも露骨に見えすぎる。観念的すぎる。(この観念性を「文学的」ととらえる批評もあるようだが、「文学」とは「観念」とは別のものである。)
この図式的な観念が私には耐えられない。これでは映画ではなく、つまらない演説だ。
その演説の内容(観念)そのものについて、私は、反対しているわけではない。異論があるわけではない。言っていること、語られていることはそのとおりだと思う。まったく正しいことを言っていると思う。
しかし、私は、その「演説」が正しいものであると理解はしても、つまらない、としか言えない。
なぜつまらないかといえば、そこには「美」が欠如しているからだ。
テレッス・マリックの描く自然は確かに美しくは見える。しかし、それは観光絵はがき的な美しさであって、目からうろこが落ちるといった美しさではない。頭で考えれば表現できるような美しさである。
「美」とは本来、凶暴なものだ。見た者の考え方を一気に否定してしまうような暴力をもったものである。
たとえば『地獄の黙示録』の「美」。サーフィン狂いのロバート・デュバルが川岸にパナーム弾を打ち込み、その衝撃で波を起こし、サーフィンを試みる。このとき、燃え上がる赤い炎に身を焼かれる自然、破壊される自然がある一方、その周りにはあいかわらず緑のままの自然がある。火薬の暴力を平然と受け入れる緑の力がある。その力によってパナーム弾の炎はより赤さを増し、その赤さが緑の強烈に磨き上げもする。その矛盾した力の対立が、人間の狂気とそれを超越する自然の力を明確に浮かび上がらせる。
こうしたシーンが『シン・レッド・ライン』にはない。衝撃的なシーン、あ、ガダルカナルという楽園はこんなにすごい楽園なのかということを感じさせるシーンがない。
私は非常に疑問に思っているのだが、テレンス・マリックは本当にガダルカナルであるかどうかは別にして、南の島へ行ってみたことがあるのだろうか。
この映画で表現される緑はあまりにもおとなしい。あまりにも繊細すぎる。まるで北海道の初夏(私は実際に行ったことはないのだが)のように、さわやかな感じがする。(ニュージーランドかどこかで撮影したのではないだろうか。)
最初にワニが出て来たが、そうした凶暴な動物、人間に危害を与えるかもしれないものも含めてガダルカナルの自然があるはずなのに、その凶暴なものが見事に排除されている。人間の都合のいいものに仕立て上げられている。抽象的な「楽園」に成り下がっている。
南の島にあるような、ねっとりした熱気がない。暑苦しさがない。「水」をめぐる問題が少し出てくるが、まるでハイキングで水がなくなったというような感じでしか描かれていない。
日本兵と戦うことも大変だろうが、その前にガダルカナルの自然と戦うこともアメリカ兵にとっては大変だったに違いない。
その大変さが描かれていないから、様々に繰り返される抽象的なモノローグがまるで机上のモノローグとしてしか響かない。北欧のキルケゴールのモノローグ、神への問い掛けですらもっと熱っぽく、苦しいのに、この兵士たちのモノローグは聞く先から忘れてしまうような弱々しいものでしかない。とても強烈な自然と戦い、不気味な日本兵と戦う過程で生まれて来たモノローグのようには感じられない。
私はこうした観念的な映画がとても嫌いだ。一昨年前に公開された『エバンゲリオン』も観念を抒情的映像でごまかしたとんでもない作品だったが、この『シン・レッド・ライン』はそれと同じである。
観念そのものに到達するのではなく、観念を抒情的映像でごまかし、「観念+抒情」が「文学」(崇高な芸術)であるかのように装っている。
こうした思考のあり方は観念をも抒情をも裏切っているし、もちろん映画を裏切っている。
ドット(4月19日)
n-tomoo@mtj.biglobe.ne.jp
パンちゃんがあおるので、また書きます。ケンカの種をまいてるかもしれない俺。
イングマルさんからアカデミー賞最有力候補は常套句とのご指摘があり、作品とこの種の宣伝は分けて考えるべきだとのこと、さらに制作者側が賞の獲得を意図していないこと、などご説明がありました。
まあ、感想の中で「だまされた私も馬鹿だけど」と書いてあるし。ただ、あなたの意見からすると、いわゆる制作者側というのは配給会社の宣伝に関してまったく責任がないというわけですね。ほんとにそうですか?それと、わたしはその世界にまったく詳しくないので制作者側というとつくった人々と配給会社を分けて考えることができなかった。その情報については勉強になった。
それと賞の獲得を意図してないことがあきらかかどうかは、作品の内容から知るのは不可能だと思いますけど。これまでのアカデミー賞作品の流れから「シンレッドラインがアカデミー賞の獲得」を意図してないとするなら、どうして、候補には選ばれたのでしょう?ご自身も不思議に思っているようだし。意地悪な質問だけど、そうなるとあなたはこの映画が候補に選ばれた時点で絶対に無冠でおわると確信していたのですね。
実はわたしは職業柄この監督のある種の癖や経歴が想像できるのですが、ヒマがあったら調べてみます。できれば前の作品も見て。ビデオででてるかな。
イングマル(4月18日)
furukawa@joy.ne.jp
「シン・レッド・ライン」を上映している劇場に着いてまず驚いたのは、客席が超満員だったことです。「プライベート・ライアン」の大ヒットが呼び水になったようですが、明らかに勘違いして観に来てる人がたくさんいるんじゃないかなあ〜と思っていたら、案の定、上映中に荷物を持って席を立つ人が数名いました。
彼らは何を求めてこの映画を観に来たのだろう?8名が命をかけて1人の健全な若者を救出するといった類いの美談を期待したのか、それとも痛快無比の戦争アクションでストレスを解消したかったのかは定かでありませんが、いずれにしても通俗的な戦争映画をイメージして観に行った人には2時間51分は余りにも長すぎたようですね。
この映画を真っ向から否定する人もいて当然だと思います。だた、ここの今までの投稿を読んでいて首をかしげたくなったことが幾つかあります。まず、トッドさんのご意見の中の「アカデミー賞最有力候補」のふれこみに関する記述について一言。
「アカデミー賞最有力候補」というのは映画の広告では常套手段であって、「プライベート・ライアン」はともかく、例えば「モンタナの風に抱かれて」や「レ・ミゼラブル」など主要部門に一切ノミネートすらされなかった作品でも、予告篇では堂々と「アカデミー賞最有力候補」と大風呂敷を広げてましたよ。このような誇大広告を肯定するつもりはサラサラありませんが、「シン・レッド・ライン」の広告を批判するなら、怒りの矛先は配給会社の松竹富士に向けるべきであって、作品本編の評価と結び付けたり、創った側を許せないというのは筋違いだと思いますけど・・・。余談ですが、そう言えば「マイ・フレンド・メモリー」を勝手に“マイ・シリーズ”なんてお間抜けなシリーズにしてしまったのも松竹富士でした。
話を「シン・レッド・ライン」に戻します。製作者が本気でアカデミー賞を狙ったのなら、こんな難解でつかみどころのない映画はでなく、起承転結がはっきりした、もっと解りやすい映画を撮っていたのではないでしょうか?
過去の受賞作を見れば、この作品がアカデミー賞を取るようなタイプの作品でないことは明らかです。無冠に終わったことより、むしろ7部門にノミネートされたことの方が僕にとっては意外でした。いずれにしてもテレンス・マリック監督をはじめ、現場のスタッフがアカデミー賞を強く意識して創った映画とは考え難いと思いますけど・・・。
ところで僕自身の感想ですが、ガダルカナル島の戦闘そのものより、極限状態に置かれた兵士たちの内面を克明に描いた極めて内省的な戦争映画でしたね。
確かに一つ一つの場面を意味付けしようと思えば、難解な映画ですが、僕は映画を深読みしない、と言うか深読みできない性分なので、この作品のテーマは至ってシンプルだと考えます。劇中に「神の創造物で殺し合うのは人間だけ」という台詞がありますが、豊かな自然の営みの中で人間だけが殺し合わなければならないという不条理を、様々な視点から考察した映画というのが僕の受け止め方です。詳しい状況説明もなければ、日本が悪だとかアメリカが正義だとか、そんなことを映画は一切語らず、スクリーンに映るのは、ただ豊かな自然と、戦わなければならないという状況に置かれた兵士たちの姿だけです。
また、ガダルカナル島が舞台であることには大きな意味があると思います。なぜなら豊かな自然に恵まれた、この世の楽園のような美しい島だからです。少なくともノルマンディーが舞台ではこの作品は成り立たないと思います。
随所に挿入される自然の描写が映画から遊離していると考える人もいるようですが、この自然の描写こそが、人間のみが殺し合うという不条理をくっきりと際立たせているのではないでしょうか。
また、確かに戦闘シーンのインパクトは「プライベート・ライアン」の方が数段上だと思いますが、「シン・レッド・ライン」は戦闘そのものより、むしろその前の緊張感や勝利の後の虚脱感に力点が置かれていると感じました。
戦闘が始まる前に、丘陵に光が射す場面など美しい場面である同時に、映画的な緊張を高める上で実に効果的だと思います。
また、戦闘シーンで日本兵がなかなかスクリーンに姿を見せません。アメリカ側の視点に立てば、敵の姿が見えないうちは日本兵をいかなる邪悪な存在にイメージすることもできますが、勝利をおさめて実際に日本兵の姿を見たとき、敵はモンスターでも殺人マシーンでもなく、生身の人間であったという至極当然の事実を目の当たりにします。アメリカ兵を包むのは歓喜でなく、虚しさであり恐怖感なのです。
また、登場する日本兵については、従来の“大和魂”“天皇陛下万歳”“カミカゼ”といったステレオタイプな描き方がされていない点を評価したいと思います。
確かに不親切で解り難い作品ではありますが、安易に感動を誘う通俗的な戦争映画でなく、魂に訴える映画であると僕は考えます。
ちなみにテレンス・マリック監督の作品を観たのは今回が初めてです。この作品を観る限りでは神格化されるほどの巨匠であるかは疑問ですが、観客に媚びない独自の演出スタイルは大いに評価したいと思います。他の2作も観たくなりました。
タカキ(★★★)(4月16日)
TakakiMu@ma2.justnet.ne.jp
何故、みんな、こんなに戦争映画が好きなのだろう・・・・。私の観たシン・レッド・ラインは、そのような問いから始まっているように見えた。
そして、テレンス・マリックは戦争を題材にしておきながら、「戦争映画」ではないものを撮ろうとしているようだった。戦争における戦争以外のものにスポットを当て、なにやら崇高な(宗教がかった)メッセージを導こうとする。戦争の不条理の先に、何か曖昧で神秘的な「真理」があると信じて・・・。果敢な挑戦ではあるが、無謀だ。当然のごとく、失敗に終わった。結局のところ、これは「戦争文学の映像化」にすぎない代物だった。「戦争映画」ではないものを作ろうとした結果、「映画」ですらないものを作ってしまった。力作ではあるが、好きになれない。はっきり言って、予告編で観た「アイズ・ワイド・シャット」の方がよっぽど印象深かった。そう、スタンリー・キューブリックといえば、宇宙の彼方に何か曖昧で神秘的な「あれ」を見つけちゃった男じゃないか・・・・・・!!!!!
ドット(4月16日)
n-tomoo@mtj.biglobe.ne.jp
シンレットラインについて再投稿
ちょうど一週間前に見に行ったが、やっぱりまだ怒りがふつふつと燃えたぎっている。パンちゃんには申し訳ないが、愚痴であることをお断りして再投稿します。
いろんなサイトでこの映画への賛辞として「文学的」だとか「映像美」だとか、おおまかにまとめると、「論理」で観るのではなく「感性」で観るというか、まあ、今風にいうと右大脳半球で観るというか、つまりそういうことでしょうね。観る人によって、捉え方はそれぞれ異なります。美しいと感じた人はそう感じる自由があるから。
わかる人にはわかるというつもりの映画なら私などまったく、蚊帳の外ですね。
この映画をみようと思ったのは単純に予告編にそそるものがあったからです。そして「笑っていいとも」に主演俳優の一人がでていて、プライベートライアンを越える戦争映画とのたまってました。
これは、というので封切りの朝一番で10分前に、かまえてすわって、いまかいまかと待っていました。「一体いつになったら盛り上がるのだろう」と待っていたのですが、ついに何も起こりませんでした。
これまでいろんな映画をみてきて、予告編やふれこみでどの程度の映画かわかるつもりでしたが、そしてその程度の期待でみていましたがまったく裏切られました。
そんなよこしまな目でみてといわれるは覚悟してますが、制作側は創った以上「赤字」はなんとしても避けたいでしょうから、あんな宣伝になってしまったのではないでしょうか?しかし、アメリカのおもしろいところは、やっぱり「プラグマティズム」なんですよね。アカデミー賞は最有力「候補」で終わった。ドイツ?の映画賞以外何もとってないのでは?つられて、日本もアカデミー賞をだすかな?
おじぎ草のシーン、「戦いのさなかにふと遊び心が浮かんだ」兵士の姿でもいいたいのでしょうか? たぶん、こんなわざとらしいシーンが描かれることは途中から予測してました。それまでの、不自然な「日常生活」の描き方からして。もしかするといわゆる日本人的でない人にはこれはうけたかもしれない。よく言われている西洋と東洋の差というか。自然と同一化した民族か対立した民族かで反応は異なるかもしれない。しかし、ひとまず、前者の民族に属するらしい私にとってはわざとらしいとしか感じなかった。
夕日のシーン、ブランコのシーン、なぜこんなにわざとらしいと感じたのだろう?たぶんどこかでみたことのある映像ばかりだからだ。そして、過去の記憶の方が美化されて残っている、それに比べて、、、となってしまう。加えて、おそらく虫や木の根っこを食べて命をつなげていたであろう日本兵の心情を思うと、それは映像の中でも過去の歴史の中にしてもそうだが、とても自然を「ふと感じる」気にはなれなかった。空想にすぎないが、過酷な生活を続けてきた彼らにとっては生きるとか死ぬとかどうでもよくて、地獄から逃れたい、それだけだったのではなかろうか?アメリカ人からすれば、「とりあえずここでの戦いが終われば一休みできる」かもしれないが、日本兵はこの地から去るときは間違いなく死ぬときである。「民主的な」アメリカ人は上官の命令に背いても罷免されて母国に帰るだけかもしれないが、日本兵の場合それはやはり死を意味する。
「俺の友達を殺したのはおまえかぁ。」と詰め寄っていくシーン、日本兵も同じく横の関係を大切にする人種だといいたいのだろうか?しかしこれは当時の日本兵らしくない。外国人にはまったく理解できない思想統制下での日本兵の心情、なにしろ、すべて「天皇陛下のため」なのだ。だから、「にくいアメリカ兵」を倒すとしたら、やはり「陛下のため」を臭わせるセリフの方が納得がいく。「菊と刀」が書けたほどの国なのに、制作者は学習が足りない。
そして、今回もっとも攻撃したいのは、妻との愛しき日々の回想シーン、これがなければもう少し映画として引き締まったのではないかと思う。女の気持ちはそんなに移ろいやすいかな、あれだけ愛し合って?(男が一方的に愛してただけ?)友達でいましょうといえるかなぁ。しかも恋人じゃなくて、「妻」ですぜ。音信不通ならまだしも、やっぱり手紙の往復が頻繁にあるでしょ。それでだいぶ心が和むはずだ。にもかかわらず、「ともだちでいましょ。」ですか。女ってそんなに冷たいか?まだウーマンリブもないアメリカだよ、一応キリスト教徒でしょ?部分的挿話としてのドラマにも失敗していると思う。
さらに捨てられた男が「裏切られた」感じを必死に演じていたが、例の手榴弾のシーンと一緒で悲しかった。
この映画の滑稽さは内容がバラバラなのに、演者の演技がしっかりしていることです。一つ一つ、瞬間芸としては納得がいかないでもない。しかし、作品としては成り立たない。
右大脳半球でとらえることができた人々には申し訳ないが、やはり私はこの映画で「感じること」はできなかった。
なぜ、ここまで怒っているのか?やっぱり「アカデミー賞最有力候補」のふれこみが許せないからです。だまされた俺も馬鹿だけど、まったく、創った側の意図が見え隠れして許せない。
最後にうえやまさん、同調ありがとうございます。「シェルターリング・スカイ」機会があったらみたいです。
ダグラス・タガミ(4月15日)
tagami@nick-net.co.jp
皆さんの感想を読んで、再度書きます。
パンちゃんの言っていることもなんとなく理解できます。
「美しい画か?」は、個人の主観なので皆、違うでしょうし。
私なりに感じたのは、今回の視線は、「神」のような存在からの 視線だと思いました。自然や自然に対して素直に生きている人間、 戦争という愚かな殺戮行為を行う人間、そして動物たち。
神からみて、「愚かな人間達の争い」の無常感をあのような自然の 画を対比的に挿入していたと感じました。
そして、その真っ只中にいて、その語り部となっているショーン・ペン がいました。
これがガダルカナルである必要は、なかったのかもしれません。
でも、そこにテレンス・マリックは自分の主張を出したところが、 テレンス・マリックらしさではないのでしょうか。
いつもは、この手のわかり難い映画は、拒絶するのですが、 今回は、わかりたいと思ってしまいました。不思議です。
ドットさんが書いていましたが、「手榴弾の誤爆はお笑いか?」 と書いていましたが、私はそうとりませんでした。
人間の行いなんて、そんなものと感じました。誤爆して、自傷する 人もいるでしょう、間違って味方を撃つ兵士もいるでしょう。
生死の境で戦っているときに、愛している人は寂しいというだけで、 浮気して離婚を突きつけてくるのです。
そんな「愚かさ」に満ちた世界を素直に見せていると思いましたが。
それも生死の境の極限の状態の中に。
所詮、フィーリングが合わないとすべてが面白くないというパターン があると思います。この映画は、どうもそれが極端に出ている感じが しています。
私は、いつも他のひとの感想を読むとちょっと感想が変わるのですが、 今回は、揺るぎません。
「テレンス・マリック。あんたの言いたいことは判ったよ。」と、 声をかけて上げたいほどです。はっはっは。
誰が何といおうと、今回は★★★★です。
ただし、個人的にG.クルーニーのあのマヌケな役は納得していません。
もう少し、良い役をやってほしかったですねぇ。
とみ(★★★★★)(4月14日)
tomy@tri-vision.com
テレンス・マリックというこの監督、私はこの映画が来るまでその名前も知りませんでした。
あんまり前評判が高い様子なので、前作「天国の日々」をビデオで観てから、劇場へ行きました。観終わった感想は、ズバリ「今世紀最後の映像文学」なのではないか、ということです。
舞台となったあの美しい島は、神の末裔が大自然と共に暮らしている、いわば地上の楽園です。
楽園、あるいは天国、日本的な言葉では浄土・・・ふつう私たちが考える楽園とは、すでに観光地化されてしまったものとか、死後の世界、観念のなかの世界などを思い浮かべます。
確かに身の回りの現実を見れば、私たちは「楽園」とはほど遠い場所で生活しています。
環境破壊や民族紛争などの大きな問題から、日常的なストレスや交通事故など身近な問題まで、とても今自分のいる場所が「楽園」などとは思えません。
「しかし、」と、テレンス・マリックは言います。
「楽園ってどこにあるのだろう・・・もしかしたら、今自分のいる場所がそうかもしれないじゃないか。楽園にいるのに気付いてないだけかもしれないじゃないか」と。
そうなのです。
「天国の日々」のR.ギアは、天国のような平穏な暮らしを手にしながら、そこが「天国」であるとは少しも気付きませんでした。
この映画でも、楽園を舞台に戦争が繰り広げられます。
「なぜ人は、楽園にいることがわからないのだろう・・・」
「なぜ人は、楽園を自ら手放すような行いをするのだろう・・・」
そして人は、失ってはじめてそれが天国の日々だったことを知るのでしょう。
そして人は、過ちをおかした後でそれが過ちだったと気付くのでしょう。
遠ざかる島影のシルエットに、勝利の喜びはありません。
闘いに負けた以上の、重く、苦い、とてつもない悔悟が鉛の海のように胸を満たします。
しかし、テレンス・マリックのまなざしはとてもあたたかいのです。
「それが人間の姿なんだよ。気付いた時から、気付いた事から、一歩一歩やっていくしかないんだよ」と、あたたかく見守っています。
このあたたかさと、決して声高ではないけれど、その崇高な理念、それゆえ、数多くのスターが協力を惜しまないのではないでしょうか。
パンちゃん(★)(4月13日)
予告編では美しく見えたガダルカナルの緑は、美しくなかった。この点に私は一番がっかりした。
ガダルカナルの天候がどれほど急激にかわるものか知らないが、連続するシーンで光の感じがかわるのもよくない。時間をかけて、同じ光の感じを表現しないと連続感が出て来ない。風景に連続感がないから、戦闘シーンも緊迫感がない。一つの作戦行動という感じがしてこない。『プライベート・ライアン』の最初の30分の戦闘シーンは30分で撮ったわけではないのに30分そのものが連続して感じられ、その連続感ゆえに30分が5時間にも6時間に感じられるのと比べると、この違いはどうしようもない欠点である。完全な手抜き撮影である。『プライベート・ライアン』が濃密な時間であるのに対して、『シン・レッド・ライン』は濃密な感じが全くなく、そのためにだらだらした感じしかない。
もちろん美しいシーンもある。たとえば兵士が身を隠しながらオジギソウに触れる。葉っぱが兵士の指先から順番に閉じて行く。その自然の営みの不思議さと緑の美しい変化。開いていた葉が閉じるときの緑の微妙な変化の美しさ。
しかし、その美しさが作品そのものと深くかかわってこない。断片的に美しいだけである。ブランコのシーンも非常に美しいし、酔ってしまいそうな気分になるが、それも断片的である。
そうしたシーンが作品と深くかみ合わず、断片に終わっているのは、作品の根底にある精神が死んでしまっているからである。
この映画に不気味な部分があるとすれば、その登場人物の精神が最初から死んでしまっている点である。過酷な戦争を通して人間性を失い、その精神が死んで行くのではなく、彼等の精神は最初から死んでしまっている。戦うこと、戦いの場所が命にあふれる自然であることについての感覚の動きが描かれていない。豊かな緑、美しい自然のなかで非情な戦いをしなければならないことに、誰ひとりとして苦悩しない。彼等は最初から緑の美しさに感動するこころを失っている。彼等の精神は最初から死んでいる。妻の思い出も、自分の命と切り離された幻想でしかない。妻の姿がエロチシズムとかみ合わない。途中に「女とセックスをしていないが、それが苦痛ではない。そんな気持ちになれない」ということばが出てくるが、そのことばも苦悩として響いて来ない。彼等の精神は、命あるものに対する感覚を最初から欠いている。
これではガダルカナルという場所である必要はない。ガダルカナルの戦いである必然性がない。場所がどこであってもいい。現代のニューヨークが舞台の抽象的な戦争でかまわないことになる。
主人公たちは何やら抽象的なことばを吐き散らすが、そのことばが抽象的であるように、この映画は抽象のもつ貧弱さで満ちあふれている。その抽象の貧弱さを、たとえばオジギソウやブランコ、あるいは海ですもぐりする子供たちのシーン、美しい抒情的なシーンでごまかしている。
抒情的なシーンを挟むことで、兵士たちの精神は美しいものを甘受する能力がある人間だと主張するようでもある。そして、その主張は、「私は純粋な青年に苦悩を与える戦争に反対である」というメッセージへすりかえられようとしている。
「反戦」をそのような貧弱な抒情に頼って表現してはならない。
ダグラス・タガミ(4月12日)
結構、衝撃的でした。まだ、内容を咀嚼できていませんが、 今の感想を書きます。
まあ画が信じられないほどきれい。中学の時、訳も分からず、 デートで見た「天国の日々」の夕焼けを思い出しました。
こんな戦争映画は見た事無いです。戦闘シーンは、数多くありますが、 そこでの勝ち負けという単純なものではない事がはっきり判りながら 見ていく事が出来ます。あのあおりで映していく手法が何とも言えません。
ジャングルの木々の木漏れ日、恐怖や疲労の兵士の表情、光の陰影が 余計に心にしみてきます。
原住民の穏やかな生活、その裏での戦争による空しい死、戦争の空しさ、 愚かさが伝わってきました。
劇中で流れている歌が流れると、何故か涙がこぼれそうになりました。
すごいのは、劇中では一切の説教臭い説明セリフが無い事です。
現実を斜に構えてみているショーン・ペンの曹長の心情と主役の ジム・カヴィーセルとの会話で見ている観客に訴えています。
ある意味、それぞれの人の心情や立場での命令や発言にはリアリティを 観じました。
ただ、見ていて複雑だったのは相手が日本ということです。当然、 映画は主役等に感情移入してみてしまうのですが、相手は我が国。
確かにこの映画は、そんな敵味方の勝った負けたの話じゃない事は 判っていても、自国の我々の祖父の世代の人がああやって戦って いたのだ、ということを感じながら見ていました。ですから、主役が 撃たれるのも嫌でしたが、日本兵がバタバタやられていくのもとても 何とも言えない感覚で見てしまいました。
まとまりないですが、大局的な思想と自国の戦争という2つの視点で 見てしまって収拾つきません。皆さんの感想を読んでから、また。
うえやま ひろし(4月11日)
nagaodor@mub.biglobe.ne.jp
ドットさんの御感想に100%同意します。待ちかねて朝の一番にかけつけて、大損をしました。おかげで半日を棒にふりました。こんな批評が載る新聞雑誌がないということは、戦前の言論統制よりなおタチの悪い傾向にあるのではと、ひそかに案じます。
逆作用でしょうか、その夜、大阪のNHKTV- BSで放映されたイギリス映画「シェルターリング・スカイ」は、素晴らしかったです。なんでもない中年夫婦のサハラ砂漠旅行、その乾燥しきった情感と美しい砂漠の背景とがみこ゜とにかみ合っていて、いゃあ、感動しましたなぁ、七十三にもなって。
プライベートライアン以来の御無沙汰でしたが、いつも、みなさんがたの、大新聞論説以上に論理を尽くされた感想文に感心しています。
ドット(4月10日)
n-tomoo@mtj.biglobe.ne.jp
シンレッドライン、星なし。訴訟ものです。
かなり期待してたのに。
まず第一に問題にしたいのは、この映画は何をテーマにしたかったのだろう?
テーマをあえて求めるつもりはないが、それなら派手なアクションシーンが満載で観客を刺激に渦に巻き込んだかというとほとんどそんなシーンはなかった。アクションの撮り方にしても何ら斬新なところはなかった。
ならば哲学的、芸術的主張として観客に伝えるものはあったのか?俺にはそれがまったく見えなかった。これか?これか?と思って、考えようとするのだが、思考が入りこみかけたとたんにカットが入る。おまけに主役級の俳優が随所に使われているが、それぞれがそれぞれの雰囲気を醸し出すまでもなく物語は進んでいく。というより、時間が過ぎていく。その時間も映画の中の、ストーリーとしての時間ではなくて、現実に自分の左腕につけてある時計の針が進むというだけの時間だ。
おもしろいとかおもしろくないという次元ではなくてとにかく苦痛だった。3時間近くも暗い部屋の中で拘束されていた気分だ。
第二に状況設定の説明が全くない。映画のパンフレットをあらかじめかっておけとでもいうのだろうか?ただ一度、出世に執着した高官が「ガダルカナル、、」のセリフを吐くだけ。
第三に映画の最初で島の人と生活をともにしている「西洋人」の姿が結構、冗長に描写されているが、島の女の人のセリフがあまりにもきれいな「英語」だった。あんな英語を使うだろうか?映画を作る上での手段とすれば、なぜ外人と、現地人の交流を描く必要があるのか、まったく理解できない。
第四に「本年度アカデミー賞候補ナンバーワン」のふれこみは詐欺同然ではなかろうか?
このふれこみで集客するつもりだったのか、あまりの駄作で金を取り返すために外国で公開するためにプロパガンダにしたのではなかろうか?そんな腹黒い考えまで疑ってしまう駄作だった。
第五にプライベートライアンと比較する向きがあるようだが、論外である。
おまけ、腰につけていた手榴弾を誤ってぬいてしまって死んだ兵士の描写、ほとんどお笑いの世界だと思うが、真剣に対応する兵士の姿が、というか俳優の姿がなおのこと哀れだった。
この監督、人格まで攻撃したくないがちょっと病的なものを感じる。観客の一人としてしばらく怒り狂って寝られない。
Naomi(3月25日)
naomi_k@pb3.so-net.ne.jp
「貴様らも死ぬんだ」死に直面した日本兵の台詞が、この映画の世界観を象徴している。
決してわかりやすい映画ではない。筋の通った一つのストーリーがあるわけではない。これと決まった主人公がいるわけでもない。視点は揺らいでいるし、ヘルメットをかぶった兵士達の顔も見分けづらく、混乱してしまう。スターが多数出ているとはいっても、メーンキャストは無名に近いので、余計見分けづらくなってしまう。これほど評論しづらい映画もないかもしれないし、ストーリー性を求める向きには訳の分からない映画に映るだろう。
しかし、打ちのめされるような映画である。
息を呑むほどの美しい映像と詩的な独白の数々。
ガタルカナル島の死闘については、昔、歴史の授業で習ったが、日本軍が玉砕したことしか覚えておらず、あのような美しい島だとは夢にも思わなかった。
戦闘は激しいが、行軍する兵士の横を原住民がすれ違い、血が流れ断末魔のうめき声がする横で、鳥の雛が孵る。光と風で波打つ緑の草原の中、地を這うように兵士が前進する。弾が当たり倒れても、離れてみると何も変わった様子もない。そして、原住民達は変わらぬ暮らしを続けているように見える。こんな美しい世界で、一体どうして人間の心に邪悪なものが生まれたのだろうか?ウィット二等兵(ジム・カヴィーゼル)は問い掛ける。
兵士達はみな一人一人が心の中の声で、それぞれの思いを語る。
誰がどの台詞を話したのが、この際どうでも良くなってくる。戦場にあって思うのは、国のことでもなく戦いのことでもない。この世の中にある自分という小さな存在だ。
そして、目の前に突きつけられた「死」。絶対的なものは、この自然と、そして必ず訪れる「死」だけである。
ショーン・ペン演じるウェルシュ曹長は言う「どんなに優れた兵士でも、生き残れるかどうかは運が決めることだ」と。「死」は、個人の戦闘能力とか才能とは無関係にやってくるものだ。どんなに正義とは何かを語っても、「死」の前では空しく響くだけである。戦闘の中では、人間の理性というものも狂気に駆り立てられ、降参する日本兵を何も考えず虐殺してしまうほど脆いものである。戦場では、人間の精神も正気と狂気の境界線にある。狂ってしまった軍曹の台詞「兵士なんて土くれ、雑草」に過ぎないのだから。「われわれは、同じ一人の人間が異なった顔をしているだけ」で、大自然の中ではごみのような存在、やがては土に還るだけだ。
そんなちっぽけな存在だけど、一人一人に魂というものがあり、心がある。闘うことの意味を探している。だから、主人公というものはこの映画には存在しない。
兵士たちが死に直面したとき、つまり「生」と「死」を隔てる細い赤い境界線を越えるとき見る光景がその人の目線で描かれているが、それは青い空と眩しい光、大空を舞う鳥たちだ。そうやって、人は自然に還っていくのだ。
ここで、自然を破壊し、人の命を奪う「戦争」への憎しみが、すべてを超えて浮かび上がってくるのである。
こういう作品を観ると、生きることの意味を考えるよう、突きつけられたような気がする。
竹本 協平(3月11日)
takemoto@unicoop.co.jp
太平洋戦争のターニングポイント。海戦のそれが、ミッドウェーならば、陸戦のそれは、ガダルカナルでしょう。こんな小さな島を巡って、昭和17年8月の米海兵隊上陸から、昭和18年2月の日本軍の"転進"まで、半年間も、激戦が続いた訳ですから。よく、兵力を小出しにした日本軍、補給を軽視し、制空権ダRじ¬気@⊆k任瞭擦鯀「鵑斉ノ楫海个C蠅氈」D蹇璽坤▲奪廚気譴泙垢氈ネ瞳海眄鑪テ「砲蓮⊃堯垢亮最圓鬚靴討い泙后C修諒佞盍泙瓩董▲」瀬襯D淵襪氈「海譴C蕁▲汽ぅ僖鵝▲譽ぅ董⇔臆d隋ーe譴搬海@チ蝋「僚シ呂鵬瓩「覆い海函ナ案「肪屬C覆「蕁ナ匕C靴燭い隼廚い泙后」
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