16歳の合衆国

はせ (2004年9月9日)
 人と人とが相互に影響しあう。直接の関係がない場合は、片道通行的に影響を受けたり与えたりする。たとえば私は嘗てある特定の人々から影響を受けた、あ るいは現に受けつつあることを私なりに知っている。だが必ずしもその影響を正確に評価できているとはかぎらない。とりあえずは直観として影響そのものを 知っているとしても。また私は知る知らないに関わらず、特定の人々に何らかの影響を与えているだろう、と考える。どんな風に影響を与えているのか、また影 響を受けたある人が、その影響を正確に自己評価できているか、それらの全容をこちらからは、とうてい知り尽くすことは出来ない。ひとりひとりが誤解に気づ けば修正して、正確さに近づくことはできる。だがそうする間にも、人と人との相互影響は日々形成される……。
  人に影響を与えない人なんていない。どんな平凡な人物でも、たとえば家族という枠のなかに常住するだけで、何も喋らなくてもすでに影響を与えている。 また生者ばかりでなく、死者もまた影響を放散する。あらたに死者に加わった(殺された場合もある)というただそれだけで、身近な人々に深刻な影響をもたら すことがある。また影響が深刻であればあるほど、当然そのさなかにある人の精神や行動に変化をもたらしかねない。逆に、変化を意識的にきらって踏みとどま ろうとすることもあるが。
  
  この映画は少年による殺人事件をとりあげているが、そういう極端な行動一つとっても、その伝播する影響は人によってさまざまに異なる受容のされ方とし てあらわれる。特に、若い登場人物たちが、周囲の人々や環境からこうむる影響の受容の仕方が、事件以前に異様だ。誤解するのではない、多く正確に受け取り ながらも、あまりにも鋭敏で堪え性のないところが異様なのだ。影響を無化できず、あるいは追いつくことができずに、不可抗力的に心身内にどんどん蓄積して しまう。そして、それに圧倒されるのか、抵抗を無意識的に試みた結果なのか、気がついたときには殺人に及んでしまっている。そういう少年が、映画の最初に 登場する。直情径行という言い方はまったく正確ではない。さらにそのことがまたあらたな影響力となって、特に、被害者の家族や周辺もふくめた若い人たち に、同じように深刻に伝播してしまう、そういう構成になっている。そして、最初の少年ではない別の人物による第二の凶行が起こってしまう。
  特に第二の凶行については、犯人と私たち鑑賞者はまったく同じ出来事の推移を見守っているのだから、まさかそれらのことが凶行の動機たりうるとは、私 たちの「通常の感覚」ではちょっと信じられないのである。私たちが映画を鑑賞する側で、第一の殺人の影響を登場人物たちのようには身近には受けないとい う、当たり前の前提を差し引いても、やはり信じがたく、茫然とする。いわば、同じ映画を見て私たちとはまったくちがう影響のされ方をする人物が、スクリー ンのなかにいる、と言っても大袈裟ではない。新聞記事などで、少年にかぎらず凶悪犯罪の動機の「希薄」さに私たちはしばしば唖然とするが、そのときと同質 の驚きを、映画館のなかで体感させられるのだ。うんざりすることでもあるが。

  私たちの身内やごく近い範囲に殺人者かその被害者がいない場合、私たちは殺人事件に巻き込まれた家族の感情の高ぶりや落ち込みを、とても自分の元に引 き寄せて共有することはできそうにない。想像はしてみるがとても及ばないし、拒否反応のようなものがどうしても働いてしまう。だから逆に、その無縁な分だ け冷静になれて、事件に巻き込まれた人間の心の物語に近づけるのではないかと、ともすれば思ってしまう。興味本位かもしれず、第三者たりえていることの呑 気さでもあろうか。だがこの映画は、そういう興味をまったく満たしてくれないどころか、最後まで、そういう第三者的立場から、椅子に縛り付けられたように 逃れられない仕組みになっている。これは正直苦痛だし、それが作り手の狙いだとしたら、見事に嵌っている。
  
更生施設に収容された少年が、教官を前にして自分を語る。事件について「何ひとつ覚えていない。」という。また、生い立ちから事件に至るまでの体験をふり かえる。祖母の死、両親の離婚、ガールフレンドの不安定な言動、ホームステイ先の夫人の同情すべき事情、それら接した出来事すべてが、悲しみとして心に蓄 積された。神の無力を痛感した。そして、そういうものの作用で心身が限界状態になりかけたとき、不幸にも、知的障害者の年下の少年としばらく一緒にいる時 間ができてしまった。彼の目にはその少年が悲しみの極としか見えなかった……。こんなところだろうか。だが、その語りは私には類型的な気がして、飽き足り なかった。私がこの種の映画に期待されがちな「心の闇」の解明をじりじり待ったからだろうし、犯罪に個性をもとめたからだろう。それに少年役のライアン・ ゴズリングという俳優も好きになれなかった。語り口には正直さが見て取れたし、おとなしく理性的だ。おどおどする様子、空とぼけたような表情も、そういう ものかもしれないなと感じつつも「肩入れ」できなかった。これは私が映画的ヒーローを無意識にもとめたからだろうか。殺人者だからといって、それをもとめ られなくはないのが映画の特権であろうが、ここで私の興味はまず頓挫する。だが、ふりかって「類型的」だからといって、リアリティがないとはいえない。
  
  逆に教官役のドン・チードルは、少年に対してぞっこんであることが見て取れる。彼が小説家志望で、少年の話をネタにして書きあげたいからだ。そのため 施設の内規を破ってまでも、ノートを与えて秘かに書かせたり、毎日のように二人きりでの面会をする。さらに、何故こんなことをながながと撮るのかと、訝れ ずにはいられないのが、彼の私生活上での恋愛の経緯だ。彼は嬉々として「合法的不道徳」を楽しむ。思うに、彼が犯罪少年ともっとも接する機会が多いにも関 わらず、一番関係がうすい、影響をわずかにしか受けないという皮肉がここにはある。見ていて、横道にそらされたようで退屈なのだが、教官こそは私たちと同 じ第三者的立場を象徴するのだと、見終わって数日経て納得できた。当の少年のみならず、多くの犯罪少年と彼は日々接している。それは悲しみを間近に覗き込 むというよりは、仕事なのだ。更生のマニュアルもわきまえていると高を括っているのだろう。
  
  だが、そのようなリズムのちがう教官が映画の中央に居すわるからこそ、ライアン・ゴズリング以外の少年少女の事件の影響による行動変化、堕落がより いっそう痛々しく映る構造になっている。殺された障害者少年の二人の姉妹とその周辺の少年がそうだ。彼らはまるで世界とのつながりの糸が切れたように、さ まよいはじめる。個々の「心の闇」の説明は省略されるから、私たちは彼らの行動や表情の変化を後追いするしかない。だから「いきなり」凶悪犯罪が起こって しまう印象になる。塀の外にいるから心のケアもない。親たちは一様に踏ん張るのだが。
  
  この映画は少年犯罪の警告というよりも、アメリカ社会の経験を表現したものだと思う。同じものを見、同じ場所に住んでいても、出来事に対する反応、そ の影響のされ方が大人と少年少女ではまったくちがう。彼らは脆く、気づいたときには転落してしまっている。個性よりもそれは全体性で,大人は彼らに取り囲 まれて生活しなければならない、彼らのことを考えなければならないが、答えが出ない。出たとしても予防にはつながらない……。そんな、日本よりも一歩「進 んで」しまったアメリカ社会の、犯罪も含めた若年層の深刻な現状を垣間見る思いがした。
  うつくしい映像がない、言葉=セリフが過剰である。それらを付け加えるまでもなく、映画的悦楽にはほどとおいが、臨場感はあり、貴重な苦みが残る。