宋家の三姉妹

監督 メイベル・チェン 主演 マギー・チャン、ミシェール・ヨー、ヴィヴィアン・ウー、チャン・ウェン

狗東西(★★☆)(1月15日)
ri4s-armz@asahi-net.or.jp
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 激動の中国近代を生きた、実在の有名な三姉妹(といっても、私は長女につい ては知らなかったが)を題材とった、言ってみれば「面白くないわけはない」映 画。
 それだけに、見て「外れ」ということはないが、「良かった」と感じさせるに は、映画製作者側の力量が必要とされる種類のものだと思う。
 実際に見てみて……三姉妹を平等に描き出そうとしながら、どうしても、家を 飛び出して駆け落ち同然で孫文と結婚、戦場を泥まみれになって逃げ回ったりす ることも体験し、夫の死後も高い志を持って政治の世界を生きる次女ばかりが中 途半端に目立つ。
 自分は手を汚さずに、後方からばかり影響力を行使する長女(家庭的にも一番 幸福)は悪役にしか見えないし、「権力を愛した」と映画のコピーにはある三女 の姿は、受動的に映るだけで、全然見えてこない。
 考え方、生き方の違う三姉妹は、ちょうど国民党と共産党とが西安事件を機に 再び共闘に転じたように、「日本と戦う」という一点において再び一致協力し て、実際に戦う兵士たちを慰問に訪れる。三姉妹が最後に一堂に会したこの場面 で、この映画は実質的に終わる。
 この「ラストシーン」で、中国から「逃げる」ことを明らかにする長女。相変 わらず存在感に乏しい三女。一人戦い続ける次女……三姉妹ものとうたった映画 でありながら、私の目にはこう偏って映ってしまった。
そん(1月11日)
私も三姉妹の真ん中なんすけど、とてもこうはいかないですね。(当たり前やんか)
私も問題のTNCパヴェリアで観たんですが、直前にいったら立ち見だった。しくしく。フィルムは中断はしなかったんだけど、で音声が少しおかしかった。ステレオとモノラルがチカチカっと切り替わるような感じ。終わってからもぎりのお姉さんに聞いたら「2本のフィルムをつないでいるからです。すみません。」ということでした。TNCのフィルムがおかしいのかな??
おっと、内容。確かに石橋さんがおっしゃるとおり、ハリウッドでかまして欲しい監督です。パンフでは三姉妹のイデオロギー的な軋轢が回避されていることについてご不満の様子の文もみられましたが、そのあたりのごにょごにょなんか眼中になさそうなつくりですもんね。映像もきれいでした。
次女役のマギー・チャンは安田成美に似ている。
時間なくてはしょった感想ですみませんm(_ _)m
石橋尚平(★★★★)(1月9日)
shohei@m4.people.or.jp
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この女、宋家のどの三姉妹よりも、才気走っている上、手もつけられないほど、節操 がない。初の中国産であるボロボロの単葉飛行機に試乗するように大胆だ。そして、 その才気に魅了された男は自然と士気が鼓舞されることだろう。
えっ、どの女のことかって? そりゃ、当然。監督のメイベル・チャンに決まってい る。この映画、監督が一番とんでもないのだ。才気走っている。疾走する。収拾がつ かない。しかも基本的にはすごく巧い。この巧さはあまり理解されないだろうな。巧 いんだけれども、巧くみえないのだ。元々巧い人が、単葉機でアクロバット飛行して みせるものだから、凄い、偉い、面白い、とんでもない。下手な人が同じことをやっ ても駄目だろう。この女、香港映画を律儀になぞっているようで、それをダシにして いる。西部劇の最高級傑作、N・レイの『大砂塵』が一言、『変!』であるのと同様 に、実はとんでもない変な映画なのだ。
この女、1.乗り物が巧い。2.遮蔽物の表現が巧い(曇りガラス、カーテン、ガラ ス張りの屋根、父親の目眩、例の壁)。3.高低の感覚も巧い。予算の少なさが分か る戦争シーンはご愛敬ものだ。
一見、巧く見えないのはその饒舌なテンポのせいだ。巧いのにこの人、間をつくらず に、どんどん説明を書き込んでいく。芸術映画的な省略はしない。最初はいかにも香 港映画特有のベタさかと思わせるのだが、いや、違う。この人、繊細な才気走った女 だ。鋭利な刃物のような。才気走った感覚ゆえに、通常の大河ドラマ感覚ではついて いけないのだ。、この女、何も背負っていない。『女の生き方』なんて嘘っぱちだ し、ましてやイデオロギーなんて、『やすやす』と超えてしまっている。無節操。た だただ、映画に殉じようとしているだけなのだ。こういう本当の意味で図々しく、同 時に才気溢れる女性こそが、堂々とハリウッドで撮って欲しい気がする。
例えば、同じ女性監督でも、J・カンピオンにも茶目っ気はある。だけど、所詮茶 目っ気だ。ミーハーを自称する女性がどこか重苦しくシニカルな感じがするのと同様 に、『女』の物語を背負ってしまっている。だから、浜辺にピアノを置かないと気が 済まない。今、最も輝いている女優のN・キッドマン(今、シュニッツラーの『輪 舞』のたくさんの役を一人で舞台で演じている)をすら、うまく使えない。才能の格 が違うのだ。
最後のフラッシュ・バックには笑った。こりゃいい。たまらん。アホか。J・フォー ドの『わが谷は緑なりき』だな、これ。後で聞いたところによると、この映画、中国 返還前の香港当局に40〜50箇所くらいカットされたらしい。特に削除はラストに近い 部分に多いらしいのだが(例えば、蒋介石を肯定的に描くところとか、国共対立時の 慶齢と美齢の深い互いの愛情を描くシーンとか…)、しかし、仮にこのフラッシュ バックがそれゆえの産物だとしても、素晴らしい。このフラッシュ・バックのモン タージュで次女の慶齢は刀で暗殺される(えっ、何それ?)。母親と父親の臨終も回 顧される。『この話からあの話へ』跳躍する。『始まりがあっても、終わりはな い』。コップが砕け散る…。新約聖書に浮かび上がる文字。
軍用機の映像もある。3人の女性は、爆撃機と覚しき軍用機の3機の編隊で表現される のだ。なんだこれ? こんなの使うか? 岩波ホールにつめかけたおばさんはついて いけない。いや、肝心な時期を不況下で過ごしている今の若い世代の方が難しいかも しれない。この手の大胆さって長らく映画になかったものだから。
同じく、最後の方の『地獄の黙示録』のプレイガールの慰問ショーを連想させる、国 共合作による抗日戦線兵たちのための慰問ショー。慰問の歌手が『蘇州夜曲』を唄う (笑)。凄いのは、この笑いが漏れるシーンを、感動のシーンにしてしまっているこ とだ。このショーの最中に、長女の靄齢は、孔子の末裔である富豪の夫とビジネスの ために香港に渡らんとする。この逃げ足の速さ。そうこの身のこなしの素早さなの だ。身のこなしの素早さ故に、孔子の末裔と、孫文と、蒋介石を宋姉妹は一家の姻戚 にしえたのだ。
この監督のこの映画感覚。その物語以上に、この映画自体がすでに『傾城物』なの だ。『激動の時代』なんてそんなものだ。今も昔も、地球は女で回っている。
パンちゃん(★★★★)(1月5日)
中国の歴史だけでなく歴史そのものに疎い私はまったく知らなかったのだが、宋家の三姉妹というのは有名すぎるくらい有名な人物であるらしい。ここで描かれているのは、その有名な三姉妹と三姉妹をとりまく歴史である。
私は、まず冒頭の雪の美しさと、それを背景に語られる過酷な運命、それから一転して春の柳綿が飛ぶ空気の美しさ、そこで歌われる歌の不思議さに見せられた。童謡は何かしら非情な真実を含んでいるものだが、その無邪気さと残酷さのないまぜになったような歌の不思議さが、これから始まる三姉妹の非情な運命を暗示しているようで、スクリーンに吸い込まれてしまった。(聞きかじった3姉妹の運命を思い、このシーンでは思わず涙ぐんでしまった。)
メイベル・チャンの映画は『誰かがあなたを愛している』しか知らないが、彼女の描くニューヨークの不思議な映像に大変驚いた。ビルも海岸も、誰も描かなかったニューヨークの姿をしていた。東洋の目がとらえたニューヨークという印象を受けた。
今度の映画でも、先に書いた冒頭の雪、柳綿の美しさにびっくりしたが、他のシーンも美しい。美しい上に、とてもユニークである。日本の風景も日本人がとらえる竹や石の階段とは何かしら違う。単に視線を引きつけるだけではなく、同時に、空間の広がりを感じさせる。今、スクリーンに映っている風景が、切り取られて存在するのではなく、その向こうへつながっている----そのつながりとしての広がりを感じる。
東洋の目で見たニューヨークというのも、そうした広がりを無意識的に感じさせる空間のとらえ方に理由があったのかもしれない。
この、何かを切り取ると同時に、それを、それをとりまく広がりへと解放する視線の働きは、激動の三姉妹を描くのに最適なもののように、私には思えた。
この映画のコピーは「中国に三人の姉妹がいた。ひとりは金を愛し、ひとりは権力を愛し、ひとりは国を愛した」というものだが、ストーリーと映像は3人を「金」「権力」「国」へと凝縮しながら、同時にその枠組みを外へ外へ押し広げる。このバランスが非常にいい。
3人のどの姉妹も好きにならずにはいられない。「金」も「権力」も「国」もそれぞれの寛大さと偏狭さを抱え込んでいる物だが、互いがぶつかりながら、枠組みを、その外へ外へと押し広げていく感じがする。「金」「権力」「国」を、不思議な力でやすやすと乗り越えて行くように思われる。
この映画に欠点があるとしたら、今書いたことと矛盾するのだが、その「やすやす」という感じにある。
3人の非情で過酷な運命というものが、広大な中国の大地と長い歴史のなかのほんの一瞬の間にすぎなかったような気持ちになってしまう。
愛も悲しみも怒りも絶望も、やすやすと存在するかのように感じてしまう。
これはとても不思議な印象だ。その不思議さに私はとまどっているのかもしれない。やすやす、という印象が、こんなことでいいのかな、と感じさせるのだ。
たぶん、この映画で描かれている女と男のバランスが新しすぎるからかもしれない。
3姉妹の「金」「権力」「国」を愛する行為が、まるで3人という人間の枠組みを越えて融通しあうのに対して、とりまく男たちが、それほど魅力的でないせいかもしれない。戦争や革命が、3人の姉妹のなかにのみこまれてしまっている。その残酷さ、夢の過激さ、そうしたものが3人の姉妹を通してしか広がって行かない。
それが残念だ。
*
付記
『ブギー・ナイツ』を私は、ふいに思い出した。その映画では、主人公の青年に焦点が当たりながら、それをとりまく人々は、たんに彼を通して描かれるのではなく、それぞれがそれぞれの広がりを獲得していた。それが「ポルノ映画製作」という小さな世界を描きながら、不思議な広がりを描き出す力になっていた。
『宋家の三姉妹』では、3人の姉妹は十分に凝縮と広がりを感じさせるが、男が弱い。(これは私が男だから 、そう感じるのかもしれない。)ただ、父親は奇妙な存在感があった。彼の言動は矛盾しているが、矛盾しているがゆえに、外へ広がって行く力を持っていた。チャン・ウェンは好演していたと思う。
PANCHAN world