スフィア

監督バリー・レビソン 主演 ダスティン・ホフマン、シャロン・ストーン、サミュエル・L・ジャクソン

立花(★★☆)(5月29日)
mhiro@ask.or.jp
   前半は結構面白かったんだけどなぁ。話の展開や演出も手堅くタッチとしては好みなんだけど山場が近づくにつれて段々つまらなくなってきた。ストーリーも登場人物の行動もなんか全然納得できない。心の働きが現象化するシーンも、分かりやすすぎてそれまでのハードSF風とはかけ離れてて幼稚な感じがした。一家団欒おやつでも食べながらビデオで観るくらいならそれなりに楽しめるとは思うけど1800円払って観るほどでもない。良心的な映画と受け止められないこともないけど肝心な話をはぐらかされたような気もする。1600円の前売り券で観たけど。映画の日に1000円で観た『スターシップ・トゥルーパー』の方が面白かったなぁ。まだスッキリしてた。
  ごま(5月28日)
fwij6176@infoweb.ne.jp
えーうそ、これが良いって人いるんですか?
僕は、星1つです。
本当は、1つも入れたくないんですけど、、、。
なんてったって、わけ分からん。
中途半端な精神論的なものが中心で、死に方も突然、面白くもない死に方するし、、、。
とにかく、テンポ悪いし、スフィア自体なんだったのか?
こういう映画は大嫌いです。
やはり映画は楽しめなくてはいけないです。
途中眠くなりながらも見たのに、オチもいまいちでした。
アクション好きな人は絶対に見ないほうがいいです。
僕は、無料鑑賞券で見たのでまだ救われました。
パンちゃん(★★)(5月25日)
 想像力が具体的な形を取る、現実となる--というSFではタルコフスキーの『惑星ソラリス』がある。『スフィア』はこれに遠く及ばない。
 何が一番の欠点かというと、『スフィア』の登場人物の「想像力」が完璧なこと。『惑星ソラリス』では主人公の「想像力」は不完全だった。例えば死んだ妻を思い浮かべる時、主人公は服のファスナーを想像できなかった。そのため最初の性交はワンピースを破ってするしかなかった……。そうした不完全さが、事件にリアリティーを与えていた。人間にリアリティーを与えていた。
 ところが『スフィア』では、そうした不完全さがない。主人公たちの想像力は完璧であり、その完璧さゆえに悲劇が起きる。それがなんとも白々しい。どんな恐怖であろうと、その恐怖に破れ目がないので、それが単なる空想に終わってしまっている。心底震え上がるという感じになれないのだ。
 『惑星ソラリス』が人間の想像力が不完全であることをしっかりみつめ、「哲学」に達したのに対し、『スフィア』は人間の想像力をつじつまあわせに使ったために「娯楽」にすらなれなかった。
 ここには人間の存在が描かれておらず、代わりに勝手な「倫理」が描かれているに過ぎない。「倫理」が「娯楽」であることを拒否してしまっている。
 「倫理」のどこがいけないか。「事実」よりも、「こころ」を優先するからである。今、ここで何か起きているか。それが自分にとって都合がいいか悪いかは別にして、真理を明確にすることが必要なのに、「倫理」はその「真理」を二番目のものにしてしまう。「倫理」を最高のものに据えることで、「現実」と和解してしまうことである。「現実」を「倫理」の下に押し込め、支配してしまうので「娯楽」にもなれないのだ。
*
 「現実」を「倫理」を基準にして見つめることは、私たち人間にとって一番大切なことなのか。
 私はこの問題に答えなど用意していないが、「科学者」が「倫理」に傾いて行く姿勢には非常に疑問を持っている。
 「科学」の仕事はあくまでも「現実」から真実を探り当てることであり、その真実を誰もが使いこなせるようにすることである。私は、そうした瞬間を映画を通して見てみたい。
 しかし、この映画はそれを描かない。「科学」は「倫理」にすりよってしまい、「真実」はおきざりにされる。
 これは絶対にいけない。「科学」の独立性をないがしろにするものであるだけではなく、「科学」を「権力」にゆだねてしまうことになってしまう。
 「倫理」というものは本来、市民全員のものであるが、ときとして「権力」に適当に利用される。「科学」が「真理」を捨て、「倫理」に身を寄せることは、実は「科学」が市民ではなく「権力」に利用されることでもある。
 何かとんでもないことが、現実に起こりつつあるのではないのか。そんな不安がふいに頭をもたげてくる映画でもある。
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 最近の映画は「科学」を実に適当に扱っていると思う。
 この映画では、数字のメッセージをキーボードの文字の配列と読み取るという、とてもおもしろい数学の論理が出てくるが、一瞬のことである。(この瞬間迄は、この映画はなかなかおもしろかった。)
 昨年の夏に公開された『コンタクト』でも、数学は宇宙の共通言語と言いながら、その「共通言語」の「共通」たる部分は本の少ししか見せてくれなかった。共通言語を手掛かりにして、宇宙船を組み立てる過程の様々な様相をまったく描いてみせなかった。これでは、本当に数学が宇宙の共通言語であるかとどうかは観客にはわからない。
 私は確かに「数学」はわからない。しかし、映画を作っている人間が本当に「数学」を「宇宙の共通言語」と考え、それを信じているかどうかはわかる。彼らは信じていない。だから、ほんのさわりをみせればそのことを描けたと思っている。その具体的なあり方を描くことができない。
 あまりにもいいかげんすぎる。「科学」の興奮から遠い「科学映画」は、偽物の「科学映画」だ。
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 この映画と直接関係するかどうかはわからないが、もう一つ気になることがある。
 ダスティン・ホフマンは最近、嘘(想像力)と現実が交錯する映画に立て続けにでている。
 『マッド・シティ』『スフィア』『噂の真相』(これは未見)--どうして、こんな似たような題材の映画ばかり選んで出るのだろうか。
 なんだかおかしい。現実を直視する能力が欠如しはじめているのではないのか。現実には嘘がいっぱい含まれている。嘘が私たちを牛耳っている--そんなありきたりの「倫理」で現実を見つめることしかできなくなっているのではないのか。
 そんな頭で考えたような現実など、どうでもいい。「嘘」とわかっていても、自分の真実を具体化しようとすること、「嘘」に立ち向かってゆくこと、それが人間の本来の姿ではないのか。
 ダスティン・ホフマン、あんたの出ている映画は、どれもこれも、そうした暖かな人間の力とは関係ない、とても手垢のついた「教訓」まみれの映画だぞ、と言いたい気持ちになる。
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 現実(空想も同じこと)を追求しながら、途中で「真理(真実)」を心の問題にしてしまう。「倫理」の問題にしてしまう。
 これは、製作者(監督、脚本家)のずぼらというよりも、もっと深刻な問題を含んでいるかもしれない。
 どこまで想像力を羽ばたかせることができるかを追求するのではなく、(映画の中の想像力の問題とは別の次元の想像力のことだが……)、適当に「倫理」でごまかしてしまう。観客に、映画の本来の姿をあきらかにせず、「倫理」でごまかしてしまう。とても危険だ。
 私は『E.T.』などという映画は嫌いだが、まだ、想像力を具体的な形にしようとする努力があるぶんだけ、こうした映画よりもまともかもしれないと思う。
tchiba(★x4!!)(2月18日)
tchiba@concentric.net
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/1780/
マイクル・クライトン原作のスフィアということで期待して行きました。
原作を読んでいたので、ストーリーは大体わかっちゃっていたけど、期待に沿うなかなかの秀作でした。勿論原作との描写表現の差はありましたが、まあ上映時間の枠におさめる上での最低限の描写はちゃんとなされており、ダスティン・ホフマン、シャロン・ストーンのベテラン役者の演技にも助けられ、鑑賞後の満足感は充分ありました。後半のテンポも良いし、深海物では、アビスよりも私は気に入りました。
四つ星にはちょっと欠けるかもしれないけど、ショートカットのシャロン・ストーンがかわいかったので、ちょっと奮発で★x4!!←こういうの駄目?


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