スウィート・ヒアアフター


監督 アトム・エゴヤン 主演 イアン・ホルム、サラ・ポーリー

haruhiko(3月1日)
ishii@binah.cc.brandeis.edu
かもめさん、不倫男ビリー・アンセル(ブルース・グリーンウッド)を擁護させて下さい。彼はミッチェル・スティーブンス(イアン・ホルム)やニコール(サラ・ポーリー)に次いで強い印象が残った人物なので。
スウィート・ヒアアフターという映画は人それぞれに色々に解釈できる映画だと思いますが、僕にはビリー・アンセルが不倫がばれるのを恐れて裁判に反対しているのだとは思いませんでした。彼は妻に先立たれ、今もまた二人の子供を失った男なのです。今さら守るべき見えなどあるでしょうか?不倫も、妻を失った心の空虚さを満たすための行為だったと思います。相手に対してさしたる愛情があったわけでもないようですし。よく覚えていないのですが、逢引の最高の時間はモーテルの一室で一人で煙草を吸っている時だとか言っていませんでしたっけ?むしろ、彼は死の理不尽さを一番知っている人間だからこそ裁判によって何かが解決されると考えている他の親達にいらだちが隠せないのだと思います。僕は、彼が事故の前に亡き妻の服をニコールにあげる場面の人間描写が鋭いと思うのです。彼にして見れば妻の死をようやく受け入れられるようになった矢先の事故だったのではないでしょうか。
スウィート・ヒアアフターのような映画をあまり分析的に語ることはしたくないです。言葉にまとめることで、一つ一つのシーンの輝きがこぼれ落ちてしまうような気がするので。それでも、あえて言うなら、人々が悲劇とどう折り合いをつけるかということと、その過程で起きる軋みとがこの映画の大きな要素だと思います。(それは、エゴイアンの前作であるエキゾチカにも通じます。)子供達の死の前に、親達は悲しみをどこに持って行ったらいいかわからない。それを裁判を起こすエネルギーに向けようとする他所者の弁護士は策士ですが、彼も自分の娘の薬物中毒への対処の仕方を知らない点で同類です。そしてニコールは、死んだ子供達にも、彼らの死を悲しむ親にもなれない宙ぶらりんの立ち場から怒りを表現します。
重い題材を扱った映画ですが、けっして重苦しい映画にはなっていなかったと思います。証言を終えて、父親に
「家に帰りましょ」
と言うときのニコールや、娘の昔の友達と空港で別れた後のスティーブンスの顔にはさわやかさすら感じました。月並ですが、人間はこうして生きて行くのだと思いました。
灘かもめ(2月21日)
seagull@d1.dion.ne.jp
私も、雪そのものには「温度」を感じませんでした。
私が映画を観てて、温度(暑さ寒さ)を感じるのは、人間のはく息。
最近の映画で、うわ!寒そう・・と感じたのは(アクションものですが、) 「マネートレイン」。ウエズリー・スナイプスと、ウッディ・ハレルソンが かけあい漫才のようにおしゃべりをしているシーン、二人のはく息の白いこと!
は〜〜、ニューヨークって寒いんだ〜〜。と、妙なところでリアルだ、と感じました。
ところが、「スイート〜」ではだれも「白い息」をはかない
あんなに、雪が積もってて一面銀世界なのに。絶対寒いはずなのに。
まるで、だれも、息をしていないみたい。
この作品の「冷たさ」はむしろ、そんなところから感じてしまう。
う−−ん、そうか、私はこの作品を「冷たい」と感じているのか。
子供を亡くした悲しみは、みな同じはずなのに、団結できない大人たち。
金目的で、あるいは自分達の罪を暴かれるのを恐れて裁判をしよう、止めようと する大人たち。
そして、何故、裁判をしよう(止めよう)としているのか、その理由は 暗黙のうちにだれもがお互いに知っている。
不倫を隠すため、賠償金を得るため、近親相姦を隠すため。
子供二人を男手ひとつで育てた父親は、不倫がバレるのを恐れているため 裁判をやめさせたい。
一人助かったニコールの父親は、賠償金欲しさに娘を利用して、裁判に 持ち込みたい。
ニコールは、自分を利用するだけの父親に「怒り」、わざと嘘の証言をして、 裁判をぶちこわす。
父親には、ニコールの「怒り」の理由がわかっている。わかっているけれど 記録された「嘘」を覆すためには、近親相姦が暴かれるかもしれない、 という「恐れ」にとらわれてしまうため、黙ってしまうしかない。
登場人物たちは、それぞれの思惑を、わかりすぎるほどわかっている。
いわば、「おあいこ」なのだ。
こんな情況の中で、誰もが「これ以上何も起こらないこと」だけを願っている。
人間関係が、凍りついている。生きているのに死んでいるような人たちだ。
不倫の父親も、ニコールの父親も、自分たちの罪を暴かれないためには、 賠償金をもらえなくてもあきらめるべきなのだ。
ニコールが、子守しているときに読んでいた、「ハメルンの笛吹き」。
男の子に、どうして笛吹きは子供たちを連れていってしまったのかと聞かれた時、 ニコールは、「彼は怒っていたのよ」と答える。
・・・・・う−−−ん、そうか・・。「笛吹き」はニコールだったのか。
彼女は、父親を愛していたんだな。父親の望むロック・シンガーにだって、 喜んでなれる。ところが、事故による下半身不随のため、父親の愛が「変質」して しまった。今までのような「愛」ではなくなった。
それどころか、裁判で多額の保険金をあてにしている。
これは、「裏切り」なのだ。
そして、裁判でついた「嘘」をくつがえせない父親の態度で、 今までの「愛(近親相姦)」そのものも本物でないことがわかる。
彼女は二重に「裏切られた」ことになるのだ。
だから、彼女は「怒り」、「嘘」をつき、父親の欲しがっている「金」を奪う。
「笛吹き」は、どこからともなくあらわれて、大人たちの「望み」(ネズミ退治)を かなえる。ところがズルい大人たちは「金」惜しさに、「笛吹き」を追い出す。
そして、大人たちの大切な子供達を「奪う」(連れ去る)。
「金」のために「子供たち」を失う大人たちの物語。
とすると、最後に残された「足の悪い子供」は、弁護士なのかな?
「足の悪い子供」は、一部始終を見ている。
「笛吹き」が子供たちを連れ去るところも、大人たちが「笛吹き」をだますところも。
むむむ・・。頭がこんがらがってきた。
手探りで、推理(?)してみたら、こんなのになりましたが、 ひょっとして、私は大勘違いしてるかも。誰か、ほんとのところを教えて〜〜。
大勘違いついでに、ニコールの証言では、バス運転手のドロレスの過失ということに なったみたいだけど、彼女は黙って過失責任を認めたのかなぁ?
認めたとしたら、何故??
・・・で、二年後、別の町でやっぱり同じバス運転手をしていたのは何故??
あ−−−、こんなに無力感におそわれる映画を観たのはひさしぶり。
「セブン」以来かな?
とにかく、「冷たい」作品。
監督が(私に対して)「冷たい」作品、と受けとめましたです。
ダグラス・タガミ(1月25日)
お久しぶりです。ダグラス・タガミです。
やっとビデオで見ることができました。やっぱり、笛吹きは、 弁護士ですか。笛の音の代わりに、お金の匂いを漂わせて。
洗車のシーンですが、日差しの強い暖かめの日であれば、 泥汚れをマシン洗車(手洗いはイヤ)は、するかもしれません。(きりさんへ)
相変わらず、雪は怖いですね。札幌育ちなので嫌というほど判ります。
あのシバれた路面、あっという間に転落していくバス。
何もできずに見ている父親。冬の悪魔のせいです。
銀世界は、確かに美しい。その美しさの影に、自然の恐ろしさが いつも潜んで人間を飲み込みます。
南国の人には、絶対に判らない。雪の中での生活の大変さ。怖さ。
映画のようなスリップは、気を許すとすぐ起こる。
(スタッドレスになってから、しゃれにならんくらい怖いです。)
いまの札幌以北は、映画と同じ環境です。
内容的には、弁護士の家庭状況を描いてるために、ただの悪徳弁護士とは、 違うところがこの映画の良いところかなぁ、と思いました。
でも、やっぱり一番怖いのは、雪よりお金の魔力かな、って感じです。
ただ、この映画では、雪の美しさや怖さは感じませんでした。
やはり、雪を撮らせたら世界一は、木村大作カメラマンでしょう。
駅STATION、八甲田山のカメラマンです。雪の情緒と雪地獄、 どちらも見ていて、耳が痛い、厳寒の冬を体感できます。
心を静かに包み込む雪と悪魔と化す雪の二面性を感じる事ができます。
どちらも日本映画の秀作だと思っています。参考まで。
そん(9月24日)
パンちゃん、初めまして。同じ九州の映画ファンとして楽しく拝見しています。
スクールバスが走ってゆく場面の雪の白さと、ニコールの瞳の強さにどきどきしてしまいました。
2年くらい前の「ファーゴ」もやっぱり雪の白さが鮮烈だったし。
雪は目が痛くなるくらい真っ白なんだけど、そこで暮らす人たちは皆が同じように真っ白なわけでなくて、それでいて小さな街では“誰でも真っ白”であることを暗黙の内に認めあうことでつながっていて。
でも、ニコールにも父親にも運転手のドロレスにもそれぞれ“自分の色”があったのでしょうね。
人はそれぞれ自分の色を持っているのでお互いにそれを認めあって生きていこう、と結論づけるのは簡単だけど、そうとばかりも言えないよなあ、と考えてしまいました。
やっぱり真っ白い雪には抗いがたい美しさがあります。
きり(9月14日)
noriko@sec.cpg.sony.co.jp
この映画はいったい何を言いたいのか、何を表現したいのかということを、探ったり語ったりする のは苦手なので、とっても浅はかなことを書いてしまいますが、(しかも感想ではなく質問)あの 街(村)での、「笛吹き」はいったい誰だったのでしょうか? 少女の父親?それともスティーブ ンス(弁護士)? 全体的に上手く出来ている映画だとは思ったのですが、私には少し重い、という か理解できない部分が多々あった。確かに絵は奇麗だった。雪景色が好きな私は、その吐く息の冷 たさが感じられるような映像は好きだった。でもね、あんなに雪だらけの、あんなにさぶいところ で、洗車なんかするかぁ〜? 上手いシーンだとは思ったんだけど。星は3つかな。。。。
じゅんこ(★★★★)(8月20日)
junko003@eis.or.jp
アタシったら書きしらしている…まあいいか。
この映画は責任転嫁の物語と解釈いたしました。
心に深い傷を負った人々が、生きるために他を責め、あるいは自己を正当化し、しかし、やがて運命を受け入れていく過程にカンドーしました。
オープニングの洗車機のなかから見た映像がすばらしい。男が洗車機のなかから抜けられなくなるシークエンスとか、印象的ですね。
でも光がすぐそこに見えているのね。あれが「スウィート・ヒアアフター」なんでしょうね。
見終わった後、語りたくなっちゃう映画です。
パンちゃん(★★★★★)(8月1日)
雪が驚くほど冷たい。そして、その冷たさが凍らせた空気のピリピリした感じが、スクリーンから伝わって来る。
それは、美しい。しかし、「美しい」という表現を拒む何かが、そこに存在する。
命の凶暴性だ。それは、凍った湖を滑っていったバスを、じわりと黒い口をあけて飲み込んだ水に似ている。凍って、死んでいるふりをしていながら、生きていて、生きている証に、人の命を奪う氷のしたの黒い水の冷たさに似ている。
*
スクールバスが凍った湖に転落する。多くの児童が亡くなる。一人の少女が奇跡的に助かる。しかし、彼女は事故のために半身不随になる。
この少女が、賠償訴訟の最後で嘘の証言をする。「バスはスピードを出していた。そのためにカーブを曲がり切れず転落した」
なぜ、そんな嘘をつくのか。少女には父が許せなかったのだ。かつては近親相姦の関係にあり、今は、保証金を手に入れようと躍起になっている父……その父に対して、私はあなたのいいなりの人形ではないと伝えるだけのために嘘の証言をする。なぜ嘘をつくのかと父が詰問できないこと、詰問すれば近親相姦のことを明るみに出されると不安で詰問できないことを知っていて、そう証言するのである。
少女は、自分を疎外する形で、人が夢を見ている。少女にはささやかな夢や喜びを押しつけ、少女とは関係ない夢を見ている--そのことに対して、激しく抗議するのである。
私の夢は、父親の夢と同じではない、私の悲しみは父親の悲しみと同じではない、と告げるのだ。
この抗議の前では、ことばがなくなる。何も言えなくなる。ふいに、黒い水が思い出されるだけである。
*
静かな街。多くの子供たちを亡くし、悲しみに沈んでいる街--その街の奥に存在するのは、悲しみという抽象的な感情ではない。
遺族たちは(遺族になる前だが……)不倫をし、嫉妬し、蔑視し、互いにうちとけあっていたわけではない。それぞれが互いに自分の夢を持ち、それぞれに生きていた。
その様々な遺族を、一つの事故、子供を亡くすという事故が引き寄せる時、その時に初めてそれぞれの夢が違っていたということが露骨になる。
悲しみが人間を結び付けるのではなく、悲しみが人間をばらばらの存在だと告げるのだ。人には人の悲しみなど理解できない、と告げるのだ。
*
これは、怖い。
怖いのに、こころの奥をぐさりとえぐられた衝撃で、怖いことすらも忘れる。
悲しみの一つ一つに胸がふさがれ、同時に魅了され(おかしな表現だが、あまりのリアルな悲しみに、思わず魅了されてしまうのだ)、体が凍りついてしまう。
この監督は、人間の真実だけを描くことをこころがけているドストエフスキーのような人間なのかもしれない。
石橋 尚平(★★★★)(7月25日)
shohei@m4.people.or.jp
アトム・エゴイヤンはまだ若いカナダの映画監督なんですけど、一昨年「エキゾチカ」を観て以来、新作を待ち続けていて、この作品の封切初日に早速観てきました。重層的なストーリー構造、登場人物達の深い喪失感と癒し、静謐なリアリズム…前作と同じスタイルが今回の作品にも貫かれています。今回はカナダの小さい街でのスクールバスの事故と取り残された人々の話なんですけど、ドイツ民話の「ハメルンの笛吹き」が話のモチーフになっていて、作品に深みを与えています。この人が描く人々の喪失感は深い、いや深いというより、誰の手にもとどかない。それは悲しみではなく、深い喪失感だからです。単なる感情の起伏に還元しえない深い現実世界の喪失感。その喪失感を今回は雪景色と寒い夜の景色を中心に静謐なリアリズムが覆っています。スウィート・ヒアアフター(穏やかなその後)というのは、この何者にも手が届かない、このぽっかりと開いた喪失感の後の人々の生きようとする世界のことです。私も何とかこの映画の深みを言葉で表現しようと思うけど、凡庸な表現に終わるばかりで、どうしてもうまく伝えられません。それはこの作品が描くものが現実そのものであるからです。生きていくことの孤独さと、とりあえず悲しみを共有して生きていくことの喜び…とりあえず、こうした言葉でこの映画が伝えようとするものを置き換えることで締めたいと思います。