誰も知らない

panchan(2004年9月6日)
はせさんの、
私のこの映画の感想を、もう少し付け加えると、 終わり近くで、柳楽優弥と女子中学生役の二人が 羽田空港近くの土地で、穴を掘る場面があります。
あそこで、私は一瞬、自分も穴掘りに参加している錯覚に見まわれました。
この錯覚は嬉しいものだった。「嬉しい」とは奇異に響くかもしれませんが、 いい映画を見た、得したな、という感慨に通じるものです。
という感じ、とても共感します。
登場人物の誰かと一体になる――それが映画の楽しみ。

私はこの映画では、出だしの、柳楽優弥がモノレールの中でスーツケースを指でなぞっているシーンでのめりこみました。
愛しいものをそっと愛撫するやさしいやさしい指の動き。「ここにいるよ」と教える指の動き――これは、何度思い出しても涙が出る。

はせ(2004年9月5日)
「神話」という言葉が、新鮮に響きました。
それは私たちの過去や外側にあるのではなく、私たちの内側から外側に通じる視線のなかで、現在においても
創生されつつある、ということでしょうか。

私のこの映画の感想を、もう少し付け加えると、終わり近くで、柳楽優弥と女子中学生役の二人が
羽田空港近くの土地で、穴を掘る場面があります。
あそこで、私は一瞬、自分も穴掘りに参加している錯覚に見まわれました。
この錯覚は嬉しいものだった。「嬉しい」とは奇異に響くかもしれませんが、 いい映画を見た、得したな、という感慨に通じるものです。

「16歳の合衆国」は感想文を書き直している最中です。
自分の納得できる文になかなか成らない。
panchan(★★★★)(200年9月4日)
映画にはときどきその顔がないと成り立たない映画がある。
この映画は柳楽優弥の顔がなければ成り立たない。

映画の内容についてははせさんが書いているとおり。
映画は母親が登場している部分にはファンタジーがまじるが、母親が消えてからは現実そのものになる。現実べったりになってしまう。
見ていて苦しくなる。

こうした重苦しい現実・映像を神話(人間が再生するための装置)にするためには、強い顔、ヒーローの強靭な顔が必要だ。
柳楽優弥の強い視線が、現実を直視し、そこから再生する力を人間が持っている、ということを教えている。
柳楽優弥の顔があって、この映画ははじめて「神話」になる。



柳楽優弥がカンヌで主演男優賞を取ったためだろう。
観客が多かった。
私もその演技を見に行ったのだが、これは本当に見るだけの価値がある。演技というより、顔、その視線は、今でなければ見られないのか、今後も見ることがで きるのかよくわからないが、今の、この映画の柳楽優弥の視線は見逃してはいけない。

「顔」をくぐりぬけて現実が「神話」になる――そういう出来事は、そんなにあるものではないだろう。

はせ(2004年8月25日)
こういうひどい現実もあるのかなあ、というのがラスト近くまでの印象。
父のいない、母と子供四人の家庭。しかも母は男性関係に執着するため、長期に家を留守にすることがしばしばだ。その間は母から渡された金で、長男が中心に なって家庭を維持しなければならない。買い物、炊事、洗濯、掃除と黙々とこなしつづける。しかも勉強もする。長男は十二歳で、長女、次男、次女とつづく が、母が学費を惜しむためか、全員が学校や保育所に行かせてもらえないからだ。そんな子供の惨状に対して母はいたって脳天気で、留守の期間がだんだん長く なる。クリスマスに帰ってくるという約束も反故にする。所持金もつきてきて、買い物も思うにまかせられなくなる。ガス、水道、電気も止められる……。
このあたりから、長男を中心とした子供四人の生存のための苦闘がはじまる。映画もしだいに熱を帯びてくる。長男の少年は一転して外の世界と連絡をとりはじ める。コンビニの店員から賞味期限切れの食品を分けてもらったり、公園の水道を使って洗濯したり。また順番が前後するが、下の子供たちの父にあたる人(複 数)に会いに行って、金をねだったりもする。そして少年はふっきれたように遊ぶことを覚える。ゲームセンターに行ったり、野球をしたり。家のなかがしだい にゴミだめのように汚れてくる……。そのほか、この少年と外部との関わり合いを、是枝裕和監督はあくまでドキュメンタリー・タッチでことこまかくとりあげ る。
  
私たち鑑賞者はつらくなる。少年に「もういいよ、そんなにがんばらなくても。」と声をかけたくなる。コンビニの女性店員も事情を知って「警察か福祉施設に 相談したら。」と勧めるが、彼は応じない。それをしたら子供四人がバラバラにされてしまう、一緒にいられなくなる、というのだ。返答に迷いはない。かさね てきた気丈さが、心身内に自然のように定着してしまったのか。少年なりの家族愛なのだろう、私たちは気圧される。
少年は少年らしい微笑をうしなっていないが、涙は見せない。少年役の柳楽優弥という人には不屈さとともに、魅力的なやわらかさがあり、私は惹かれた。自身 の子供時代をふりかえっても、想像のおよびそうもない境遇に圧倒されて、画面に没入してしまった。だが最後に来て、私はそれまで何も見ていなかったのでは ないか、という疑心に突っつかれた。カメラがいくら少年の顔をアップで撮っても、少年はあらいざらいの自己表現はしていなかったのだ。鑑賞者に向かっての 是枝監督の演出技法でもあるのだろうが。
  
悲劇が起こる。(内容はふせておきます。)だが少年があまりにも淡々としているので、私たちは不覚にも気づくのに随分と遅れてしまう。あらかじめ対処法を 用意していたかのように、彼は微動だにもしない。そして具体的な行動をとる。それは十分に礼儀作法に適ったものだ。そして「社会に泣きつけばいいじゃない か。」という私たち大人の常識など寄せ付けない緊張と自己主張がある。少年は大人ではないから「こうすれば大丈夫」という経験にもとずく知恵が思い浮かば ない。それは外から見れば、少年にとってはたしかに残酷で、私たちの同情をつのらせるが、それ以上に「ひどい環境」のもとで、少年が独自に構築してしまっ た精神世界があって驚嘆せざるをえない。「少年」という範疇ではくくりきれない、神秘さえ感得できる世界だ。だから、その精神世界はあと一歩のところで見 えにくいものでもある。題名「誰も知らない」はこのことを指すのだろうか。
  
そして私たちはいつの間にか、少年や「ひどい環境」を足がかりにしながらも、それらを通り越して、「亡霊」と直に向き合っている自身に気づく。死んでも死 にきれないもの、死んでなお他人の心の中で生きるという主張を、私たちに薄気味悪く刻印するものがそれだ。あたたかくて冷たく、聖性と穢れが同居す る……。ネタばれをしてもしなくても、結局私はこういう書き方をすると思う。
「ひどい現実」はドキュメンタリーとして興味を惹くし、逆に他人事として済ませてしまえる位置にあるのかもしれない。だがこの映画はそれを足がかりにしな がら、私たちが眼をそむけることができない普遍性を獲得していると思う。私はそれに打たれた。是枝監督の力量であることは明白だ。