ダンサー



熊哲(2001年9月22日)
リュックゥ戰奪愁鵑留撚茲鮨ノ棔◆悒汽屮ΕD┘ぁ戞◆悒哀薀鵝Ε屮襦次戞◆悒縫@璽拭戞◆悒譽」鵝戞◆悒侫D侫好┘譽瓮鵐函戞◆悒献礇鵐漫Ε瀬襯@戞◆リTaxi』、『Taxi2』(このあたりは監督ではないですが)見てきましたが、また新たなスタイルの作品を見させていただきました。
彼の映像は、『レオン』によるアメリカ上陸後もどこかしらヨーロッパ的なものを残しているように思えるのです。多分、映像の「間」の使い方とか、映像自体の暗さとか、音楽の使い方とかなどでしょうが、どうもこれだと断言できないのが多少はがゆいところです。
アメリカで作る映画は、なぜだかベッソンがここ20年ばかりのアメリカ映画を学習している最中では、とも思ってしまうほど、テーマや映像がパロディー的で、例えば『フィフスエレメント』などを見ると、かつてのリドリーゥ好灰奪箸砲茲襦悒屮譟璽疋薀鵐福次戮鮖廚錣擦襪茲Δ淵掘璽鵑「燭C気鵑△襪茲Δ忙廚┐泙靴燭掘∈2鵑痢悒瀬鵐機次戮離董璽泙蓮△△離献Д縫侫 次Ε咫璽襯垢サ个拭悒侫薀奪轡絅ダンス』を思い出してしまい個人的なデジャビュ(既視感)に襲われるのです。
それはともかく、『ダンサー』は黒人女性の聾唖者ダンサーを題材にしていて、ベッソンのまた新たな一面を垣間見させておりベッソンの追っかけとしては、うれしくもあり、しかし、一体ベッソン映画の共通項とはなんだろう?と腕組みしてしまうわけです。
そう考えると、これもある種ベッソンの実験的な映画なのだろうかとも思えてしまうのです。つまり、言語を使わない表現方法へのこだわり、というものでしょうか。言葉を話せないダンサー、は当然、そのダンスで自己表現をすることになり、そこからラストの「身振りによる音楽表現」という結論も当然出てくることになります。
ベッソンの追っかけとしては、当然、高い点を与えたいわけで★は四つというところです。しかし、今後のベッソンにも更に注目したですね。また、どんな映画をつくることか。(ところで、やたらよく喋るヒロインのお兄さんですが、この俳優さんは『フィフスエレメント』に出てきたプリンスばりのオカマの司会者と同一人物なのでしょうか?) 
パンちゃん
文字化けがありますが、そのままアップしました。
半角文字と全角文字がまじると文字化けするようです。
パンちゃん(★★★★)(2000年10月23日)
予告編を見たときは、見に行くのをよそうかなあ、と思った。激しいダンスをスクリーンに定着させるのはかなり困難。うまくとらないと、見ている方が目まいがしてしまうし、予告編の映像はあまりに断片的で苦しかった……。
ところが……。
意外とくっきり映像が撮れていて、肉体の動きがなかなか感動的だった。
そしてその動き、ダンスは、音楽に乗る、というより、音楽を引っ張るような印象があり、かなり肉体的に刺戟される。耳ではなく、目で音楽を聞く感じになってしまう。DJとのリズム合戦に、肉体のダンスの方が勝つという部分にそれが非常によくあらわれている。彼女にとってはダンスをするというのは、単にリズムにあわせて肉体を解放する以上の意味を持っているのだ。それが目新しい、とも思った。
何かいままでのダンス映画とは違ったものがはじまる予感が伝わって来る。
そして、その印象が、最後で意味を持って来る。
主人公の女性は口が効けない。音は聞こえるから音楽に反応しダンスは踊れるが、自分のことばを持たない。彼女にとって、ダンスは唯一の自分の感情や意思をつたえる手段である。だが、口をきけないという障害のために、その手段さえも社会に受け入れてもらえない、ということを体験する。彼女はどうやって自分の感情、意思を表現すればいいのか……。
主人公は一人の科学者と出会う。科学者が開発した肉体の動きから音楽を再生する装置を身につけて踊るようになる。
このとき、彼女は、自分で自分の意思と感情を表現する新しい手段を身につけたと言える。
全身の動き、リズムがそのまま音楽の旋律とリズムを作って行く。肉体の動き、ダンスが、音楽を生み出して行く。音楽にあわせてパフォーマンスするのではなく、彼女の肉体そのものが音楽に変わる。
この逆転がとても刺激的だし、感動的だ。最初の方のシーンで、彼女がDJの繰り出すリズムにあわせるのではなく、逆に様々なリズムを引き出し、引っ張るようにしてダンスを展開して見せた意味が、ここで明確な形になったといえる。
予告編では、体につけた装置(特に首につけた装置)によって、言語そのものを話すことができるようになるのかと思っていたが、そうではなく、最後まで、主人公は話せない。そして、ことばの代わりに、音楽そのものを手に入れ、それを伝える。音楽で自分の意思、感情を伝える。
ここには、音楽はそれ自体として思想である、という哲学が隠されている。
また肉体が思想である。肉体で人間は意思と感情を伝えることができるという哲学が隠されている。
ダンスは、肉体で音楽を作り出し、その音楽で感情と意思を伝えることができるという哲学を隠している。
これはダンサーそのものへのオマージュなのだ。
アメリカ映画では表現できない不思議な深み、フランス人がからむことで初めて出てくる「哲学」の深みがある。
リュック・ベッソンがかかわった映画というのは、私はあまり好きではない。彼が監督した『フィフィス・エレメント』の「愛」という哲学の安易さなど大嫌いの部類だが、この映画は好きだ。彼がかかわった映画では、一番納得がゆく。
ありきたりの哲学ではなく、独創の哲学があり、それが映像と音で具体的に表現されている。
小粒だが、その哲学に、そしてダンサーに対する愛情に、思わずうなってしまう映画である。愛情はいつでも深い哲学を生む源である、ということも実感させられた。