父、 帰る


監督 アンドレイ・ズビャギンツェフ 出演 イワン・ドブロヌラヴォフ、ウラジーミル・ガーリン、コンスタンチン・ラヴネンコ

  はせ(2004年10月22日)
 幼い頃の家族で撮った写真でしか知らない父が、成長した子供と妻のもとへ帰ってくる。兄は 青年になりかけ、弟は変声期直前で少年の面影を今だととどめている。十代なかばと何歳か年下といったところだろうか。母(妻)は緊張と不安をおしかくして 食卓を用意する。仲良くなってくれればいいが、という願いがあり、鑑賞者もそのなりゆきを注目する。父の勧めるワインを兄は飲み干し、弟は拒絶する。わず かな年齢のちがいがアルコールに対する興味の有無を分けるのだろうか、そう考えても当然だが、ふりかえると、ここではやくも兄弟間の父に対する接し方のち がいが出ているのだ。兄にはこの人は、長くこの家にとどまるだろう、という予想があり、それならば上手くつき合っていかなければならないという想いがあ る。だが、弟はそこまでは考えない。二人の子供の目から見れば、父には「俺は父だ。」という堂々たる構えがあり、有無をいわせない。おもねることはなく、 無愛想だ。
  
  やがて父は自動車を駆って二人を旅行に連れて行く。父子にとって長い別離を埋め親睦を取り戻すためのようだ。二人も釣りを楽しみにしていることもあ り、ちょっとした冒険だ。だがまもなく二人は、父の行動的で、力強く、粗野な面を見せつけられる。二人はレストランでの食事の後、父と離れたところの路上 で、チンピラに暴力的に財布を脅し取られる。すると、それを知った父は追跡して、一人を捕まえて帰ってくる。「殴られたんだから、おまえたちも殴り返 せ。」とすすめられるが、二人とも尻込みする。
  ここで父は、息子たちに社会の荒波に直面させ対決させ、勝たせようとしている。そういう方法で鍛えようとしているのだし、力を誇示し、並の父親でない ところを見せつけようとしている。また、父子の連帯を形成しようともしている。兄には、父のそういう意志がぼんやりとだが、理解しえているように見える。 ただあまりにも唐突なため、兄は父の要求にこたえられないのだ。一方、弟にとっては、まったくわけのわからないおそろしいだけの世界なのかもしれない。ま た鑑賞者はこの辺から、兄弟が考えのおよばない、父なる男の胡散臭さを嗅ぎ取ってしまう。ときには暴力的手段を使ってまでも、仕事仲間を引っ張っていった のではないかとの推測がはたらく。のちの場面でも、父は子供には秘密であやしげな行動をとる。だが父の来歴はついに謎のままだ。だが父の正体はともかく、 彼はあくまで子供に対しては、自分なりの理想のもとで父として振る舞うばかりだ。
  
  そういう父の肩越しにかいま見える外の世界と彼の強さに、兄はこわごわながらどんどん惹かれていく。彼はウブだが無理もない。人なら誰でも、大人にな れば、母や家庭の微温的な世界に別れを告げて、社会に出ていかなければならない。それ以前の時期でもそれを想像し、あるいはあこがれを持つ。俺ははたして 立派にやっていけるだろうか、という不安も当然裏側にはある。そして今、ごつごつした岩のような父が彼の前に立っている。粗野だが、社会の荒波を力でねじ 伏せて行けるような強さが、ぷんぷん臭ってくる。父を気圧されるように理想化するのだ。兄は感じ、頭でそう考えるのではないか。にわかな父は彼にとっては 「権威」なのだ。
  
  また彼は、旅行の経過につれて父から暴力的制裁をたびたび見舞われる。約束の時間を守らなかった、要領が悪く簡単なことができない、というのが理由だ が、この父なる男は即座に手が出てしまう。社会的ルールをたたき込むためか、単にプライドをいたく傷つけられて激怒したのかはわからないが。父のそういう 暴力が兄をしばしば奈落に突き落とす。
  青年期には、人によってスポーツ系のクラブでのスパルタ的鍛錬や、はげしい喧嘩など、暴力や切り刻まれるような急激な体力の消耗を体験させられる機会 がある。その渦中にあると無力感におおわれてしまう。反抗する意欲などは勿論、懇願するポーズさえ忘れてしまい、ただ目の前の人の指図に羊のように従順に なってしまう。そうすることが事態を穏便に推移させることにつながると本能的に思ってしまう。私は兄を演じた青年俳優から、そういう痛さと恐怖を、私自身 のささやかな体験とともにふりかえらされた。気の弱い人にとっては、深い無気力や堕落におとしいれるものかもしれない。だが兄はなかば金縛りになりながら も、踏みとどまろうとする。既述したように父は彼にとって「権威」であり、肉親なのだ。歯を食いしばる想いのなかから「ついていくぞ。」という決意の言外 の声を聞いた気がした。
  
  対極的に、弟は兄とはちがって、父に対して一途に反抗的で、わがままな態度をとる。釣りをしたいとダダをこねて車から放り出される。そこへどしゃ降り の雨。車は引き返して彼を救うが、座席に着いたとたんに、父へ泣きじゃくりながら訴える言葉が、感謝とは正反対で「なぜ今頃家に戻ってきたんだ、せっかく うまくいっていたのに。」だ。大変よくわかる。つい数日前までの、母と兄と祖母との生活が楽しかったことが痛切にふりかえられる。兄弟喧嘩もおもしろかっ た。その幸福が、今、突然あらわれた父によってどんどん削られていくように思える。彼は、兄のような想いを父に抱くには年齢が足りないのだし、何よりも寂 しさと不安と怒りを引き起こすのが、兄の父への惹かれ具合だ。兄が父に近づくことが、兄が彼から離れていくこととまったく同義に見える。鋭敏な少年の感性 が、ひりひりするようにそれを感じ取る。無人島の周辺でのボートを駆っての釣りの時間を、弟はわがままを言って大幅に延長させる。父からの鉄拳制裁が目に 見えているのかいないなか、あえてそれをするのは、兄弟の連帯を確認したいためだ。また兄と一緒にする釣りの悦楽にのみ心を奪われてしまったのかもしれな い。あるいは兄と一緒になって父をやっつけてしまいたい、そんな決意が秘められているのかもしれない。少年の心の中身を推測することは困難なものだ。兄も 弟の寂しさを理解でき、気配りをして言いなりになる。
  だが案の定というか、兄は父から制裁を受ける。しかも以前にもました暴力と憎しみのもと、ボコボコにされかかる。なすすべもないが、当の兄よりもパ ニックに陥るのは弟だ。この瞬間において、彼の目には父は父でなくなり、たんに腕っ節の強い大人の男に変貌してしまう。そして泣きじゃくるばかりではな く、全身全霊で「父」に反抗する。もとより腕っ節で立ち向かうのではない、みずからの身体ををはげしく傷つけようとするのだ。こんな滅茶苦茶な世界なら俺 の方から消えてやる!という風に。父も兄もこのときはじめて、弟の反抗の本気さを知らされ、狼狽しながらも押しとどめようとするのだが……。
  このあたりがクライマックスで、塔から飛び降りようとした弟ではなく、救おうとした父の方が事故死してしまうという、意想外の展開をたどる。直後、兄 弟がどういう会話をしたのか映画は省略し、父のむくろを草で編んだ橇に乗せて運搬する二人を映す。家に持ち帰るためだ。あわただしさと静けさが共存する、 しかも死臭よりも草いきれが臭ってきそうな奇妙、かつ神秘的な時間だ。ボートに載せて運ぶときには海の香りがしてくる。二人の心には父も母も浮かぶはず だ。とりわけ、死ぬことによって暴力が消失し、小さくなった父に二人ははじめて真正面から向き合うことができるようだ。弟は「パパ!」と絶叫する。生前、 かたくなに口にしなかった言葉だ。緊張と空白の他に、どんな偉大な心の世界があるのだろうか。
  
  父子の暴力をともなう相克に圧倒され、そればかり書いてきたが、父なる男は反面たいへん冷静沈着で、アクシデントをものともせず切り抜けていくたくま しさと技量を持っている。いいところもたくさんあって、子供からは頼もしく映る。雨中の泥濘につっこんだ車の引き上げ、朽ちかかったボートの修理、それを 駆っての無人島への渡航、キャンプ生活、等々。子供たちは父から与えられた役割を果たすことによって、物事を身体を使って解決し、生活を創ることを学ぶ。 そこだけ取り出せば、弟も懸命についていき、父子三人の連帯も十分に実現されているのだ。二人の自立にもやがて役立つことになる。
  それに行く先々でのうつくしい風景がたまらない。豪雨のまえの積雲の雄々しさ、無人島の野の花や草、表情をこくこくと変える海、その澄んだ水、それら を作り手はこれ見よがしに押しつけず、映画の必然の範囲内の短かさにとどめている。そして、それらうつくしい風景はまた、父が子供に見せてやろうとしたも のでもある。事故さえ起こらなければ、たのしい思い出として、二人にしっかりと刻まれたにちがいない。
  突然家に帰ってきた父をはさんでの三人の世界に、それぞれが懸命の思いで対峙し生きる。その真面目さ、やりきれなさが、三人それぞれから別の色合いで ひしひしと伝わってきて、やがて合流し、ずっしりした重みとなって鑑賞者に投げかけられる。俳優の演技も抑制が効いて芝居くさくならないところもいい。 ショットのひとつひとつが無駄がなく積み重ねられ、緊密な構成となっている。
  ★★★★★


panchan(★★★★★)(2004年10月14日)

映像が非常に美しい。
――と書いてしまうと単純だが、この美しさが複雑だ。
構図や色が美しいというよりも、映し出されている世界の空気が美しい。ぴんと張り詰めている。その緊張感が、目の奥の、神経を引っ張っていく。冷たく張り 詰めた空気の奥の向こうから、まだ見たことのない世界、知らない世界が剥き出しになってくる――という印象を呼び起こす。

そして、その知らない世界というのは、矛盾した表現になってしまうが、あらわれた瞬間、すべて知っているという感じを抱かせるものだ。
父への愛憎――甘えたい気持ち、認められたい気持ち、逆に反発する気持ち。
それは誰でもが体験し、知っているものだ。しかし、ほんとうは知らない。知っていると思っているだけで、とことんつきつめて自分の感情を見つめたりはしな い。なんとなく、肉体の中で消化してしまうものだ。

この、なんとなく消化してしまうものを、この映画は、なんとなく消化させてくれない。
そのために緊張感を感じる。

父への憎悪――これは、なんとなく消化してしまわずに、とことんつきつめると、「父殺し」につながる。
人間(男の子供)は、父を殺して、父を乗り越える。――これは抽象的な世界だけれど、ときどき、それが抽象ではなく、現実として出現する。
この映画は、そこまで世界を追い詰めていく。
もちろん「父殺し」といっても、意識的な殺人ではない。偶然父は死んでしまう。しかし、その引き金が子供の側にある、原因は子供の側にあるという点では 「父殺し」である。

父を殺したあと、子供はどうやって再生するか。生き返るか。犯罪者としてではなく、ひとりの人間、父親になりうる人間になるか。
この映画は、そうしたことを「神話」として描き出す。

父が死んだあと、その父を家へ「帰還させる」(映画の原題は「帰還」という意味らしいが、この「帰還」は父が自分の意思で家へ帰ってくるというより、死ん だ父を自分の家へ帰還させるという意味合いが強いと思う。)――そのとき、父がくっきりと見えてくる。
父はどうやって生きてきたか。どんなふうに自分の責任をとってきたかが、くっきりと息子のなかで自覚される。
この描き方が非常にシンプルで美しい。

父が死ぬ前、父は息子達に男とは(人間とは)どんなふうに生きるべきかをさまざまな機会をとおして教える。そこに理想の父と男の生き方が描かれているよう に見えるけれど、それはあくまで表面的なことがらだ。本当の生き方は、自分にそれを教えてくれる人間がいなくなったとき、精神の奥から新しく生まれてくる 人間が自分でつかみとるものだ。どうやって自己の責任を果たすか、自分に何ができ、何ができないかを判断しながら最良の方法をとる――その動きのなかに、 人間の再生がある。



この映画にはいくつもの謎がある。
謎解きは、しかし、私にはあまり興味がない。
人間には、どんなときでもわからないものがある。他人を完全に理解できはしないし、また、他人に理解されたくないという部分も人間にはあるだろう。
そうした部分はそうしたまま残しておいて、他人を受け入れ、自分に何ができるかだけ考えればいいことだ。
この映画のなかでは、二人の息子は父が何のために帰ってきたか知らない。
そればかりか、その父親が島の小屋の床下から秘密の箱を取り出したことを知らない。その箱の中に何が入っているかは観客も知らない。
それは知らなくていいのだ。
そんなものは息子として(人間として)父から引き継がなくてもいいものなのだ。
引き継ぐべきは、今何かが起きて、それに対して自分が何ができるか考え、そのできることを最大限の力で実施すること――それが「父殺し」なのだ。
父にできないことを、息子がする――それが「父殺し」の真の意味だ。
そうしたことができたとき、息子は、初めて父がどんなふうに自分を愛してくれていたか、どんな人間に育てようと願っていたか、という父の夢の総体を知る。
「父殺し」のあとの息子の行動は、父の夢の総体であり、その夢を父の助言なしに実行することが、肉体としての父ではなく、精神上の父を真に殺すことであ り、また新しい息子として再生することでもある。

そうした構造を「神話」としてくっきり描き出すには、父は死ななければならない。



余分なことを書きすぎたかもしれない。
これは10年に1本の大傑作。見逃したらきっと後悔する作品。