血 と骨




監督 
崔洋一 出演 ビートたけし
  
はせ(2004年11月26日)
  父なる男、在日朝鮮人金俊平(ビートたけし)は、冷酷で暴力的で色欲旺盛で、そのうえ恥や外聞をいっさい顧みない。おとなしく従っていれば無事にすむ が、それにも限度がある。かといって少しでも反抗しようものなら殺されかねない。そんな彼だが、家族や血縁者には少額ながら生活費をわたすことは怠らな い。つまり彼は金と暴圧とによって、かろうじて家族内で「父」でありつづけることができる。彼には蓄財の才覚があった。戦後かまぼこ工場の経営にのりだし 成功し、のちには高利貸しに転身して、財を不動のものにした。そんな彼を、彼とともに朝鮮人部落に住む家族の視線から映画は描いている。
  
  私達はこの映画から何を受け取ればいいのだろうか。
  戦後の混乱期ならばこそ、こういう強引で冷徹な経営者は出現できたのだろう。従業員を働きづめにさせたが、それによって日本人社会から財を引き寄せる ことができた、という功績の部分もあるのだろう。だが格別の驚きはない。また彼がことあるごとに引き起こし、あるいは挑まれる暴力沙汰や喧嘩にしても、そ れを見る私達には何処か冷めたところがついて回る。肩入れできないのは勿論、彼を心底から憎むこともできない。同じものを街頭で取り囲んで見物するような 気分にさせられる。愛人や第二の愛人とのいきさつも、人の家のなかを覗き見するような下劣さを、知らず知らずに抱いてしまう。映画が目指した、家族から見 た父、という視線がいつの間にか脱落してしまっていて、単に、手のつけられない暴力男の噂話を聞かされる位置に移行させられている。映画や小説はその性質 上、覗き趣味をどうしても引きずってしまうところはあるにちがいないが。
  
  何故だろうか。父を除いた家族同士の会話や団結や相互の同情が、力を込めて描かれていないからだ。単独でむこうみずに反抗するのではなく、「ああしよ う、こうしよう。」という共同で事態を打開しようとする気配があってもいい。たとえそれが結実しなくてもいい。『誰も知らない』や『父、帰る』にはそれに 類する熱気があり、私達はそこに入り込めた。また、父の歴史を在日朝鮮人全体の戦後史にからめたことも、この父金俊平と私達との間にさらに距離を設けてし まう結果になったのではないか。原作者や監督や脚本家はそろって在日朝鮮人らしいから、そういうことに拘りがあるのかもしれないが、映画上のダイジェスト 版のような火炎瓶闘争や帰国事業なら私達も既に知っている。そこのところ、民族の歴史とそのなかの特異な個人との噛み合い具合がよくわからない。たしか に、ラストでは彼もそういう全体の歴史に参加してしまうのだが。

  金こそすべて、というのが金俊平の信条だ。爪の先ほどの疑念もなく、闘争心と情熱のすべてをそこに注ぎ込んでいく。そういう野望には私達も無縁ではな く、おおいに理解でき、彼のストレートさに羨望を抱いてもおかしくはない。だが金以外のもの、たとえば他者に対しては憎しみしか持たないのか、それとも 真っ白なほど無意識なのか、よくわからない。彼はほとんど心を開かないが、心が無いに等しいのか、心を語る言葉を持たないのかも、わからない。ビートたけ しの芝居が乗りが悪く見えるのも、主人公への理解の困難さがさせるのかもしれない。
  時代が移り、高度成長が成し遂げられて多くの人々に富が分配されるにいたると、金俊平は人々から迂遠にされる。資産家であることを誰も評価しなくな る。壮年期から老年期にかけて、そうして彼は孤独に追いつめられていく。息子のオダギリジョウが彼の事業の引き継ぎを拒絶したとき、相互の「家族」という 縁はきれてしまうようだ。
  この「父」は哀れまれるべきだろうか。家族にとっては平穏なつながりを一度たりとももてたためしがないという点では、悔恨が残るのかもしれない。しか し私には、主人公の家族から、あるいは私自身の内側から「ざまあみろ」という冷え冷えとした声が聞こえてこなくもない。
  ★★★

panchan(★★★+★★)(2004年11月10日)
ビートたけしはたいへんな役者だ。存在感がある。
しかし、この映画は、そのビートたけしの存在感だけに頼っている。

主人公は孤独と愛情と憎しみを、どう表現していいかわからない。制御がきかない。肉体のうちにあばれまわる感情がある。それをそのまま肉体をとおしてあら わしてしまう。
このとき肉体は幸福だろうか。それとも絶望のまっただなかにいるのだろうか。
――こうした問は、その肉体を見ているときは思い浮かばない。
今、こうして映画を思い出し、感想を書こうとするときになって、ふいに浮かんでくる。ふいに浮かんできて、それに対して答えを考えるとき、その問が不毛の ものだとわかる。
幸福であろうが絶望であろうが、そんなことは問題ではない。今、ここに、こうして肉体があるということ、それこそ血と骨があるということが全体的な真実な のである。肉体があるということ以外に真実はない。
肉体だけが真実なのだ。
その肉体に何が含まれているか。愛情か、憎しみか、絶望か、幸福か、ということなど、肉体と直に向き合えない精神が考え出す妄想に過ぎない。

そして、それが妄想であるがゆえに、人間は、それを何とか妄想ではないものに変えたいと願い、ことばを鍛えるのだろう。つまり、書くのだろう。主人公の息 子が父親を小説にしたように。
――肉体しか見えない、こころ、精神は見えない。肉体が隠している。隠しているからこそ、それを見たいとこころと精神は願うのだろう。

これは、堂堂巡りの悲しみである。人間が生きていることからどうしようもなく生まれてくる悲しみである。

ビートたけしの肉体を見ていると、心底悲しくなってくる。
どうして、ビートたけしの肉体(主人公の肉体)は、ある反応を、ビートたけしが演じたようにしてしか表現できないのか。そのことが切実に悲しい。
ビートたけしの肉体は、演技の一瞬一瞬に泣いている。悲鳴を上げている。その悲鳴はとても切実だ。

たいへんな力業である。

だからこそ、とても残念なことがある。
セットである。戦後の街並みのセット、家庭のセットが薄っぺらい。ビートたけしの演技と拮抗していない。
ビートたけしの演技が浮いてしまっている。
セットが書割ではなく、肉体そのものを感じさせていれば、この映画はまぎれもない傑作になりえた。セットの質感のなさが映画を台無しにしている。