地球は女で回っている

監督 ウディ・アレン 主演 ウディ・アレン、デミ・ムーア、エリザベス・シュー、カーティス・アレイ、ジュディ・デイヴィス、エイミー・アーヴィング、ジュリア・ルイ・ドライファス、ヘイゼル・グッドマン、ロビン・ウィリアムス、ビリー・クリスタル

パンちゃん(11月7日)
3日の感想は……酔っていたせいか、何も書いてないに等しい感想ですねえ。申し訳ない。
ウディ・アレンの映画に共通して感じられるのはジャズの楽しさ。ジャズ感覚。
同じメロディー、リズムでも楽器が違うと感じが違う。同じ楽器でも演奏者が違うと感じが違う。
その一人一人(一つ一つの楽器)が相手の音を聞きながら自分の新しい音を探す。刺戟しながら新しいメロディーとリズムを探し、ハーモニーになってゆく。
そうした感じに非常に似ている。
今度の映画の場合、たとえば現実の不倫(ジュディ・デイヴィス)と小説のなかの不倫(ジュリア・ルイー・ドランファス)の変奏(??)、前々妻の精神分析医(カースティ・アレイ)と小説のなか分析医(デミ・ムーア)の変奏もあって、そのあたりの変化もわくわくする。
互いの「音」に耳を澄まし、自分の「音」にも耳を澄ます--そこから始まる変化はもちろん演技なのだろうけれど、何だか演技ではない、その人自身の資質のようなものも感じる。
おもわずこぼれてしまう「人間性」のようなもの。
この映画ではないけれど、たとえば『アニー・ホール』のダイアン・キートンが茹でようとしていた海老が突然動いて、大笑いするシーンがあるけれど、あの部分の笑いなど演技じゃなく、ハプニングだったと思う。
『ブロードウェイと銃弾』のダイアン・ウィーストの劇場で、こで何の役をやり、どうしたこうしたと大げさな演技をするシーンも、演技を超えている。そんなふうにおげさに自己演出をしてみたい気分が誰にでもあるものだが、その欲望を「芝居」としてぱっとやって見せた。「ホンネ」を「芝居」に託してやってみせた。映画ではなく「冗談」として遊んでみた、その瞬間の役者としてのかわいらしさがきらきら輝いていた。
それをとても自然に映画全体にとりこんでいる。NGを出してとりなおしてもよさそうなシーン、ダイアン・キートンの演技を超えた一瞬の変化、ダイアン・ウィーストのわざとらしい「演技」に託した一瞬の本心、そうした「人間性」を自然にとけこませ、一続きの「曲」にしてしまっている。
一続きの「曲」のなかで、それぞれがきらきらと輝く。
そうした要素がこの映画には満載されている。
その一つ一つがかわいい。美しい。楽しい。抱きしめたい。
ウディ・アレンは女優の自然な感情の発露を深く受け止めることができる人間なのだと思う。そのふところの深さのなかで、女優たちは本当にのびのびと動いている。この解放感が好き。楽しいジャズを聞いたときに似た感じが好き。
石橋 尚平(★★★☆)(11月5日)
shohei@m4.people.or.jp
いつの頃からか、どうもW・アレンの新作にいま一つ乗れなくなってしまっている自 分に気づいた。私は彼の作品はかなり観ているけれども、いつから何だろう? W・ アレンは本当にゴキブリのようなしぶとい奴で、時代の変化に微妙に適応しながら、 かならず一定の水準はキープ゚しているとは思う。だけど何故か乗れなくなってし まったのだ。 『マンハッタン殺人ミステリー』とか、『誘惑のアフロディーテ』 だったら、「今回はこんなもんかな…、これじゃちょっと乗れないな」ということで 済む。私は『ハンナとその姉妹』の頃のアレンの冴え方が一番好きだからと言ってい れば、それで十分立派な理由になる。正直言って、なんであんなに評価されたのか、 買いかぶりすぎだと内心思う『世界中がアイ・ラブ・ユー』だって、「けっ、『マン ハッタン』の頃の粋な粋なアレンじゃないぜ」って言っていれば良かった。『ブロー ドウェイの銃弾』だけは難しいけれども、でも「佳作!」と言って祭り上げればそれ で終わり。でも、今回は本当にどうしてなんだろう? W・アレンの『81/2』と も言える今回の作品は、本当に冴えているし、粋だと思う。たまにやりすぎると鼻に つく映像のお遊びもなかなか粋だったりする。何てったって、その対象がR・ウィリ アムスという贅沢さだ。ジョークも重層のプロットも出演する俳優もみんな粋だ。で も乗れない…。W・アレンって、極めて強い野暮さと粋さが同居している人なんだと 思う。ようするに、自らの精神的病理の部分を、映画創作のセラピーによって毎回毎 回律儀に癒している人だから、観客は本気ともジョークともとれるW.アレンの病的 世界を共有することでカタルシスを疑似体験するところに引き込まれていたんだと思 う。情けないナイーブさと、インテリのスノッブな強がり。そのジョークとも本気と もとれない曖昧な領域こそが、W・アレン得意のぎりぎりの綱渡りであって、時には 野暮な野暮な情けないだけの映画だったり、時には粋なお遊びに走り過ぎて白けさせ てしまうことになっていたんだと思う。しかし、もうそのようなダイナミックなサイ クルは終わってしまった気がする。もう病理的な部分もすっきり癒されて、 W・ア レンは この作品の主人公のように、登場人物を操作して、自らの世界をそれなりに 面白く見せてしまえるようになってしまったんだと思う。セラピスト相手に、セラピ ストがいかにも面白がりそうな話を聞かせてみせる似非患者になってしまったのかも しれない。しかもその話に見せ方が本当に成熟して巧みになっているのだ。自らをコ ントロールして、観客に見える自分を作り上げる巧みさは見事だけれども、自己模倣 に陥っている所も多分にある。それでは『81/2』の緊迫した粋さにはるかに及ば ない。
パンちゃん(★★★★★)(11月3日)
うーん、豪華メンバー。
私は特にジュディ・デイヴィスが気に入った。美人じゃない(私の基準では)。演技はオーバー。でも、好きなんだなあ。
『我が青春の輝き』『インドへの道』『裸のランチ』もいいけど、今回が特にいい。茶色の口紅がたまらない。なめつくしたい。
『ブロードウェイと銃弾』のダイアン・ウィーストみたい。なんかおかしくて愛らしい。演技を超えて、その人自身を抱きしめたくなるくらいかわいい。なぜか、演技を真似したい気持ちになる。表情の一つ一つを真似して、ジュディ・デイヴィスになってみたい気持ちになるなあ。
愛、というのは普通、対象が自分とは違った存在であるという意識から生まれるものなんだけれど、ウディ・アレンの映画をみていると、女という生き物はいいものかもしれないなあ、と思えてくる。
欲望を発散する対象というのではなく、なぜか、ただ抱きしめたい。抱きしめて、その肌の温もりを温もりのまま感じていたい気分になる。
ウディ・アレンは女優の使い方がとてもうまい。女優であることを忘れる。そこに、その人間がいる気持ちになる。
現実問題として、実際にそんな行動というか、ジュディ・デイヴィスのような表現をされたら困るだろうけれど、うーん、かわいい。抱きしめたい。
大嫌いなデミ・ムーアでさえ、かわいい。(私は初めてデミ・ムーアがかわいい、とこの映画で思った。)
エリザベス・シューもかわいいし、エイミー・アーヴィングも、わっ、すっごい美人と叫びたくなる。久々のマニュエル・ヘミングウェイもいいなあ。
みんな美人には映像化されていない。そこが、なぜか美人に感じる。ピカソの描く女みたい。剥き出しにされて美が輝いている。
抱きしめたい、キスしたい、セックスしたい。ああ、大好き。
幸せ気分。
感想にも批評にもなっていないけど、いいんだ。そんな気持ち。誰にもわかってくれなくてもかまわない。それくらいハッピーな映画。
人を好きになるっていうことが、人間の生きている意味なんだ。うん。