運動靴と赤い金魚


監督 マジッド・マジディ 主演 ミル・ファクロ・ハシェミアン、バハレ・セッデキ、アミル・ナージ

とみい(2001年3月11日)
妹の靴をなくした少年が、マラソン大会の景品に運動靴があることを知り、 大会に参加するのだが……。
子供の世界を描いた、評判どおりの傑作。
日本やアメリカの映画って、最近、子供を賢く描きすぎてしまってるなと 改めて思ってしまった。
ストレートな子供の心の表現って、こういうものだろう。
妹の学校の制服が、とてもかわいいのと、 主人公のいる貧民街と上流階級の住宅地の対比のコントラストが鮮烈です。
こんな地味な映画が単館でもヒットしたとゆうことに、日本の観客も 捨てたもんじゃないな、と思えました。
個人的な好みとしては、ラストの父親の自転車のカットは、 少年の泣きそうな顔の後に挿入してあったほうがよかった。
★★★★☆。
しーくん(★★★★★)(1999年8月17日)
kanpoh1@dus.sun-ip.or.jp
今年は『マイ・フレンド・メモリー』『フェアリーテイル』等、子供が主人公の映画を見る機会が多くそのいずれもが素晴らしい作品ですが、この作品はそれ以上の出来!私の本年度ベスト5には必ず入るでしょう。『エピソード1』『プリンス・オブ・エジプト』等、話題の割には内容が今一つの今年の夏休み映画。先週末から始まった『エントラップメント』も見る気が出なく、少しさびしい気持ちでしたが、そんなもやもやが一気に吹っ飛んでしまいました。やっぱり最近はミニシアター系で上映される作品のほうが充実していますね。正直な気持ちを先に書くと、この作品には『がんばっていきまっしょい』のように見終わってから感動がジワジワくるのを期待していました。しかし残念ながらそれはありませんでした。それでも満点を付けたのは、主人公を演じた幼い兄妹があまりにも素晴らしいからです。しかもこの二人が全くの素人であるのには驚きです。今でも妹が必死で走る姿と“タッタッタッタッ”という足音、そして兄の泣き顔が脳裏から離れません。映画は妹のボロボロになった靴を修理する場面から始まります。今の“使い捨て大国”日本ではとても考えられない光景です。私は学生時代野球部に所属していて、ボロボロになったボールを持ち帰り夜遅くまで修理した経験があるので、このシーンだけでこの作品を好きになりました。兄妹と共に盲目の行商人の娘を演じる女の子も印象的です。特に妹ザーラの落としたボールペンを拾い、それを手渡すまでは微笑ましいシーンの連続です。新品のボールペンで文字を書くときのうれしそうな顔、ザーラにボールペンを手渡すときの微笑み・・彼女の笑顔は私の心を癒してくれました。最後のマラソン大会は兄が3位を狙うことで面白さが倍増しますね。5、6人が折り重なるようにして入ってくるゴールは本当に手に汗を握ります。何も最新のSFXを使わなくても、派手な演出シーンが無くても、こんなにも見応えのある作品が出来上がるのですね。大ヒット中の映画には是非とも見習ってもらいたいです。ミニシアター系なので、公開地域も限られてしまいますが、この夏一押しの作品です。
パンちゃん(★★★★)(1999年8月15日)
この映画の美しい幾つかのシーンについてはすでにトトさんが書いているので、それ以外のシーンについて書いておきたい。
『りんご』について書いたとき、イランの幻想性について書いたが、今回もそれを感じた。
「幻想」といっても、全くの絵空事というのではなく、『りんご』の靴墨の花のように、深く現実に根ざしていながらというか、現実のリアリティが強烈なバネになって、そこには存在しないはずのものを見せる不思議な力にあふれた描写のことだ。
この映画の最後のシーン。少年がぼろぼろの靴でマラソンを走り抜き、傷だらけの足をさらす。その傷を、熱のこもった足を、小さな池に浸す。そこには金魚(赤い鮒?)が何匹も泳いでいるのだが、その金魚が少年の足を愛撫するかのように寄って来る。
このとき、変な言い方だが、「神」が存在するのだと信じたくなる。
少年が妹に靴を与えたくてマラソン大会に出場し、運悪く(?)1等になってしまい、3等の賞品の運動靴を逃してしまう。そのとき、少年は妹との約束を守りたいだけのために走っていた。頑張っていた。その頑張りを誰も知らない。例えば妹は何等だったかなど気にしていない、ただ兄が3等の賞品を持って帰らなかったことだけを恨んでいる。例えば、校長や体育の先生は、少年が1等だったからこそ喜んでいる。少年が3等の賞品の靴を狙って力走したことなど気にもかけていない。
少年だけが、自分の頑張りと、その頑張りが実らなかったことの悔しさを知っている。残念がっている。そうし放心するように、足を池に浸す。少年は、マラソン大会のあと、足をマッサージしてもらう少年の姿を見たけれど、少年の足をマッサージする者など、少年の周りにはいない。少年の残念な気持ちを聞き取ろうとする人間はどこにもいない。だから、少年は一人、足を池に浸すのだが……。
そこへ金魚がやってくる。何も言わず、ただ足の周りに集まって来る。それは「神」が少年に与えた花束のようにも見える。「神」のやさしい指先のようにも見える。
冷たい清冽な水ではなく、太陽に温められて温い水、そのなかの何の変哲もない赤い金魚----それが、「神」の祝福にかわる一瞬。日常の、現実そのもののなかから「神」があらわれる一瞬。そんな美しさが、最後のシーンには存在する。
*
「神」はその他のシーンにもあらわれる。たとえば、妹が自分のボロ靴を別の少女が履いているのをみつける。少女を追いかけ、その家を突き止める。兄と一緒に、その家へ行き、靴を返してもらおうとする。そのとき、例の少女と父親が家から出てくる。父親は盲目だ。他人のほどこしを頼りに生きている。そのことを知って少年と妹は、そっと引き下がる。靴を返してくれとは要求しない。
少年たちは知ってしまったからだ。少女の父親が悪意から靴を盗んだのではないことを。少女は、それが少年がなくした靴であることを知らずに履いていることを。そして、その「現実」をそっくりそのまま受け入れる。
この瞬間の、何ともいえない人間の温かさのなかに「神」が見える。
*
アラブの「神」はキリスト教のように「人格神」ではない。また「十字架」や「教会」を通して向き合う「神」でもない。アラブでは一人一人が直接「神」と向き合う。自分の行為を「神」と向き合わせる。
それはたぶん、もっとも激烈な「神」と人間の関係であるかもしれない。激烈であるからこそ、あらゆる瞬間に、「神」が現実を突き破って姿をあらわすのだろう。日常そのもののなか。
あるときは赤い金魚となって、あるときは他人の幸せを許し、自分の苦悩を受け入れるひそやかな人間の行為となって。
こうした国民性が見える映画というのは本当に美しい。はっとさせられる。
トト(★★★★★)(1999年8月6日)
fwij7519@mb.infoweb.ne.jp
テヘランの極貧地区。貧困に喘ぎながらある一家が暮らしている。父と母と兄と妹と生まれたばかりの女の子の五人である。両親は共働きにもかかわらず、家賃をきち んと払えないでいる。母親は腰を痛め、病気がちのため、家事は子供たちが手伝わなくてはいけない。ある日、兄のアリは妹のザーラのたった一つの靴をなくしてしま う。靴がないと学校に行けない、と泣き出すザーラ。新しく買ってくれとはとても両親に言えはしない。学校は午前の部と午後の部に分かれていて、ザーラは午前、アリは 午後だから二人はアリの靴を午前と午後の間に履きかえることにする。ザーラは男物が気に入らず、アリは履き替えのために遅刻を繰り返す。そんな中で、地域のマラ ソン大会が開催されることになる。三位の賞品は運動靴。それを手に入れ女の子用の靴と交換するために、アリはあえて三位を目指して大会に出場する。
眩いばかりに生命が輝く瞬間がある。
この映画を見て、改めてその思いを強くした。とても静かなストーリーの中で、そういった一瞬のきらめきがひときわ強調される。いや、強調されるのではない。淡々とし た描写なのだけれども、だからこそむしろ胸に迫るものがあるのだと思う。けして、感傷過剰にすることなくこれほどの感動を与えてくれたこの作品に最大級の賛辞を贈り たい。
心に残ったシーンは数え切れないほどあるが、特に心に残ったものとして次の三つのシーンを挙げたいと思う。
まず、汚れてしまったアリの靴を二人で洗う場面。洗濯場で石鹸を付けて靴を洗いながらシャボン玉を飛ばすシーンの楽しさ、美しさ、みずみずしさは忘れられない。
笑いながら夢中でシャボン玉遊びに熱中する兄妹の心のふれあいが実によく表現されている。実はこの場面の前には二人はちょっとしたけんかをするのだが、こうして 靴を洗うことで奇麗になったのはきっと靴だけではないだろう。彼らは、ザーラの靴がなくなってしまって以来生じていた互いの心の中にある相手に対する気持ち、ザーラ のわたしの靴をなくしてどうしてくれるの、という気持ち、アリのいつまでもぐずぐず言ってないでおれの靴で我慢しろよ、という気持ち、そしてそんな気持ちが引き起こす やりきれなさのようなものを靴の汚れを落とすことで一緒に洗い流している。もちろん二人はそんなことを意識してやっているわけではないし、この後も二人は何度か言 い合いをするのだが、この瞬間の二人は間違いなく明らかに幸福に包まれているのだということが画面から伝わってくる。そして、その幸福が限られたものであるからこ そ、そして、その事実を夢中になっている兄妹は知るはずもなく、つかの間の幸福を満喫しているからこそ、この瞬間の二人は永遠なのである。この幸福は永遠には続 かない。映画の中のこの後の二人も、映画が終った後の二人も幾度となく苦しみを味わうだろう。そうだとしても、つかの間の幸福に身を置いたということは疑いのない事 実なのであり、その意味でこの二人は永遠なのだ。
つぎに、アリと父親が庭師のバイトのために高級住宅街を訪れる場面。アリが暮らす地区とはすべてが違うこの街の大きな道路を、猛スピードで走る車の横を親子は 古い自転車に乗りながら必至に進んでいくその姿を引いて撮ったシーンは印象深い。二人の乗る自転車は隣を駆け抜ける自動車の風にさえ飛ばされそうなほど、見る からに危なげだ。二人の姿はまるで大きな濁流に飲まれた一隻の粗末な船のようだ。ちょっとしたことで今にも転覆するかもしれない。そんな二人の弱さを引き立たせる かのように自転車など他には走っていないその大きな道路で、この高級住宅街にあっては飛ばされてきたちりのように小さな存在であるのも関わらず、しかし懸命に自転 車をこぐ父親とその前に座るアリがいて、二人の表情には心細さや、戸惑いが浮かんでいる。アリは父親を頼りにし、父親もアリを守ろうとしている。文字通りの白亜の殿 堂や、大きな広告板に圧倒されながらも精一杯の父としての威厳を保とうとするこの父親の姿は高潔さに溢れている。その一方でアリも何とかして父親を助けようとす る。そんなアリに父は言う、「アリはすごいな」。二人は明らかに無力であり、弱者である。その姿を容赦なく映し出している。そこには微塵の遠慮も同情もない。あるのは ただ、厳しい現実だけである。その現実の中を二人は前に進んでいく。堅い絆に結ばれながら。この時の父親の感心したような表情と、アリの嬉しそうな表情はそのこと を伝えている。
最後に、これは最も感動した場面なのだが、マラソン大会に出場することをアリがザーラに伝えるところである。三位の賞品が運動靴であることを聞いたザーラはアリ に、本当に大丈夫なのかと問い掛ける。アリは力強く答える。「三位になってみせる」。このシーンは本当に感動した。世の中にはいわゆる不条理が無数に存在する。こ の作品を見ても分かるようにザーラの靴がなくなってしまったことも結果的に不条理である。人間の力を超えた何者かの力に、もてあそばれているとしか思えないほど時 として人間は無力である。そして、償われない涙がある。本当に残念で悲しいことだが、それが現実なのかもしれない。だが、そうだとしても無力な人間は、ただ単にそれ を受け入れるだけしかないのだろうか。ぼくはそうだとは思わない。結果的に敗れ去ろうとも、不完全な現実に精一杯の抵抗をするべきだと思う。現実なんて、人間なん てしょせんは不完全なのだという姿勢は人間性に対する冒涜である。そういった不条理や不幸な現実に対しての挑戦という行為は美しい。その意味で、ギリシャ神話の プロメテウスや『罪と罰』のラスコーリニコフ、『ペスト』のリウーなどはぼくにとっては極めて魅力的である。そしてこの映画のアリもその小さいながらも懸命な勇気と決意 を見せる。不安そうに自分を見詰める妹の目を見ながら「三位になってみせる」と必死に語る時の彼の姿には痛々しいほどに胸を締め付けられた。この言葉はただその 場限りのものでない普遍的な力強さが込められている。その強さが愛によって燃え上がった一瞬のあまりの美しさに目を奪われ、あまりの切なさに胸は熱くなった。
この映画は大人とは違った世界に住む純粋無垢なだけの子供を描いた映画ではない。またそういった子供を通し、それと対照的な大人を描いた映画でもない。この映 画は、本来持ちあわせている強さと美しさを煌かせる小さな人間を描いた映画である。