ユー・ガット・メール(1)

監督 ノーラ・エフロン 主演 トム・ハンクス、メグ・ライアン


ゆん(2月27日)
junny@ma4.justnet.ne.jp
女性の視点だな〜、と思いました。私もすっかり女性の視点で見てしまいました。
メグ・ライアン演じるキャスリーンは、映画の最初から終わりまで全然変わらずにいるのだけど、トム・ハンクス演じるジョーは、キャスリーンを側で見ているうちにどんどん変わって行きます。
それに、後半部分では、完全に自分を殺してキャスリーンのペースに合わせて行動していました。
「こんなふうに男性に見てもらえたらいいな」「こんなふうに行動してもらえたらいいな」と思う要素が、たっぷり詰まってます。映画が進むにつれ、最初は「トム、腹出てるなあ」などと思っていたことをすっかり忘れて、ものすごく素敵な男性に見えてきます。
キャスリーンは、ジョーの優しさにすっかり甘えた立場なのですが、メグのキャラクターがそれにぴったりでした。とにかくかわいいし、無垢なイメージがあります。
この二人の性格付け、話の進み方で、ついつい引き込まれてしまうのですが・・・。
ちょっと考えると、この主役二人は、女性誌によくある「理想の男性」「こんな女が今モテる」特集に出てくるような人間なのです。完全に女性のペースに合わせて、一段高いところから女性を見ているけどそれを感じさせない男性、経済的・社会的に自立していながら、恋愛に対しては一切かわいい部分を失わず、それを表現することをためらわない女性。
だからこそこの映画に引き込まれる女性が多いのだと思います。
この映画はおとぎ話を描くことに成功していると思いました。
ちなみに、私は見終わったときに「こりゃー男性が怒りそうだ」と思ったのですが、うちの夫は「いい映画だねえ」と素直な感想を述べていました。夫は、ジョーの立場を自分に置き換えずまさにおとぎ話として捉えたのだと思いますが、本当は、男性諸氏は「この女勝手だなあ」と思う映画なんじゃないかなと思います。
パンちゃんが「女は、自分が納得できるまで待っていてくれる男が好きなのだ」と書いていましたが、全ての女性がそうでないにしろ、全く同感です。こんな人いないかしら。
kaeru(2月27日)
kaeru-n@msn.com
こんばんは、PANCHANさん。
なぜか女性の意見が少なくて残念ですね。私も「男性はケッと思うかもしれません」 と、心ないことをかいてしまいましたが、「気恥ずかしい」とか「鼻白む」という意 味でとってください。
私がPANCHANさんの感想を読んだとき、思い出したのは田辺聖子さんの「文車 日記」です。この中に「あひみての・・・」について優れた論評があります。
当時高校生だった私は、この歌を「逢った後ではより一層愛(恋)の苦しさ・激しさ を感じるようになった。逢う前は何も考えなかったようなものだ」という意味でとっ ていたのです。ところが、田辺さんは「逢う前は情熱が先行していたが、逢った後で はその情熱が醒めてより複雑な感情を味わうようになった、男の少し苦渋を交えた思 い」(手元に本がないので、ずれているかもしれません)という解釈をされているの です。
さすが人生の先達!と目からうろこが落ちました。この解釈が正しいかどうかはさて おき、男女の間では「逢う」ことの意味が違うのだというのがわかりました。あくま で一般論ですが、男性にとっての恋の楽しさは「逢う」までの様々な駆け引きで、女 性にとっては「逢った」後の愛の深め方にあるような気がします。
平安時代の歌人たちも、「ユー・ガット・メール」の主人公たちのように、互いの文 学的教養を漂わせた文や、思いにあふれた歌をやりとりしていたのでしょうね。
それから、「唇に指をふれる」というシーンを見たときは私もドキドキしました。同 じような行為を現実にみたことがあります。男女三人で話をしていたときに、男性が 一人の女性の唇を指で押さえたのです。女二人は思わず赤くなってしまいましたが、 彼は単にその女性の声が大きいので黙らせたかっただけでした。
PANCHANさんのように異性の観点を共有できると、映画の見方も広がります ね。
それではまた
パンちゃん(2月27日)
下の石橋尚平さんのメールへの感想です。(私が先日書いた『ユー・ガット・メール』についての感想への言及が、下の石橋さんの2行です。)
ある映画のときも同じような表現のメールをくれた人がいました。(匿名希望ということなので、名前は書きません。)
その人も「私はあなたのセラピストではない」という表現を使っていました。
誤解のないようにはっきり言っておきますが、私は石橋さんに私のセラピストになってくれと頼んだことはありません。また、私は男です。
*
『ユー・ガット・メール』の後半の20分を石橋さんは否定的にとらえる。それに対して私は後半の20分こそ、ノーラ・エフロンのオリジナリティーであり、そこを評価しなければ映画を見たことにならないと考える。
一つの作品について評価がわかれるのはありふれたとこだけれど、こうした場合、石橋さんの特徴は、彼の批評のあり方が絶対的に正しく、それ以外の批評は「次元が低い卑しさに満ちている」ものになる。石橋さんが言っていることが正しいかどうかはわからないけれど、正しいかどうかは別にして、これだけは言っておきたい。
石橋さん、あなたが絶対的に正しく、あなた以外の人間がとんでもなく次元の世界論理を展開し、卑しさに満ちていたとしても、それを「次元が低い」「卑しい」と拒否するのではなく、受け止めなければならないときがあるのです。
これは何も私の批評を受け入れろ、という意味ではありません。
『ユー・ガット・メール』に戻して話してみましょうか。
トム・ハンクスが風邪のメグ・ライアンを見舞いに行った後、唇に指で触れた後、映画の展開は一気にもたつく。(このことについては、私と石橋さんとの間で、認識が一致していると考えていいですか?)
で、そのもたついた部分について言えば、私は、ノーラ・エフロンがそれまでの映画文法とは違った方法で映画を撮っているからだと考える。石橋さんは、その「違った映画文法」を「違っている」ということをもとに否定する。ところが、私は「違っている」からこそ、そこに彼女の個性が出ていて面白いと思う。
その「違っている」映画文法について、私はうまく語れないけれど、そこには「等身大の女」というものが反映されている。
女というのは、男と同じ部分もあれば「違っている」部分もある。それはペニスがついているか、ヴァギナがついているかという肉体的、表面的な違いだけのことではない。
ある行動をどのように楽しむか、何に感情を充実させるかという部分で微妙に違っている。
この違いは、違いとして明確に意識しない限り、ただ「変」に見えるだけである。「もたもた」に見えるだけのものである。
『マイケル』はすでに何度も書いたので『恋人たちの予感』を例にとって説明しましょうか。これはノーラ・エフロンの脚本だ。
メグ・ランアンとビリー・クリスタルがレストランに入る。男はぱっと料理を頼む。ところが女は、「何とかと何とかはくっつかないようにして、ドレッシングはかけずにそばに置いて」と色々注文する。男はあきれる。出て来た料理をみて、女が「ドレッシングが何とかにまでかかっている」と不平を言う。男「食べたら、同じだろう」とかなんとか。
男は料理など食べてしまえば(胃の中に入ってしまえば)同じだと思っている。ところが女は、男とは違った基準で料理を見ている。胃の中に入った後、栄養素に分解された後ではなく、目で楽しみ、舌で味わい、歯でも味わい、のどでも味わいたいのだ。
そうした一瞬一瞬の楽しみ方を「次元が低い」とか「卑しさに満ちた」感覚というのは石橋さんの勝手だけれど、あなたがそう思ったからといって、女に「そんな注文の仕方、そんな食べ物の楽しみ方は次元が低い、卑しい」と言ってはならない。そんなふうに他人を否定してはいけない。
ちゃんとした男なら、自分の好みと違っていても、女のためにウエーターなりウエートレスなりに、「これは注文と違っている」ぐらい言ってやれるようになりなさい。
それくらいの感性の寛容さを身につけなさい。
私は最初に『ユー・ガット・メール』の感想を書いたとき、これは「恋愛の教科書」になる、と書いた。それは、そういう意味である。この映画の最後のリズムは、男がトム・ハンクスのリズムで女に接近するならもてる、女はそうしたリズム、接近の仕方を待っている、という手本になると思うからそう書いたのだ。
(後半の20分のトム・ハンクスのようにふるまえば、本当にもてると思う。この悠長さというか、もたもた感は、実際にやろうとすると多分男には出来ないだろうと思うくらい、もたもたしている。多分、映画のなかの主人公以外はだれもしないだろう。)
そして、この「恋の教科書」は、単なる教科書ではなく、ノーラ・エフロンから男たちへの「意義申し立て」でもあるのだ。
石橋さん、いいですか、この映画は女を理解しないあなた自身へのノーラ・エフロンからの意義申し立ての映画なのです。
石橋さんが女をいかに理解していないかは、私を「貴女」と呼んだことだけでもわかります。
ついでに書いておきますが、石橋さんは「貴女」という表現で私を蔑視したつもりなのかもしれませんが、こうした「蔑視」の仕方はやめたほうがいいでしょうねえ。人を「蔑視」してもあなた自身の「次元」が高まるわけではありませんから。もっと具体的に言えば、石橋さんが私を「貴女」と呼んだところで、それであなたの「貴男」ぶりが高まるわけではありませんから。
自分が唯一正しく絶対である、自分と意見や見方が違う人間は次元が低く卑しい、と思うこともときには大切な感情でしょうが、その一方、常に他人は自分とは違う生き方をする権利と自由があるということを忘れないようにして下さい。
石橋 尚平(2月27日)
shohei@m4.people.or.jp
http://www.people.or.jp/~gokko/index.htm
あまりに次元が低い卑しさに満ちているので呆れました。
まあ、くどいようだけれども私は貴女のセラピストではないのでね・・・。
ダグラス・タガミ(2月26日)
メグ・ライアンの映画を初めて見ました。人気があるのわかります。
かわいいですね。確かに。
ただ、内容に関しては、この手の恋愛映画は、体質に合いませんでした。
私は、アウト・オブ・サイト派です。
ただし、ゴッドファーザーを絡めたギャグ(?)は、面白かったです。
周りで笑っていたのは、一人だけでしたけど。
大体の日本男児が仁義なき戦いや健さんを好きなようにやっぱり、 むこうもゴッドファーザーが好きなようですねぇ。違うのかな。
やっぱり、ああいうしょうもないマネしているハンクスが良いです。
帰りに無性に飲みたくなり、スターバックスに寄りました。
まんまと映画のタイアップに飲み込まれました。
パンちゃん(2月26日)
下の石橋さんのセックスに対する意見というのは男の視点から見たセックスだと思うなあ。私も男だから男の視点で見るのだけれど、私が言いたいのは、『ユー・ガット・メール』の後半20分は男の基準で判断するのではなく、そこに女の基準があらわれているということを見ないことには映画を見たことにならないのでないか、ということ。
現代は「男女平等」と言われているし、実際に「男女同権」の時代なのだろうけれど、女の感性というのはあまり正確には評価されていないように思う。ジェー・フォンダやバーブラ・ストライザンド、さらにはオルブライト長官のように男勝り(?)の女性というのは正当な評価を獲得しているけれど、そうではないごく普通の(と、言っていいのかなあ)の女の感覚がどうも不当に扱われていると思う。
男女には同じ部分と異質の部分がある。ジェーン・フォンダやバーブラ・ストライザンドは「同じ部分」で男と対等の評価を得ているのだと思う。
ノーラ・エフロンが描いているのは、そうした「同質」の部分の女ではなく、「異質」の部分の女だと思う。
セックスとオルガスムスについて言えば、男にとってセックスというのは射精につきる。ところが女は違うんじゃないかな。
たとえば『マイケル』で、トラボルタを取り囲んで、多くの女がダンスするシーンがある。あれはセックスの一種なのだ。彼女たちは複数で一人の男(トラボルタ)を共有していることを楽しんでいる。自分以外の女が感じる楽しさを自分のことのように感じて、わいわい盛り上がる。(こういう盛り上がり方は多くの女性が見せるものだと思う。一方、ジェーン・フォンダやバーブラ・ストライザンド、あるいはオルブライトがこの集団に参加するとは思えない。)
男にはこういう楽しみ方はないねえ。女が一人、男が複数となると、これはセックスの楽しみというより、集団レイプになる。(たとえば『告発』)そういう楽しみ方がないがゆえに、あのシーンは男の共感を呼ばない。実際に、女を取られたと思ってボーイフレンドたちがトラボルタに殴り掛かる。
ここには、ノーラ・エフロンからの、男への「意義申し立て」が込められている。もちろん、そうした「意義申し立て」を拒否するのも一つの方法ではあるけれど、私は高く評価したい。今までだれもそうした「意義申し立て」をしなかった。
『ユー・ガット・メール』の後半の20分も、そうした「意義申し立て」の一種なのだ。
男が監督したなら、この映画は、トム・ハンクスが風邪のメグ・ライアンを見舞いに行った部分、何か言おうとしたメグ・ライアンの唇をトム・ハンクスの指がそっと押さえる部分で終わる。その指をおしのけて何かを主張しなかったということで、そこに一種の了解があり、恋が成就したことがわかるからだ。
でも、これは「男の論理」なのだ。
ノーラ・エフロンはそうした「男の論理」に「意義申し立て」をするために、その後の20分を撮っている。この映画のポイントは、その「意義申し立て」にある。
「意義申し立て」を聞くのはいやなものだ。そんなものなど聞きたくない、というのが誰にでも共通する感覚かもしれない。
しかしねえ、私のような年齢になってしまうと、この「意義申し立て」を聞くのが好きになってしまうのだ。いやあ、人間って様々な感覚をしているんだなあ、こんなふうに感じるのか、と思う瞬間がとても楽しいのだ。
*
前回、カンピオンの『ピアノレッスン』について書いたのだけれど、少し追加。
あの映画で、私は靴下の穴から肌に触れるシーンに驚いたけれど、もう一つ忘れられないシーンがある。
男がベッドに横たわっている。女が服を脱いで男に近づいて行く。それを女の後ろ姿から撮っている。
私は正直に言って、度肝を抜かれた。そうしたセックスシーンを見た記憶がない。
男の監督が撮ると、近づいて来る女は正面から描写される。女が後ろ姿で歩くのは去って行くときである。
「見る」とこ一つをとってみても、男と女では「見え方」が全く違うのだと思う。
その「見え方」の違い(意義申し立て)を、自分の「見方」と違う、だからつまらない(これからセックスをするのに、近づいて来る女の正面の裸が見えないというのはつまらない)というのではなく、あ、これが女の感覚なのか、と思って、それを受け入れる、それを楽しむことが、本当の「男女平等」への手がかりではないかなあ、と私は思う。
ジェーン・フォンダやバーブラ・ストライザンドのような「男女同権」型の主張はもう十分達成された。これからは、さらに一歩進んで「男の論理」に組み込まれていない部分を主張していく時代になったのだ、とノーラ・エフロンは観客に伝えたいのだと思う。
私はその主張は正しいし、その主張を聞き入れない限り、『ユー・ガット・メール』を見たことにはならないと思う。
後半の20分はもたもたしているかもしれない。それは「もたもた」でしか伝えられないことだからである。また、それが「もたもた」として見えるのは「男の基準」(男の感覚が絶対正しいという基準)で見るから「もたもた」に見えるのだ。その感覚が女そのものを表現している(これはいい意味でのこと)。その感覚をこれまで映画で表現した人間はいない。今までの映画は「男の基準」で構成され、そこからはみ出た「もたもた」を切り捨てることで成り立っていた。
ここではノーラ・エフロン、あるいはメグ・ライアンは「男の視線を意識した女」(つまり男の見たいような女、男の基準にのっとった女)を表現しているのではない。
男に見せることを意識せずに、自分の部屋で着替えをするような感じの女そのものを見せている。生身の女を見せている。
女と一緒に出掛けるときのことを思い浮かべるとわかりやすいかなあ。男ははやく出発したいのに、女はぐずぐずと着替えをしている。男にはぐずぐずにしか見えない。けれど、女は何を着ていこう、何を着ればきれいに見えるか--その思いの一瞬一瞬を味わいながら着替えているんだねえ。
トム・ハンクスは、いわば、女が自分で満足がゆくおしゃれができるまで、じっと待っている、といえばいいかなあ。このじっと待ってくれているという感覚があるから、メグ・ライアンは最後に満足する。だまされていたという感じではなく、満足して「恋愛」に到達することができる。
女が女として満足できるまでの、こうした瞬間瞬間の感情の充実のさらけ出しを、私は「セックスそのもの」と呼んだ。
性器の行使による性交渉という意味で「セックス」と言ったわけではない。男にとっての「セックス」は射精に尽きる、とすでに書いたけれど、女はたぶんそんなことより、感情の充実を楽しんでいるのだ。
女の感情の、そうした充実をじっと受け止める、とういのがこれからの恋愛、初恋ではなく何度も何度も恋をして生きる30代からあとの恋愛の重要な部分だと思う。
*
自分の部屋で着替えをするときのような感じ、というのは女優選びにもよく出ていると思う。
『マイケル』のアンディ・マクドウェルも『ユー・ガット・メール』のメグ・ライアンも、性的な魅力たっぷりという女優ではない。
男のファンもいるだろうけれど、どちらかといえば女好きのする女優だろう。女が好きになりそうな、というか親しみを感じ、感情を共有しやすい女優だろう。
男の監督が表現してこなかった「女の身内」の女の感覚を表現するには、そうした女優が最適なのだと思う。
「女の身内」の女の感覚を、石橋さんの言うように「オナニズム」と呼ぶのはそれはそれで一つの方法だろうけれど、そうしたとらえ方は「女性蔑視」というものではないだろうか。男の感覚、感じ方が世界の基準なのだという考え方ではないだろうか。
そうした視点では、これからの恋愛はぎくしゃくするんじゃないだろうか。
もっと女の主張を聞かなくては……という意味で、私は「恋愛の教科書」に最適、とも書いたのだけれど。
石橋 尚平(2月26日)
shohei@m4.people.or.jp
http://www.people.or.jp/~gokko/index.htm
ううん、後半部分がセックスそのものだと・・・。全く逆ですね。後半って、差異を 喪失した、通俗的な予定調和の同化の部分でしかないでしょ。それがセックスだとい うのは、性器の行使による肉体的なオルガスムスの一瞬だけを性的快楽だと特権視す る発想に近いですね。しかもそのオルガスムスが大して快感のあるものではないんで すけれどもね、単に俗っぽい予定調和なだけで。
それって、肉体的なものではなく、あくまでバーチャルに勝手に頭で描いただけの快 楽の頂点ですね。オナニズムに近いですね。後半(というかとってつけた最後の20 分)は、過去の性的行為を頭で思い浮かべて自分で慰めている部分だと私は思いま す。
ちょっと頭で考え過ぎではないですかね・・・。
kaeru(2月26日)
kaeru-n@msn.com
日記を拝見しました。「大」朝日新聞(愛読しておりますが、たまにすごーく無神経 な感じがします)でも「後半がつまらない」といわれているのですか・・・。
でも私はラストに至るまで好きです。街角の本屋さんがつぶれた後、メグ・ライアン がFOX書店の児童書コーナーで童話の作者名の綴りを店員に説明するところで大泣 きしましたし。お見舞い以降の淡々とした展開もよかったと思います。
男女が「逢う」以前と以後では時間の流れ方が違う気がするのです。しかも相変らず フランス語吹替でみてしまい、前半の文学論議がよくわからなかった私は(すみませ ん)、「逢う」前は別の世界、別の文脈で生きている二人が、「逢った」後は既に同 じ世界で生きている、という感じがしみじみしました。「あひみてののちのこころに くらぶれば・・・」(ちょっと違うかな)ですが、男性が見たら「ケッ」というかも しれませんね。
パンちゃん(下の石橋尚平さんの採点に対するコメントです。石橋さんの採点を読んでから読んで下さい。)(2月25日)
女性と男性の感覚の一番の違いは「触覚」に対する感覚だと思う。男はセックスにおいて「触覚」は女ほど敏感ではない。
風邪の見舞いに行ったときトム・ハンクスがメグ・ライアンの唇に手で触れる。ここからセックスが始まっていると思う。セックスは恋愛の一部だけれど、この瞬間から、ことばの触れ合いではなく、肉体の触れ合いとしてのセックスが始まっている。したがって、映画のリズムが違って来る。違って来るというところが、この映画のポイントだと思う。
前半は肉体を欠いた「精神」の部分の恋愛。だから、しゃれていて、とても軽い。軽快だ。
後半も、前半と同じ軽いリズムで進めるのはちょっとむり。
ここでしゃれたリズムが登場すると、それは「純愛」ではなく、プレイボーイの世界になる。
ノーラ・エフロンは、ここでは「プレイボーイ」路線、つまり男の視点の恋愛(セックス)を拒否し、女の主張をしている。
女の主張として、後半を見ることができるかどうかが、後半を楽しむことができるかどうかの分かれ目になると思う。
*
「触覚」としてのセックスについては、カンピオン監督がすごい。
『ピアノレッスン』の、靴下の穴から肌に触るシーン。触られた瞬間に、突然、女が変わり始める。
ピアノの下にもぐられ、スカートの奥をのぞかれたときは毅然としていた女の顔が、突然変わる。
『ある貴婦人の肖像』でも、ベッドの飾り房に額を触れさせ、そこからセックスの幻想が始まる。飾り房が指になって頬をなぞり、その手が体をまさぐる。
男にとっては触ること(触覚)はセックスの前段だけれど、女にとってはセックスそのものなのだと思う。
肩に触る、手に触る--というのは、男にとってはまだまだセックスではないけれど、女にとってはセックスなのだと思う。だからこそ、肩に触っただけ、手に触っただけでも「セクハラ」と言われるのだと思う。
*
トム・ハンクスがメグ・ライアンの唇にそっと指を重ね、彼女のことばをさえぎった。その瞬間から、ことばによる恋愛ゲームは終わり、セックスが始まっている。それも男の視点からのセックスではなく、女の望むセックスが始まっている。
この明確な主張の仕方が私には非常におもしろく感じられる。アメリカというのはやはりずいぶんラディカルな精神風土なのだと感心してしまう。
あまり評判のよくなかった『マイケル』にも、女のセックス意識が色濃く出ていた部分がある。たとえば、パイ屋に入って全種類のパイを注文し、全員で楽しく食べるシーン。あれもセックスシーンなのだ。女にとっては。
男の監督だと、食べ物がセックスに変わるのは、パイなどではなく、生卵(伊丹十三の『タンポポ』のファーストシーン)だったり、肉汁の垂れる何かの丸焼きだったり、豪華な食事だったりする。力任せの食欲がセックスなのだが、女にとってはそうではなく、甘く柔らかいもの、触覚をくすぐるようなものがセックスなのだ。
ノーマ・エフロン監督がそうしたことをきちんと語り始めたことを私は素晴らしいことだと思う。
彼女の主張には、男がちゃんと受け止めなければならないものがあるのだと思う。
石橋 尚平(★★★★)(2月25日)
shohei@m4.people.or.jp
http://www.people.or.jp/~gokko/index.htm
この映画はラスト近くまでいいのだけれども、その後が駄目。中年の少女漫画だよ、あれじゃ。ルビッチ版ではトルストイの『アンナ・カレーニナ』が使われていたけれども、この映画ではJ・オースティンの『高慢と偏見』。ナイス・チョイス。ラスト近くまでと、それ以降では、『高慢と偏見』をどう扱うかも全然違っている。冒頭の部分では、M・ライアンが大好きな『高慢と偏見』を200回は読んだとうそぶいて、気に入った四つの単語をクイーンズ・イングリッシュで発音していた。だけれども、ダーシーとエリザベスの関係を自分たちに当てはめようとしていたあたりではもう駄目。二人の恋は私にとってはあそこまでで終わり。というか、恋になってしまったら終わり。恋の雰囲気の中で同じ方向を向き合っているのが面白い話なのに。だから、メグの街角の店がつぶれた段階でこの映画は終わり。そこから先はどうでもいい。T・ハンクスが男らしく騙されてあげようが、M・ライアンが可愛いだろうが、そんなことはどうでもいい。恋愛の教訓なんてお説教染みた野暮な話なんてその辺にいくらでもある。せっかくのNYを使わなくてもいい。
この映画のいいところは、恋の駆け引きでも、初な恋愛でもなく、ただただ浮遊する無数の言葉に乗っかったユーフォリアが描かれていたこと。『地下鉄の59th Lex. Ave.駅で下りてBloomingdale*sに帽子を買いに行った地下鉄の車中を舞う蝶々』のように、『いつまでも地上に落ちずに舞い上がる街角のパン屋が仕入れた小麦粉』のようにふわふわと舞い上がり、『スターバックス・コーヒーの無数の組み合わせ(デカフェのエスプレッソ)』のように夥しい言葉の流れに乗っかっていく。そういう映画なのだ、これは。だけれども、お話を仕上げようとした部分で、急に失速してこの舞い上がっている感覚が亡くなってしまっている。ルビッチの『街角(桃色の店)』だと、恋に落ちてしまう部分は最後のシーンだけ。この映画はどうもそこからが長い。NYの特徴である、茹で過ぎ気味のスパゲッティみたいな感じだ。
メグの街角の店が閉められる時、カラッポの書棚が寂しく並んでいる。あそこでこの映画はすべて尽きてしまった。言葉が書かれた本がなくなって、浮遊させる言葉が尽きてしまったというのはあまりにも出来過ぎかもしれない。書店戦争は72丁目のアッパー・ウエスト。小野洋子が住んでいるダコタ・ハウスの辺りのハイブラウな場所。Barnes Nobleを模したFOX his Son'sは、現実にはウェッブ販売のamazon.comに客を食われている。大型小売店対街角の店なんていう図式は変に考え過ぎようとしない限りは浮かび上がってこない。それほど二人はジャンヌ・ダルクとアッチラに自らをなぞらえるほど舞い上がっている。朝日新聞の社説で大型小売店が勝ってしまうのはハリウッドの定番を覆している、どうしたんだとの指摘もあったけれども、そんなのどうでもいいこと。メグの共同経営者(?)がかつてのフランコと恋愛を打ち明けるように、ただただ舞い上がっているだけの話なのだ。
そん(2月18日)
パンちゃんの感想を読んでいたから、お見舞いシーンから後は圧巻でした。少女漫画の主人公とはなかなかしたたかなもんだ、というのが感想。美しいバラだけではなく、可愛いデイジーにも強烈なトゲがあるのねえ。
無意識であれだけ男心をもてあそぶことができるなんて、しかもかわいらしさが少しも損なわれないなんて、メグってばメグってば・・。もてあそぶというと悪女っぽい感じはするけど、もちろん悪い意味ではありません。トムはメグが曖昧な関係を望んでいる間は存分に“もてあそばれてあげている”し、きっとそれが“男の度量”というやつなんでしょう。
ノーラ・エフロン監督(この人のエッセイは一筋縄ではいかなくて面白い!)は甘いラブコメを描きながら男女のシビアな駆け引きからも目をそらしていなくていいですね。
とりあえず、NYはとてもキレイで、トム・ハンクスは少し太りすぎでメグ・ライアンの顎と後頭部のラインはパーフェクトです。
リメイク前の作品はエルンスト・ルビッチ監督(天才!)の「桃色の店/街角」で、ジェームズ・スチュワートとマーガレット・オサリバンのコンビです。(私はこの間までバーバラ・スタンウィックだと勘違いしていた)
ルビッチ監督は大人の恋愛の醍醐味を描き出す天才なので、エフロン監督がこの作品を選んだのも観終わった後は納得、です。内容はだいぶ違う気がするけど。(実は「街角」のディティールをよく覚えていない私)
kaeru(★★★プラス0.5★)(2月16日)
kaeru-n@msn.com
冒頭、メグ・ライアンが「奥様は魔女」のサマンサのようにリズムにのって歩いていくのが楽しかったです。フランス映画にはこの手のリズム感をもった女優さんがなかなか出てこないのですよね。まるでフレッド・アステアの「あしながおじさん」のようなストーリーなのですが、街並み、音楽、ラストシーンにいたるまで、私の好きな50年代のハリウッド映画の文体が踏襲されていて、幸せな気分で見ていました。
また、PANCHANさんのおっしゃるとおり、これは女性の視点の映画ですね。
トム・ハンクスの恋人が、パーティのあとで自分ひとりがしゃべったあげく、あっという間にいびきをかいて寝てしまう。エレベータで閉じ込められたときに管理人にくってかかる。監督さんは(相手の男女を問わず)ゲッソリした経験があるに違いありません。
また、小さな本屋さんがいかにも愛情のこもった空間として描かれているところに、専門店がなくなっていくことへの寂しさがでていると思いました。実は、私が一番ココロを打たれたのは、小さな本屋さんの男性店員が「珍しい古い本」について説明したときに、トム・ハンクスが「だからそんなに高いのか」というのに対して、「だから価値があるんです」と反論するところです。安売りの大書店と街角の本屋の考え方の違いがでていて、また自分自身、値段でものごとを判断しがちなので反省しました。そういう細やかな心遣いのきいたシーンが随所にあるので、疲れたときにみるととても気持ち良く眠れると思います。
パンちゃん(2月13日)
きのうの感想はわかりにくかったようですね。(愛人から言われました。)
*
メグ・ライアンとトム・ハンクスの恋の違いは、メグ・ライアンの方は、トム・ハンクスがe-mailの相手かどうかわからない。トム・ハンクスはメグ・ライアンがe-mailの相手だと知っているということ。
で、トム・ハンクスはそれをぱっと説明してしまうのではなく、メグ・ライアンが受け入れる状態になるまでじっと待っている。
(メグ・ライアンが風邪をひいたとき、見舞いに行って、そのとき正体を明かしそうで明かさない。)
これはトム・ハンクスのデリカシーといえばいえるのだけれど、私は、ちょっと違う立場から見る。
普通、男はこんなデリカシーをしめさない。あそこまで行ってしまえば正体はわかるはずだから、そのぎりぎりのラインをぱっと超えてしまって、「実は私が……」と言ってしまう。(受け止める方でも、その事実をぱっと受け止めてしまう。)
メグ・ライアンの方はメグ・ライアンの方で、もしかしたらトム・ハンクスがe-mailの相手かもしれないと思いながらも、そのことを問い詰めない。あいまいな感情をいだきながら、関係をつづけていく。
この関係の続け方が、とても女っぽい。
メグ・ライアンの方はトム・ハンクスがe-mailの相手であることを「理解」したいのではない。「納得」したいのだと思う。トム・ハンクスはメグ・ライアンが、自分がe-mailの相手であることを「納得」するまで待っている。
この過程を描くことで、実は、ノーラ・エフロンは女の希望を描いている。女は、自分が納得できるまで待っていてくれる男が好きなのだ。自分が納得がいかないうちに、あれこれ説明されて、男に押し切られるのが嫌いなのだ。そうされるといらいらするのだ。
それを声高に主張するのではなく、メグ・ライアンが納得するまでの時間を丁寧に描くことで間接的に伝えている。
この丁寧さは、男の監督では表現できないものであると思うから、私は、うーん、勉強になった、と言うのだ。
*
で、前後するけれど、トム・ハンクスとメグ・ライアンのテレビの見方もとても対照的である。
トム・ハンクスはメグ・ライアンの言っていることを納得するためにテレビを見ているのではない。テレビを見ながら、メグ・ライアンの主張を理解し、それに対して自分の主張を伝えようとしている。(だからこそ、自分の主張がカットされたことに対してショックを受ける。)
一方、メグ・ライアンは恋人のテレビ出演、テレビでの発言を理解しようとしてはいない。理解などどうでもいいのだ。ただ恋人の存在を納得しようとしている。だから、彼の主張ではなく、彼の態度とインタビューアーの態度に反応している。
この映画は男と女の違いを(男が普通見落としている「差異」を)、女の視点から浮かび上がらせ、しっかりと映像にしている。
それがすごい。それが素晴らしい。
*
たぶん、この映画を見た女性はメグ・ライアンのハッピーエンディングを自分のハッピーエンディングのように受け止めるだろう。
ところが男はトム・ハンクスのハッピーエンディングを自分のハッピーエンディングとは受け止めないと思う。彼の喜びを自分の喜びとは感じないと思う。風邪のお見舞いからラストまでをポカンと見つめ、やっと終わったかと思うだろう。
この映画は男の幸福には配慮していないのだ。女の幸福はこんな形と告げているのだ。
だからこそ、30代の、これから恋を成就させようと願う男は絶対見る必要があると、私は言いたいのだ。
女を「納得」するためには、絶対に見る必要があると思う。
パンちゃん(★★★+★)(2月12日)
88年『恋人たちの予感』93年『めぐり逢えたら』……99年『ユー・ガット・メール』というんですが……。
私の印象では『恋人たちの予感』と他の2本の作品ではまったく異質な感じがするんだけれど、なぜかなあと思ったら、監督が違っていた。
『恋人たちの予感』はノーラ・エフロンは脚本で、監督はロブ・ライナーだった。
3本ともセックスなしの恋愛というところが面白いけれど、ロブ・ライナーとノーラ・エフロンでは、撮り方が微妙に違うねえ。
距離感(人間への距離の取り方?)がノーラ・エフロンの方がふんわりしている。
映画を見ているというより、その場に遭遇している感じがする。スクリーンが溶けて、劇場と融和する感じになる。
それがノーラ・エフロンの魅力なんだろうなあ。
メグ・ライアンの恋人のグレッグ・キニアーがテレビ・インタビューを受けるシーンというか、そのインタビューを二人で見ながら話をするシーンなんかが特にそういう感じが強い。
メグ・ライアンのテレビの中のグレッグとインタビューアー、テレビを見ているグレッグを見る視線が、テレビという媒体を取っ払って直にグレッグを見ているでしょ。
テレビの中のグレッグは今ここに存在するグレッグそのものじゃないのだけれど、今存在するグレッグそのものとして見ている。
この「境界線」の消し方というか、人間の見つめ方というのは、女性の物の見方をとてもよくあらわしていると思う。
その見方が、映画全体を覆っている。そのために、スクリーンが溶けている、という感じがする。
トム・ハンクスが「メール」のなかのメグ・ライアンと直に会うメグ・ライアンを明確に区別しているというか、そこに明確な「境界線」があることを自覚し、それを乗り越えようとするのに対し、メグ・ライアンの行動というのは、「境界線」を乗り越えるのではなく、「境界線」をふわっと溶かしてしまう。それが、女性の視点というものなのかもしれない。
うーむ……
女性の感性のあり方、動き方を知るにはとてもよい教材だ。30過ぎの、あるいは40過ぎの、これからもっともっと恋愛をしたい男には必見の映画と言えるかもしれない。
女性の感性をどれだけ受け止めることができるかが、30過ぎの男の恋愛の成否のポイントだ。(バレンタインでチョコをもらえなかった人は頑張ろう。)
いや、本当、とっても勉強になりました。
★1個プラスは、その教材としての評価です。


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