プライベート・ライアン

監督 スティーブン・スピルバーグ 主演 トム・ハンクス、トム・サイズモア、エドワード・バーンズ、マット・デイモンほか

オルセン(10月1日)
fwjf9271@mb.infoweb.ne.jp

ちょっと、驚きました。緊迫感の凄さは認めます。凄いって思います
でも、あまりに納得出来ない所が多いんです。
あと、フルメタル・ジャケットと凄くだぶって見えて・・・
冒頭の回想シーンは、必要なんでしょうか?あれで、ライアンの無事とハンクスの死が前提になってしまって観なくちゃならなくなりましたし。なんか全てが納得できないんですよね・・・
特に、わがまま二等兵の為に、あれほど無線基地を攻撃するとき反対した兵士達が、橋を守るのに反対しないのか・・・あんなのライアンのわがままでしょう・・・よしんば守るとするなら、ほんと前の無線基地での言い合いはなんだったのっておもってしまいますしね
凄く不満が残った映画でしたので・・・初めて来て生意気ですが期待してみただけにちょっと悲しかったもので評価は★★ですね
パンちゃん@まだまだ言いたい(10月1日)
前に書いた「戦争放棄の憲法で育った日本人とアメリカ人では確かに見方が違うかもしれない」という点について、あるビジターから批判されました。
「反動的自惚れ」という批判なのですが、ちょっと意味がわからなかった。
私がれいなさんの指摘から感じたのは、確かに日本人の多くは「戦争=悪」という視点で戦争を見てしまいがちだ。戦争を描くのなら反戦的な立場が明確にわかるようにしないといけない、と考えがちだ、という視点は確かにあると思う、という意味で書いた。
いわば、私自身の反省をこめて、そう書いたのです。
実際、私は、この映画から「反戦のメッセージ」を強く感じ取ることはできない。できないから、批判しているのだと思う。こうした批判の仕方は純粋な映画評価の姿勢とは違う、と言われればその通りだと思う。しかし、私は、どうしても批判したい。(しつこいでしょ。)
*
しかし、私にはどうしても不可解。
出だしの30分の映像が、どうしても、それ以後とつながらない。
私が思い出すのは、たとえば『シンドラーのリスト』の赤いマントの少女のこと。
シンドラーは、多くの人々のなかから赤いマントの少女に目を止めた。それは、モノクロの映像の中で1個所だけ赤い色をしていた。その赤いマントが、ガス室で殺された人々の衣類の中に混じっていて、リヤカーで運ばれていくのをシンドラーは見る。
その瞬間、シンドラーが何を感じたか具体的な説明はない。けれど、どきっとしたと思う。観客は、やはり赤いマントがリヤカーで運ばれていくのを見て、どきっとする。
このとき、観客の心とシンドラーの心は重なる。スクリーンを超えて一つになる。
そうした瞬間が『プライベート・ライアン』には感じられない。
8人が体験したノルマンディーの惨劇が、ライアンを救出に行く過程のどこかで反芻されれば、観客は8人と心を通わすことができたと思う。
ノルマンディーの惨劇の体験が、観客と主役の8人との心をつなぐ絆になっていない。
で、何のために、あの惨劇を描いたのかわからない。それがわからないから、それ以後の行動が単に「偽善」にしか見えて来ない。
私の感じる不満は、そういうことです。
また、私が「プライベート」と呼んだのは、たとえば『シンドラーのリスト』の赤いマントのこと。赤いマントを目撃したのはシンドラーの個人的な体験。(映像をとおして、私たちはそれを追体験している。)その体験が、リヤカーで運ばれる赤いマントで繰り返されるとき、シンドラーの心が動いていることがわかる。わかるから感動する。シンドラーを許す気持ちになる。共感とはそういうものだと思う。
そうした共感を呼ぶための「プライベート」な体験が『プライベート・ライアン』では描かれていない。共感を呼ぶための描写が、「ノルマンディーの惨状」と「救出劇」の過程に登場しない。
出来事は一回だけでは、「事実」として強く印象に残らない。形を変えて繰り返されて「事実」になり、心を動かす。あどけない少女の赤いマントが、命のない洋服の山になって繰り返されるとき、そこに明確な時間と事実が浮かび上がる。それを明確に意識する部分を、私は「プライベート」なものと呼んだ。
『普通じゃない』の青年が、脅迫電話で普通の電話のような口調を女に叱られ、脅迫状を活字で書いて、バカだと再び叱られる。繰り返すとき、そこに青年の「悪を知らない心」みたいなものが浮かび上がる。彼の個性、プライベートなものとしてはっきり見えて来る。
こうした瞬間が私は好きだ。その瞬間に、人間性が見えるからだ。
人間性、ということに関して言えば、私はかならずしも「善良」なものだけにひかれるのではない。
たとえば『スウィート・ヒアアフター』の最後で、少女が嘘をつく。彼女は『ハーメルンの笛吹』の物語(ベビーシッターの仕事をしながら繰り返し読んでいた物語)を思い出し、足の悪い少年と自分の境遇を重ねるようにして、嘘をつく。
それはある意味では残酷だし、こわい瞬間なのだか、その恐怖の瞬間に私は少女が大好きになる。ほれてしまう。単なる「役」だった少女が、スクリーンを超えて、人間としてあらわれてくるからだ。
映画の中で描かれたある個人の体験が反復し、形をかえる瞬間、そこにその人だけの「歴史」というべきプライベートな感情が生まれる。その瞬間を描いた作品が私は好きだ。
『プライベート・ライアン』では「ノルマンディーの惨劇」が、8人のなかで繰り返されない。
これは、とてつもなく奇妙なことだ。
*
れいなさんが「任務」と言う言葉で表現していることは、よくわかります。(この私の書き込みの下に、れいなさんの文章があります)
8人の救出劇は、前半の30分と関係ないものとして見れば、すべて納得がいくのですが、前半の30分との関係が私にはわからない。
第二次大戦が過酷なものであったということを表現するのが目的なら、それは救出劇の過程で表現すれば十分な気がする。
あれだけのリアルな映像で表現するのなら、そこで表現したものが、どんなふうに8人に影響したかを描かないと、それは単なる「絵」になってしまう。彼らの「体験」にならない。プライベートな時間にならない。だから、観客には、その惨劇の意味が伝わらない、私はそう思う。少なくとも、私には伝わらなかった。見ていた30分は確かに驚愕したが、救出劇が進むにしたがって、最初に見た30分の映像が「絵」としてしか思い出せなくなった。
私の感性に問題があるのかもしれないが、私は私自身に問題があるということを納得できないので、これはスピルバーグの描き方に問題があるのだ、と思ってしまう。
*
文句をつけておいて、こんなことを書くと変に感じるかもしれないが、私は『プライベート・ライアン』はすごい映画だと思う。すごいから文句を言いたい。
麗奈(10月1日)
「もしあのすべてを見て、それでもなおかつ、上部の命令だから1人の兵士を救 出するという任務に命をかける、というのは、私にはわからない。」とパンちゃ んは書いてましたが、エドワード・バーンズは一度帰ろうとしてましたね。上部 の命令だから任務に命をかける理由がわからないのが日本人だからだと私は思う のです。全てを見てきたからこそ、今さら逃げ出せないでしょう。第一、任務に 命をかけないって、どうすればいいんですか?あの場でトムと皆がじゃ〜このま まフランスの田舎に残るか?って言って隠れるのでしょうか?軍務から逃げたら それは大罪です。それに、トムなんかはこの任務を終えれば国へ帰れる!家族に 会える!とそれだけを考えていたようでしたね。他の任務(銃撃戦等)につかさ れたら、大怪我をするか、戦争が終わるまで国へは帰れません。でも、ライアン を見つければ国へ帰れる!どうせ命をかけるならそっちを選ぶのではないでしょ うか?どちらにしろ選択の余地は与えられないのが軍ですけど。
やはり、この映画にしろ他の第2次世界大戦ものにしろ日本では公開するべきで はないかもしれませんね。ドイツでは受け入れられているようですけれど、それ はやはりナチス/ヒットラーが戦争責任者だったからでしょうか?日本では「軍 国主義」が悪かったといわれ、その主義自体=「ナチス」のようになってしまっ ているのではないでしょうか?「ナチス」のように1つのグループであった場合 そのグループを嫌いになることは簡単ですが「軍国主義」を悪者にすることで 「軍」=「悪」になってしまっているような感じを受けます。確かに「軍」が攻 撃体制にある場合、それは「悪」となると思います。しかし「軍」を国防のため の組織と思えば一概に悪いとは言えません。そんなの理屈だと言われてしまうか もしれませんが、それが従来のアメリカの考えではないでしょうか?
そうそう、ユダヤ人の兵士がドイツ軍の捕虜達の行進を見た時、自分を指して "Jew, Jew"と言っていたのがとても印象的でした。
あや(9月30日)
fk981249@hc.cc.keio.ac.jp
どうもなんか、文字ばけしてしまったみたいで、メイワクかけて すいません!
それが、書き直そうとしたんですが、おもいだせないです、、、。(うう〜)
多分、「トム・ハンクスが現在の自分に苦しむむ姿より」みたいなことを 書いてたような気がします。(でも、なんか違うなあ)
ところで、ぱんちゃんは Mr.Showbiz のページ見ましたか?
(たぶん、チェックされてると思うんですが、、)
あれでは、Saving Private Ryan が98点になってたんですが、(確か)
個人的にはそれには大きな疑問を覚えました。
私の4つぼしは Deep Impact より上 という意味の4つなんですが、、。
大関 正和(★★)(9月30日)
masa@atl.mindspring.com
プライベート・ライアンの話題で盛り上がっているようですね。皆さん真剣に見 られているようで、確かにそれだけの価値がある作品なのでしょう。私は(こち らの)公開初日に見たのですが、なんというか違和感というか、疑問ばかりが残 りました。それと同時に、更に突っ込んでこの映画の事を考える気にさせてくれ なかったのはなぜでしょうね。その理由はと考えてみましょうか。
(1)ドリームワークスブランドに対するアレルギー症状、拒否症状。アミスタ ットでもそうだったけど、語り口が滑らかすぎるんですよ。作り手側のこだわり のようなものが削ぎ落とされてます。それは、往々にして個人の偏見とか、生い 立ちとか、不器用さとかが反映されるものだろうけど、それを排することで、却 って頭でっかちな理屈映画になっていたのではないでしょうか。
(2)最初の30分は映画至上に残る力作であることは私も同感です。しかし、 本編のほうは予想出来た設定だし、物語として目新しい展開もありません。また 、マット・デーモン演じる主人公の描き方が紋切で、彼が登場してから一遍に興 味を失ってしまいました。「こんな奴の為に命を落とすなんてばかげている」っ てなったとたんにね(そう思わせるのも監督の意図だったのでしょうか?)。彼 自身は期待された通りの役をそのまま演じてましたが、それだけという感じ。過 去3作(「戦火の勇気」「レーンメーカー」「グッド・ウィル・ハンティング」 )がどれも新鮮だっただけに惜しまれますが、これは彼を使いきれなかった製作 側が悪いかな。ちなみに、Roundersという彼主演の新作も見てますが、これも彼 がこれまでスクリーンで見せてきたキャラクターをそのまま持ってきて作った映 画。私が飽きてきたのでしょうか?。というよりも、彼の最大の売りである、若 者固有の「青さ」というものが、実はそのままでは大変野暮ったいものだという ことを知った上で、それを乗り越える力・希望が上述の3作には感じられ、Ryan やRoundersには欠けてたのではと思います。意外と使いにくい俳優のように思い ます。
(3)
谷内>麗奈さんが書いているように、確かに、この映画は「戦争放棄」の憲法で
谷内>った日本人とアメリカ人では、見方が異なると思う。

私もそう想像しますが、アメリカ人でも、見る世代によっても違うらしく、実際 戦地に赴いた方とその話を聞いて育った世代で感想が違いますね(これは日本で も同じですね)。私が意見を聞いた方は50歳くらいでしたが、映画には批判的 な立場を取ってました。
等々、映画の主題とは関係ないことばかり書いてしまってすみません。でも、私 はこの映画から戦争を考えようという気にはなれませんでした。ストーリーの断 片を丁寧に拾っていけば、そこから何かを考えるきっかけにはなるのだろうけど 、その断片が繋がっていかない。全体が見えない。スピルバーグのこだわりへと 向かっていかない。

れいな>この映画の言いたいとするところは戦ってくれた兵士は皆普通の人間
れいな>だったということではないでしょうか?

と書かれるのも一つの見方と思いますが、そういう教訓とかメッセージを受け取 って、自分の中に取り込むことにはどうしても拒否反応を示してしまうのです。 なぜだかよくわからないのだけど、もしかしたら「未知との遭遇」と「シンドラ のリスト」で私の中に培われたスピルバーグ監督に対する信頼度が近年どんどん 低下しているからかも知れません。
パンちゃん(9月30日)(また書いている)
この映画については、なぜだか、書いても書いても書ききれない物を感じる。
私が感じている不満を、もう一度。
この映画のメーンストリーは、ライアンという二等兵を探し出し救出することにある。
その任務にトム・ハンクス以下8人の兵士があたる。この8人(フランス語、ドイツ語のできる1人は別だが)は、全員ノルマンディー上陸の際の凄惨な戦場を体験している。観客のどぎもをぬく、凄絶な戦場を体験しているはずである。
しかし、その体験が、救出劇(救出へ向かう過程)で浮かび上がって来ない。
これは大変奇妙だ。あれだけの惨状を目撃し、体験したのに、その体験が具体的に行動に反映されないというのは、不自然すぎる。
前回も書いたが、『普通じゃない』の青年は、誘拐犯の脅迫電話のかけ方を教えられ、実際にそのかけ方をマスターしたあと、活字を切り抜いて脅迫状を書くというようなことをする。そこには、「体験」が反映されている。そして、「体験」を反映しながらも、彼にはかわらないところがあった。相手が男が誰であるか知っているのだから活字の脅迫状に意味はない。それなのに活字で脅迫状を書く。「とんま」なのだ。その「とんま」さが、彼の人間性を浮き彫りにする。善良性を浮き彫りにする。その善良性ゆえに、女は男を愛するようになって行く。(それが手に取るように分かる、納得できる。)
人間の行動とはそういうものだと思う。
体験がその人間を変え、同時に体験によっても変わらない部分が存在する。その混在の仕方が人間の本質を明らかにする。
『プライベート・ライアン』には、そうした部分がない。
べつの言い方をすれば……『普通じゃない』を見ていると、だんだん「とんま」な誘拐犯が好きになって来る。この男、いい男だなあ、と思って来る。ところが『プライベート・ライアン』では、トム・ハンクスはいい男だなあ、いい人間だなあ、という感想が生まれて来ない。
これはつまらない。
スピルバーグの映画には、おうおうにしてこうした人間が出てくる。いい人間なのかもしれないが、それは最初から最後までいい人間のままであり、ストーリーの中で、はっと気づくような人間の味がない。
(唯一、『未知との遭遇』のリチャード・ドレイファスが、変化しながら人間の魅力を見せた「役」だと思う。)
私は、基本的に、この役者が好き、と思えるように描けていない映画にはケチをつけたい。ケチをつける癖がある。
人間が人間と出会い、交流するのは、相手を好きになりたいからだ。
だから……とういうのはたぶん論理の飛躍かもしれないが、私は、『タイタニック』リピーターのおばさんが好き。
映画の中の「役」はディカプリオではない。でも、ディカプリオそのものと錯覚し、うっとりするおばさんが好きだ。
ミーハーというと否定的な響きがあるけれど、私はミーハーが好き。
役者はある時は善人をやり、あるときは悪人をやる。その役が善人であれ、悪人であれ、それは役者本人ではないけれど、役者本人と思い込み、あんないい男(女)なら、だまされてもいい、裏切られてもいい、と思いながら、見ている観客が好き。
彼女たちは、どこかで「人間」そのものを見ている。その「人間」を見抜く力が好き、と言えばいいかなあ。
で、『プライベート・ライアン』に戻っていうと、この映画を見て、トム・ハンクスはいい人間だなあ、と思う観客がいるだろうか。
戦場に取り残されたときは、トム・ハンクスに助けに来てもらいたいなあ、と思う人間がいるかどうか、疑問。
そんな素朴な信頼感を引き出すような人間描写を、スピルバーグはできない。
そこに彼の一番の問題点があると思う。
石橋 尚平(★★★★)(9月29日)
shohei@m4.people.or.jp
この作品の最大の悲劇は、実はスピルバーグ自身にある。スピルバーグは少なくとも『映画』そのものの豊かな教養があり、『映画』と『ビジネス』のいい加減な邂逅を無邪気に楽しんでいるだけなのに、常に自分が作る『映画に関する話題』につきまとわれる。「デビュー当時は秀才ぶりを発揮したのに、拝金主義に陥って、たまに心を入れ替えてシリアスな作品を撮ると駄作ばかり…」、こういった紋切り型の、しかし、かなり的確ではある言説は、ある種の均衡を周りに波及させている。そう考えることによって、我々は『商業主義と映画に関する話題』で安定した構図が得られるからである。観客やマスコミがスピルバーグの『商業主義』や、たまに撮るシリアスな映画のテーマをあれこれ問いかける退屈さは、この『映画に関する話題』がもたらす均衡に起因する。その均衡の中にいれば、『映画』を観なくて済むからである。たが、私は『映画』を観るつもりでこの映画を観る。『戦争の悲惨さ』なる『映画に関する話題』などどうでもよい。まず冒頭の戦闘シーンだが、手持ちカメラと俯瞰撮影の組み合わせなのだが、ほとんど前者が引っ張っている。このシーンに戦争リアリズムを感じるというのは、どうかと思う。むしろひたすら『映画』的なシーンなのではあるまいか。私はこれを冒頭の『映画』宣言だと思った。ただし、浜辺の地形上の平たさもあって俯瞰撮影の割合が少なく、おざなりのスローモーションもちょっと鼻についた。しかし、冒頭からこれをやってのける大胆さは、この映画のテーマ云々ではなく、『映画』的な凄味なのである。それから、『映画』好きを自認する人なら誰でもすぐに分かるように、ラストの攻防戦は『七人の侍』そのものである。雨は降っていないが、冒頭と違い、時折挿入される俯瞰ショットが効いている。手持ちカメラとの組み合わせに生理的なものに訴えかける強いものを感じた。後、半壊した家でフランス人夫婦が娘を中隊に託そうとする中の銃撃戦のシーン。二等兵が撃たれてもがき、雨が降りしきる。これはいかにも、S・フラー的である。このシーンも私は気に入っている。スピルバーグにデビュー当時のキレが長い間みられなかったのは、彼が『モノ』(例えば『ジョーズ』で鮫が海中で引っ張ることで暴れまくる樽型のブイ、『激突』のトラックの顔)を巧く描けないようになって、変にドラマや陳腐な感傷で画面を満たそうとするようになったからである。決して拝金主義に堕落したからでも、人間が描けないからでもない。本物のスペクタクルが描けなくなったことが最大の問題なのだ。しかし、この映画では、その限界を少し露呈しながらも、『映画的』なキレをある程度鋭く復活させている。その意味で素晴らしい作品である。
れいな(9月29日)
reina@osula.com
皆さんが最初の30分の事を一番多く書いているのがとても残念です。
この映画はノルマンディー作戦のことだけを描いたのではないし、ライアンを助けるために8人もの兵士が犠牲になったということをテーマにした映画ではないからです。先の大戦に負け、軍隊を持つことがまるで悪いことであるかのように教育されてきた今の日本の人にはわかってもらえない映画かもしれません。この映画の言いたいとするところは戦ってくれた兵士は皆普通の人間だったということではないでしょうか?
私がすごくショックを受けたのはトム・ハンクスの演じる兵士が元は高校の教師であったにもかかわらず、戦争が起きてしまったために無理やり借り出され、その上、将校にさせられてしまったということでした。
ただの高校教師が数週間のトレーニングを受けただけで将校としての判断や行動ができるでしょうか?職業軍人でさえ頭がおかしくなるような境遇に普通の私たちと変わらない人々が送られたということを身にしみて感じました。
ほかの兵士たちもまだまだ子供なのに、あんな目にあわなくてはならなかったなんて、なんて戦争は無意味なのだろうと思いました。敵だって同じ子供だったじゃないですか。
あと、死んだ兵士が書いた手紙が人から人へと渡って行くのは感動的でした〜。
あっ、そうそう、ぱんちゃん、銃で打たれると痛みはあまり感じないそうです。
私の教え子が打たれたときそうだったといってました。痛いというよりはショックで(痛みがひどすぎて?)わからないまま走って逃げたそうです。で、走れないので何でかな〜と思って足を見たら撃たれてたんですって。
気付いてからも痛みはあまりなく病院に行ったそうですが。。。
そんなもんなんですよ〜。第一、ノルマンディーに実際に行った人達がこの映画を見てあまりのリアルさに驚いたっていうくらいですから、私たちがなんだかんだ言うことじゃないっすね。

パンちゃん(9月29日)
華奈さんの書いている「戦争放棄」の憲法で育った人間とアメリカ人では、この映画の見え方が違うというのは本当だと思う。
私は確かに戦争=悪という視点でこの映画を見ている。
それはそれとして、きのう書いたことを少し補足。
この映画はディティールを排除している--と書いたが、私の書いたことは、たぶん伝わりにくいことがらだと思う。
ヘルメットを撃ち抜く銃弾、海中にまで届き人の命を奪う銃弾、銃の犠牲にならなくても自分の担いでいる銃のために身動きがとれなくなり溺れて死ぬ兵士。あるいは自分の腕を拾い上げてふらふらと歩く兵士。死体のそばに打ち寄せている魚の死体の山。
それらは戦場のディティールではないのか。確かにディティールではある。しかし、そのディティールがそろいすぎたとき、それはディティールではなくなる。「全体」になってしまい、個人の体験に反映しなくなっている。
ノルマンディー作戦に参加し、生き残った人々は、「惨状はこのとおりだった」というかもしれない。「ディティールはこのとおりだ。完全に描ききっている」というかもしれない。
私は、しかし、疑問だ。
私たちはどんな体験にしろ、すべてを見るわけではない。何かを確実に見る。そして、その確実に見たものに影響されながら、次にあらわれるものを見る。視線は、どこかで見たものに影響されながら、次の世界を歪めて見てしまう。それが個人的視野の限界であり、豊かさだ。面白いところであり、刺激的なところだ。
その歪みが、この映画にはない。人間の視線を歪ませていくリアリティーがない。これは不思議な現象だ。
私がディティールと呼ぶもの----それは、たとえば『普通じゃない』の「脅迫状」の部分などだ。
男は女に「誘拐犯は、そんな電話のかけ方などしない」と叱られながらだんだん誘拐犯の気持ちになっていく。で、脅迫状を書くとき、誘拐犯がするように活字を切り抜いてはりつける。それを見て、女がまた叱る。「相手はあんたの正体を知っている。匿名なんかにしたら意味がない」
男はやっと「誘拐犯」らしくなったと思ったのに、その行動をまた否定されてしまう。--この過程が「ディティール」と呼ぶにふさわしい部分だ。
人間は何事かに影響され、変わって行く。そして、変わった部分をまた否定される局面に出会い、再び変わる。この変化が描かれているとき、それは「ディティール」が真に描かれていると言える。「個人的な体験」が変化によって「人間全体につながる体験」にかわる。
そして、その変化は、私たちに、自然に納得できるものでなくてはならないと思う。自然に納得できる、というのは、変な言い方になるが、「あ、そうか」と気づかせてくれるものがなくてはいけない、という意味でもある。『普通じゃない』の男が活字を切り抜いて脅迫状をつくるおかしさは、女に指摘され、明確になることにより、より深く納得できる。
『プライベート・ライアン』に戻ると、あの激しい惨状を生き抜いた8人の兵士は、本当にあの惨状を見たのか、という疑問が私には残る、ということが一番の問題点だ。
もしあのすべてを見て、それでもなおかつ、上部の命令だから1人の兵士を救出するという任務に命をかける、というのは、私にはわからない。
トム・ハンクスが部下を何人失った、ということを言うが、本当にそのことに責任と悲しみを感じているのなら、残りの部下の命を守ることを第一にするべきではないのか。彼は、この惨状を切り抜けた部下の何人かを他人に任せ、新たな任務(より危険な任務)に選りすぐった部下を連れて行く。
それが戦争と言えば戦争なのだろうけれど、どうもしっくりこない。もっと苦悩が描かれていいのではないか。ここでは彼は「個人的な体験」をしていない。惨状を「個人的」に受け止めていない。戦場のパーツ、兵士としてしか受け止めていない。
上陸する前からの「手の震え」などではなく、悲惨な戦いをくぐり抜けた痕跡が、彼らの救出劇に持続して描かれなければならない、と思う。
ノルマンディの悲惨な状況と救出劇をつなげるもの、「個人的な体験」を、この映画はまったく描いていない。
そのために、前半の戦場が、完全に分離して見える。悲惨な戦いは「体験」とならず、「絵」になってしまっている。
それが私の大きな不満だ。
パンちゃん(★★)(9月28日)
大変問題の多い映画だと思った。
出だしの戦闘シーンは迫力があるといえばいえるかもしれないが、まずここに問題がある。
鮮やかすぎる。絵になりすぎている。ノルマンディーに上陸しようとした瞬間、ヘルメットをぶち抜かれ頭を直撃され兵士が死ぬ。海中にも銃弾は飛んで来て、兵士の胸を直撃する。赤い血が海中に噴き出る。兵士は死ぬ。−−それらの死は完璧すぎて悲惨さがない。あまりの見事な死であるために、悲惨とは言いにくい。
砲弾で片腕を失った兵士が自分の腕を拾い上げるシーンもそうだ。美しすぎる。滑稽さと、笑いとともにある同情がない。醜さがない。
私たちは普通、小指の先を切っても、まるで手術をしないと死ぬんじゃないかと思うくらい痛がり、うろたえる。人間は、そうした醜さによっていきいきと輝くときがあるものだ。
そうした現実と比較すると、そこに描かれる戦場は戦場として完璧すぎる。
この完璧さは、ディティールを描くふりをしながら、ディティールを完全に排除することによってなりたっている。
ここにこの映画の一番の問題点が集約されているといってもいい。
銃の一撃によって死ぬのではなく、たとえば足の小指に被弾し、痛がりうろたえ、泣きわめく兵士がいるとしたらどうだろう(実際はいると思う)。一瞬にして命をなくす兵士は、小指のけがでわめきちらす兵士に比べれははるかに悲惨だ。彼は確かに戦争の悲惨さを伝えはする。しかし、悲惨すぎて現実的には思えない。観客と映像を結ぶディティールがないために、悲惨さが「絵」になってしまっている。
このパーフェクトな戦場の悲惨さのあとに、パーフェクトなヒューマニズムが演じられる。
3人の兄をなくした一人の兵士。彼を戦場から救い出すために8人の兵士が苦闘する。
人間は誰でも偽善的な行為をする。偽善的な行為が必ずしも悪いわけでもない。偽善的な行為すらできないのが、普通の人間である。できないから「偽善的」と批判することで、自分をとりつくろう。
不思議なのは、出だしの完璧に悲惨な戦闘シーンを体験したはずの彼らが、ほんのわずかな抵抗で偽善的な行為をできる、ということだ。
もっとあつれきや葛藤が描かれるべきではないのか。もっと、1人のためになぜ8人が、という思い悩みのディティールが描かれるべきではないのか。
ライアンを救うことよりも、彼を救おうとする過程、その行きつ戻りつするここなの動き、逡巡にこそ、ほんとうの人間のドラマがあるはずだ。
また、他人の命ではなく、自分の命を守る、そのために戦う−−という人間が、戦場にいてもいいのではないのか。人を殺すのが快感だから人を殺すだけだという人間がいてもいいのではないか。
ここではそうした人間も描かれない。偽善さえもパーフェクトである。
そして、この悲惨の完璧さと偽善の完璧さが結び付けられるとき、そこには映像とストーリーの完璧さが残るだけである。
戦争という行為そのものへの批判がまったく欠如してしまう。戦争によって人間が苦悩しなければならないという事実が欠如してしまう。
1人の兵士の命を救うために苦闘し、死んでいった8人の兵士(2人は生き残ったのだろうか)を思うとき、私たちは確かに、その8人の命を奪った戦争というものを憎むだろう。批判するだろう。
だが、戦争は、ヒューマニズムのために苦闘した8人の命を奪ったから憎むべきものなのか。
そうではないはずだ。
一番肝心な問題が、この映画では欠如している、と思う。
「日常」という視点が完全に欠如してしまって、ほんとうに「映画」になってしまっている。
出だしの戦闘シーンの迫力ゆえに、私は★2個。これ以上はつけたくない。私のなかでは、この映画はスピルバーグの最悪の映画である。
マーベリック(9月28日)
adhoc@anet.ne.jp
 全く予備知識なしで見に行ったのですが、それがかえってよかった。みなさんがおっしゃるように最初の30分ほどはただただ「圧巻」の一言。これまで映画を何百本と見てきましたが、これほどのショックを受けたのは初めてです。 
 キリヤマさんは「戦闘の様子が、一切の演出も感情も挟まれることなく延々と繰り広げられ」とおっしゃいますが、私はこれこそスピルバーグの意図したところだと思います。「死」から物語性を徹底的に排除し、観客に戦場の臨場感を味わわせ、吐き気すら催させる。ただただ連続する無意味な死。スピルバーグは、近代戦における大量殺戮とは結局こんなものだということを、その素晴らしい映像の魔術と効果的な演出で語ってくれる。
 正直言って、私はこの映画を見ながら自分は戦争を分かっているつもりでなにも理解していなかったのだと強く感じてしまいました。それだけでもこの映画を見た価値があったと思います。生半可な平和主義に無意識に甘えてしまっている日本人(当然私も含めて)には、いいクスリかもしれません。(物語終盤の人を殺せない通訳(?)のくだりは安易な平和主義へのアンチテーゼでしょう)この映画をスピルバーグ流の反戦映画だ、と括ってしまうのはもったいない。
   中盤の中だるみや現在のライアンのシーンには多少の?はあるものの、戦争映画を「観る」のではなく「感じ」させてくれる貴重な映画ではないでしょうか。だからこの映画は是非スクリーンで見るべき!(ただ「面白かった」という感想はやめてほしいかな・・・)
 点数は★★★★、ひさびさに考えさせられる映画でした。マット・デイモンは聡明な好青年役が似合うなあ。
あや (★★★★)(9月28日)
fk981249@hc.cc.keio.ac.jp
ノルマンディー上陸作戦の所、かなり衝撃的でした。
あそこまで、客観性を持って戦争を描いた映画はないと思う。
ある意味では残酷かもしれないけど、ある意味では我々に最も戦争の真実を伝えているような気がする。これだけメディアが発達しているのに、結局戦争の真の姿が何なのか、そこで何が起こっているのか、本当に知ることができないことに気づいた。あのシーンは、下手な反戦メッセージよりよっぽど効果があると思った。
ところが、(ここからいちゃもんなのだが)はじめが衝撃的なぶん、あとの部分がしりすぼみに思えた。つまり、私の中では中のストーリーがその衝撃的な部分に負けてしまった。
私には、トムゥ魯鵐D垢セ鐐茲涼罎納W覆鮓C弔瓩襪箸海蹐茲蝓あの8人の中の救護係(名前忘れました)が死ぬシーンのほうが記憶に残ってしまうのだ。
何か、私のなかでは「8人が1人を救うことの意味」より「戦争の悲惨さ」が残ったのだが、この感じかたでいいでしょうか?
なんか、紹介記事とか見ると前者の方が前へでてるので、そういうことならよく分かりませんでした、といった感じなのだ。
ただ、もちろん、一瞬音が遠くなるシーンなどよくできてると思う。
見にいって損はない映画だし、もちろんレベルは高いので★4つ。
おまけ; アパムの彼がよかったと友達といってます。
イギリス人っぽいですよね?
なんか次はロバート・カーライル(フル・モンティだよ)と共演らしいので楽しみですね。
パンちゃんから
「トム・ハンクス(だと思う)」以下、文字化けしました。
時間がありましたら、正しい文字をご連絡ください。
キリヤマ(9月27日)
reiji_kiriyama@msn.com
映画が始まって10分と経たないうちに、もう見たくないと思い始めていました。
凄惨を極めたノルマンディー上陸作戦とそれに続く戦闘の様子が、一切の演出も感情も挟まれることなく延々と繰り広げられます。その状況は、兵士の装備や動き、言葉遣いに至るまで事実そのままに再現されているそうで、製作者のこの熱意は確かにすごいことなのでしょう。
それでも私がこの映画を楽しめなかった、監督がこの映画で一体何を言いたかったのかわからなかったのは、上映時間のほとんどを占める戦闘シーン - 1944年に実際に起きていたことの忠実な再現 - は、眼をしっかり見開いて一瞬たりとも逃さず正視していなくてはいけないのに、私にそれが出来なかったからでしょうか。何度か顔をしかめては画面ではなく膝の上に置いた鞄を見ていたりしたからでしょうか。
「戦争はイヤだ」というごくシンプルな感想を抱くには、揚陸艇(?)の前方にいた兵士が、ビーチに着いた途端に頭を打ち抜かれて即死するのを見るだけでもう十分だったんですが...。
映画の冒頭と最後に(画面いっぱいにへんぽんと翻る星条旗と一緒に)登場する、今日まで善く生き、生かされてきた老ライアン二等兵も何だか唐突な感じだったし。
「尊い犠牲のもとに今日のアメリカはあるのですよ」なんて単純なことでアカデミー賞の候補になるわけないしなぁ。もっといろいろな意見を聞いて、もう一度考えてみたいです。はい。
ダグラス・タガミ(9月26日)
douglas@msc.biglobe.ne.jp
横浜で初日初回9:00です。席は、ほぼ満席でした。
予告もなく、本編に入っていきます。
その後は、オマハビーチの戦闘が終わるまで「あっ」と言ったまま、口を閉じるのを忘れてました。
ヤクザ映画やマフィアものの殺しの場面では、「こうやって殺されるんだな。」と、鳥肌が立つような映画を幾つか見ています。でも、戦争映画では「死」と言うものを、いまいちリアルに感じたものはありませんが、これは、まるで自分が横でカメラを回している錯覚に陥りました。
(従軍カメラマンにも畏敬の念を持ってしまいました。)
兎に角、あの戦闘が終わるまでは、息をもつかせぬ状態で進んでいきます。
あの体験(現実は、さらにあんなもんじゃないでしょうが)をしてしまうと、人間も変わってしまうでしょうね。
キューブリックの「フルメタルジャケット」のように”マシン”にならないととてもじゃないが、精神が壊れてしまうかもしれません。
(あれは、壊してから行かせてるのか。)
改めて、従軍したじいさん達が「生かされてる」、「運が良かった」という意味が、判りました。私には、それだけで大収穫です。
口先じゃなく、心でわかったのですから(少しですが)。観て良かったです。
あと、感心してしまうのは戦闘場面でフィルムの色調を微妙に変更しているところ。
あれが余計、ドキュメンタリーぽさを醸し出していました。
今回は、内容についてだけの感想です。
私の星は、4つ。
減点は、敵対兵士への対応が偽善的。
条約違反だろうと仲間を殺した人間がそこにいたら、そいつを殺してもあの状況では、自然だとおもいましたが。それが戦争でしょう。たぶん。
見終わった後、高校生カップルが「ノルマンディー上陸作戦は、何年?」と、歴史のテストをしていた?のが、なんとも悲しかったです。もっと、言う事ないのでしょうかねぇ。はぁ。日本の将来はくらいっす。
イングマル(9月20日)
furukawa@tokyo.xaxon-net.or.jp
26日の日本公開前から話題になっているスピルバーグの最新監督作品「プライベート・ライアン」を一足早く先行オールナイトで観てきました。予想していた以上に凄い映画でした。
映画の冒頭で、連合国軍のノルマンディー上陸の場面があるのですが、このシーンでまず打ちのめされましたよ。ノルマンディー上陸作戦と言えば、ナチズ・ドイツの敗北を決定付けた戦いで連合国の大勝利というイメージが強かったのですが、資料によれば、この作品で描かれているオマハビーチでの戦闘は、海が赤く染まるほどの大激戦だったとのことです。手持ちカメラを使った不安定な映像がこの激戦を生々しく再現しています。カメラは絶えず兵士の目となり、海に潜り、地を這い、爆撃を浴びるのですが、戦闘シーンでこれほどの臨場感を体験したのは初めてです。
三人の兄を一度に失った兵士を母親のもとへ帰還させるために、8人の兵士が命をかけてライアン二等兵を救出するという筋だけを聞くと、いかにもアメリカ人が喜びそうな美談のようにも思えますが、冒頭の戦闘シーンを見ただけで、そんな生ぬるい映画でないことがはっきりと分かります。
上映時間が2時間50分あるのですが、終始張りつめた空気が流れていて、さほど長さを感じませんでした。クライマックスで、不気味な音を立ててドイツの戦車が現れる場面など息が詰まるほどの緊迫感がありました。
ナチス=悪、連合国軍=正義なんていう安易な定義付けをせずに、戦争という状況に置かれた人間の姿を虚飾を排して真っ向から描いている点はとても好感が持てます。
ただ一つ難を言えば、ラストシーンはスピルバーグの描き方が親切すぎて、かえってあざとさを感じてしまいました。もっとさりげなく描いた方が余韻が残ったと思うのですが、例えばケン・ローチ監督の「大地と自由」のように・・・。
荒唐無稽な娯楽大作では職人的な上手さを発揮し、シリアスなドラマでは徹底したリアリズムを見せるスピルバーグ監督ってやっぱり只者ではありませんね。
余談ですが、マッド・デイモンって首が太いなぁと思いました。後ろから見ると。頭の幅と首の幅がほとんど同じでした。
評価は★★★★と★半分、つまり100点満点で90点です。


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