遠いコンサート・ホールの彼方へ!
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新交響楽団 第168回演奏会


2000年1月29日 東京芸術劇場大ホール 18時開演

曲目

シューマン:交響曲第3番変ホ長調 作品97 「ライン」

ヴィラ=ロボス:「ブラジル風バッハ」第7番

諸井三郎:交響曲第3番


演奏

指揮:飯守泰次郎
管弦楽:新交響楽団



諸井三郎交響曲全集を作る奇特なレーベルはないかな



ホールにつくとオルガンの鍵盤蓋が開いているので、「ブラジル風バッハ」にオルガンがあったかなあとか思ってプログラムを読むと、実は諸井の交響曲に使用されると書かれており、戦時中の作品に演奏可能性を無視した(当時の日本の「ホール」にオルガンがあったとは思えない)諸井の姿勢に驚きました。


さて、多分シューマンとヴィラ=ロボスの演奏に関心がある人は殆どいないと思いますので割愛するして、今夜のプログラムの目玉である諸井三郎の交響曲について振れておきましょう(下記のデータはプログラムから転載)。

諸井三郎(1903-1977年)

交響曲第3番(1944年)

初演:1950年5月26日 山田和男(一雄)指揮 日本交響楽団(現N響)

楽器編成:
フルート3(うちピッコロ持ち替え1)、オーボエ2、コーラングレ、クラリネット3(うちバス・クラリネット持ち替え1)、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、弦5部、オルガン

全3楽章、演奏時間は30分強(私の手許の時計。各楽章が大体10分程度)

この作品は「世紀を超えて」聴かれないだろうなあ、というのが終演後の最初の感想でした。それは書法的に古い新しいという問題ではなくて、何と言いますか「混乱」あるいは「未整理」、クレンペラーの交響曲第2番にも感じたような印象を抱かせる作品でした。

諸井三郎の作品といっても私は交響曲第2番しか聴いたことがなくて、あのねっちりきっちり主題労作して、フルトヴェングラーの交響曲第2番のような、ある意味で詰まらない作品の延長線上かと思いました(さらに、かの片山氏は「日本のブルックナー」とか言いたてていたこともあり)。しかし、これは弟子であった柴田南雄が「第二交響曲(弦楽六重奏曲、交響的ニ楽章)の厳しい楽想を思うと、第三交響曲は著しく叙情的に歌う音楽である」という言葉の方がより相応しいと同時に、最初の2楽章を聴き終わった時には、「ブルックナーじゃなくてシ
ョスタコーヴィチじゃないか」と思うのでした。


では、楽章毎に、多少記憶の混乱もありますが、それは多分録音していたようなのでCDとして売り出されたのを聴いた時に「St.Ivesの野郎間違ったことを言いやがって」と悪態をついていただくとして、感想を交えながら。


第1楽章 アンダンテ・モルト・トランクイロ・エ・グランデイオーゾ

プログラムには第三交響曲の冒頭の2ページの楽譜が掲載されており、そこには、

Symphonie III

静かなる序曲 Saburo Moroi 1944

と記されており、ヴァイオリンとヴィオラの重いオスティナートの上にまず、オーボエが続いてチェロの単独での旋律が書かれていました。実際に響いてみると、これがショスタコーヴィチの交響曲第8番の2楽章だったかを想起させます。オスティナート音形が色々な楽器に受け継がれ、一方でオーボエの単独の旋律も最終的にヴァイオリンに引き継がれるんですが、途中で少し盛りあがるものの静かに終わります。事実上「プラハ」の序奏のように1楽章を形成している感がありましたが、「プラハ」よりもはるかに長い序奏ですし、「序曲」から主部へのブリッジは事実上ありません。すなわち、一旦総休止し、ホルンが似たような旋律を奏でるので、ここから「グレート」のように盛りあがって繋いでいくのか?と思うと再び静まってしまい、また総休止。かと思う間もなくいきなり、
これまでの重いオスティナートが何だったのかと思う程性格の違う(でもオーボエの旋律から派生しているような)速くて、快活とまではいかないものの、エネルギッシュに曲が進みます。ただし、音楽の一セクション毎のつながりが妙に悪いと言うか落ちつかず、途中小休止も交えながら、ただただ突き進んで終わってしまうのでした。


第2楽章 アレグレット・スケルツァンド

解説によると 4分の2拍子+8分音符1つの「落ち着けない」5拍子の上にスネアドラムが背景で殆ど撃ちっぱなしの上にアップ・テンポで、皮肉っぽい楽想に、第1楽章以上にファンファーレをがなりたてる金管、いきなり何物かによって途中で筆を止められたかのように尻切れとんぼで終わる終結部といい、ショスタコーヴィチの10番の2楽章や11番を思い起こしました。これは結構面白く聴けましたが、これ以上の感想もありません。


第3楽章 アダジージョ・トランクイロ

3楽章でアダージョで終わる交響曲と言うと未完のブルックナーの交響曲第9番を思い起こすのが普通でしょうけど、確かにそんな曲でしたし、実際にブルックナーのアダージョ楽章の主要旋律を思い起こさせる楽想が何度も何度も現れます。曲想も、ブルックナー程劇的で感銘深くはないのですが、静かで行きつ戻りつしており、柴田南雄の言わせれば、「第三交響曲のフィナーレの、その後半に出るハ長調の清澄な主題となると、もはや日本的でも西洋的でもない、いわば人類の祈りの歌である」とこれはちと持ち上げ過ぎではと思うのですが、そんな雰囲気もある曲で、前の2楽章とはとても対照的な楽章でした。でもひたすら同じ楽想や同じ部分が繰り返されて退屈、その上「響き」の上で期待大であったオルガンが、この楽章になってようやく登場したものの、御存知の通り東京芸術劇場のオルガンはまったく響かないこともあり、最初のうちは、時たま、オルガンの高音域が聞こえる以外はオケにマスクされて、殆ど「通奏低音」状態。弾いているのが見えるので、曲調とあいまって余計にもどかしい。しかし、これがコーダに近づき、曲全体がひたひたと盛り上がっていくと、オルガンの音量も増加、コーダではオルガンの深深とした響きがオケの合奏を乗り越えて聞こえ、気分はマーラーの「千人の交響曲」、にはなりませんでしたけど。


これを読んでも「何にも分からんぞ」と思ったでしょうけど、私自身も聴いていて正直「なんだこりゃ?バルトークの第3弦楽四重奏曲の方が分かり易いぞ」と思ったくらいでして、CDとして録音が発売されるのを期待するのでした。



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