遠いコンサート・ホールの彼方へ!
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ルイジ・ダラピッコラ

歌劇「囚われ人」
歌劇「夜間飛行」


2000年3月26日 14時開演 大阪カレッジ・オペラハウス

指揮:飯森範親
演出:中村敬一

歌手
1.囚われ人
母親:井岡潤子
囚われ人:井原秀人
看守/裁判長:西垣俊朗
第一の司祭:神田裕史
第二の司祭:小林裕

2.夜間飛行
リヴィエール:田中勉
ロビノー:松下雅人
ペルラン:小餅谷哲男
電信技士:清水光彦
ルルー:周 江平
4人の空港職員
1:清原邦仁
2:晴 雅彦
3:安川忠之
4:児玉晃
ファビアン夫人:藤原道代
内なる声:石橋栄実

合唱:オペラハウス合唱団
管弦楽:オペラハウス管弦楽団

大変素晴らしい舞台でした、大阪までいってよござんした。

1.囚われ人

CDや昨年12月にN響の実演に接っしており、完成度においてはサロネン盤がさすがに勝るものの、感銘度に関しては、CDもN響も上回るものでした。

分かり易くも印象深い演出(新国の「沈黙」も演出したそうな)、キビキビと速めのテンポを取る指揮者、それについていくオケ(最初の主題の部分の演奏をN響に聴かせたいもんです)、熱唱に熱演の「囚われ人」、ちょっと酷薄な甘味さが薄いきらいもあったけど十分に聴かせてくれた「看守」(最初の「友よ」はちと音程が低いような気がしたのですがね)、重要な所でホール中に鳴り響く鐘か神の声を想起させる迫力を持った合唱(特に「ラ・ポルタ!」から「アレルヤ」までのブリッジ部分における合唱によって場内が満たされる様は、録音でもN響の実演では全く理解できなかったところです)、いずれも素晴らしいものでした。

正直に言えば、(世評)わが国では最高水準の演奏団体の一つであるN響ですらちょっとモタモタした切れの悪い演奏であった上に、ホールのせいもありそれなりに名を成した国際的な歌手ですら客席に声が届かないという有様だったので、プロだとはいえ、果たして常設とは到底言いがたい、一種の寄せ集め団体であるカレッジ・オペラがどこまで聴かせられる演奏をし得るのかという危惧もありましたが、それは全くの杞憂でした。

勿論、アラは探せば幾らでも出てくるでしょう(特にBSで放送されれば、ゆっくりとベックメーサのように数え上げることができます)、例えば少なくした弦に対して管とパーカッションが大きすぎて時々マスクしてしまうとか、合唱については、比較するのがそもそも間違いなのでしょうけれども、サロネン盤ほどには洗練されていないとか、それはそれとしてありますけれども、全ての音が意義深く鳴らされており、ダラピッコラ演奏の伝統が無い点ではN響と同じであるにもかかわらず、この曲への意気込みの違いが現れたとしか言い様が無い程に「差」を感じさせ、少なくともホールで聞いていた限りでは、総体としてN響の実演より上に思いました。


2.「夜間飛行」

休憩の後が待ちに待った「夜間飛行」です。音源がなく、楽譜は持っているものの、素人の悲しさ、多分ここがメインだろうと楽譜を追いかけてもリズムと拍子が次々と変わってしまい、さっぱりどんな音が鳴り響くのか分からない(ピアノでスラスラは弾けるような技量はない)。歌なら何とか追えるかと思っても、到底そのリズムは素人には歌える代物ではなく、結果、終わった直後の感想は、「こんな曲だったのかあ」というあまりに情けない感想しか浮かびませんでした。

そういうわけで、音と舞台と字幕を追うのが精一杯で、演奏についてはどうのこうの言えません。もっとも、ファビアン夫人は低音がきつそうで息が切れている程度は分かりましたけど。

さて、演出は、BSでいずれ放送されるので細かい紹介や私の妄想などは省きますが、ラヂオの扱い(ト書きにはないので演出家の工夫)や人物配置、窓の外の景色、リヴィエールの動きなどに、ゲッツ・フリードリヒ並の細かく意味付けたっぷりの演出を想起させ、面白いものでした(そう言えば、リヴィエールのカーテンで仕切られているだけのオフィスへ入るのに、形式的とはいえノックしたのはルルーだけなのは何か意味があるのだろうか?)。

若干話の筋立てを説明すると、今年生誕100年を迎えるサンテグジュペリの原作を概ねなぞりつつ、静かでゆったりとした音の靄の中を、主題かと思われる12音がヴィオラで奏されるな「序」と6つの連続した場からなります。
舞台はブエノス・アイレスのリヴィエールのオフィスに限定されており、幾つかの挿話を削ぎと落し、パタゴニア機の操縦士ファビアンも舞台には登場せず、代って電信技士が電文を読上げます(第5場において「陸は何処だ?」と指示を求め、雲の切れ間に突入し、最後にガソリン切れを連絡するまで)。また、リヴィエールの内的独白も他の歌手に割り当てられています、特に第4場でのファビアン夫人は、原作が控え目でリヴィエールにかえって大きな感銘を与えたのとは対照的に、原作でのリヴィエールの内面部分を、あるいはそれ以上に詰るように歌いますし、原作最後に現れる「重い勝利を背負って立つ勝利者リヴィエール」(新潮文庫、堀口大学訳)という地の文も彼女によって先んじて歌われます。

さて、その「歌」は結構多彩で、例えばペルランのアンデス越えの語りは、「グラール語り」のようでしたし、ラヂオから流れる曲は作曲年代を確認させるようなジャズっぽい歌ですし(この場面はラヂオの「退廃的」な音楽とオフィスのギクシャクとした音楽が同時並行的に聞かれ、私的には一つの聴き所でした)、リヴィエールは堂々とした朗唱からシュプレッヒシュテンメまで幅広く異なった歌い方を披露し、例えば、最後のシーンで自ら「重い勝利を背負って立つリヴィエール」と孤独のうちに静かに歌うシーンは、例えそれがシュプレッヒシュティンメであったとしても、とても印象的な「歌唱」になっていました。少なくともこの作品は、「歌がない」とか「普通のオペラじゃない」などとは言わせない程に歌に満ち満ちた作品だと感じられました。

合唱は、リヴィエールの歌にうっすらと被さったり、チリ便やアスンション便が徐々に近づき到着する様をヴォーカリーズで表現したり、第6場で朝が来れば始まるであろう世間の事故の責任追及をあらわすかのように、何度となく「リヴィエールの責任だ」を連呼(カノン形式)するなど、「囚われ人」同様に、何らかのシーンの表現手段や説明のための役割を与えられています。

最後に、管弦楽ですが、そのの編成はかなり巨大なもので、「囚われ人」同様に金管と打楽器の活躍が目立ちます(編成に関してはティンパニ、大太鼓以外に、ピアノ、チェレスタ、シロフォン、ヴィヴラホン、ハープ2台、またサクソフォンもソプラノ、アルト、テノールの3種類揃える必要もあります)。とはいえ、部分部分で印象に残っているところも確かにあるとはいえ、聴き込んでいないこともあるのでしょうか、「囚われ人」程強烈な印象を管弦楽については当たえられませんでした。確かに暴風雨のうねるような音楽、飛行機が到着する際の勇壮なマーチ風の音楽、あるいはファビアンの最後のシーンでの密やかで希薄で晴朗な音楽など聴かせどころもありますが、「囚われ人」程には、管弦楽が歌とあいまって場面を語るということをあまり感じず、劇の背景に解けこんでその場その場を聴衆に密やかに印象付けているという感じです。

聴き終わってみると、このオペラはもっぱらリヴィエールを中心とする歌を聴き、追いかける作品だなと思いました。ですからリヴィエールに人を得ないと台無しになるわけで、その意味では今回の公演のリヴィエール役は、歌唱の正確さとかは知りませんが、十分にその役、リヴィエール、が何者であるか表現し得たと思っています。

ところで、昔読んだ時は、リヴィエールは偉大な人物かもしれないが、こんな上司は困るなあといった程度の感想しか持たなかったのですが(中学生の頃です)、今あらためて「夜間飛行」を読むと、内容的に少し工夫や解釈を必要とする部分を含んでいるかと思いました。例えば、リヴィエールのロビノーに対するセリフは、「お前はアイヒマンになれ」と言っているとしか受け取れない部分もあり(幸いなことにロビノー氏は「スペシャリスト」に成り切れない)、原作のリヴィエールの独白を読むと自分とは違う価値観を認めているようでありながら、結局は省みない「独裁者」でしかないのでは?と思わせる部分もあります。何と言うか、「一人の死は悲劇だが、一万人の死は統計に過ぎない」と言ったチャーチル、彼の第一次世界大戦中の無謀な作戦で、確かバターワースもそうだったと思いますが、どれほどの人間が無駄死にしたことか、あるいは世界核戦争を望んだ毛沢東(「最初の一撃で人口の1/3が死に、その後さらに1/3が死んだとしても、中国には3億人残る(そして世界の覇権を握れる)」とモスクワ訪問の際スターリンに述べたらしい)といった、個々人を無視して自己の目的、結局は自己の「利益」の追求に徹した人々の冷酷さ・不気味さを感じさせます。その当りの問題を感じたのでしょうか、バランスをとるべく、「囚われ人」の作曲家であるダラピッコラは、原作には無い程にファビアン夫人によるリヴィエールの弾劾を書き込んだのではないか?と考えています。

とはいえ、音楽的にあるいは劇作品として十分なほどに感銘を受ける作品であることに変わりなく、もう少し上演されて欲しいとは思います、ちょっと短い割に編成が大きすぎるのが難点と言えば難点ですけど。


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