遠いコンサート・ホールの彼方へ
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2002年10月21日、26日

ロイヤル・オペラハウス コヴェント・ガーデン

Alban Beg

Wozzeck

指揮:アントニオ・パッパーノ

演出:キース・ウォーナー

Captain : Graham Clark

Wozzeck : Matthias Goerne

Andres : Alasdair Elliott

Marie : Katarina Dalayman

Margret : Claire Powell

Doctor Eric Halfvarson

Drum major : Kim Begley

Child : Jacob Moriarty


ロンドンに来て初めてのコヴェント・ガーデン。このオペラハウスの実演を聞くのも初めてで、その音の第一印象は、「薄くて軽いなあ」というもので、ドイツに駐在していた経験もある今の上司に言わせると、「あの音ではワーグナーは聴けない」というものでした(因みに、私は行けなかった「マイスタージンガー」については、「金管が酷かった」と一言のみの感想でした)。一方、劇場の音響は悪くないです。豊かに響くのですが、歌手の声は邪魔されずに、聞きやすい。ただし座席は体格のいい外国人(ドイツ人とか)にはちょっと狭いような気がしましす。

今回の演出はキース・ウォーナー。まだそれほど多くの仕事をこなしていないせいかもしれませんが、彼の略歴にはきちんと、「東京リング」も業績として書かれていました。また、2004年秋からは、新たにリングを演出をコヴェント・ガーデンで行ないます。入れ違いでこちらで見れないのが残念なところです。

さて、開演30分前ほどに座席に行ってみると、舞台には、地が黒色で、人の頭と透視画法の要領で脳およびその各部位に関するラテン語(?)の説明が白(銀)字で描かれたカーテンが下がっていまして、若干ピットに張り出した部分に机と椅子が置かれ、そこで粗末な身なりの子供が座ってノートに何かを書いています。この段階ではウォーナーの演出意図は分かりませんでしたが、通してみた結果は、マリーに生じたこと(あるいはマリーの家で生じたこと)は、子供が最初から最後まで全て見ているという設定になっているのでした。

舞台は、向かって左から手前にかけて斜めに床が仕切られており、その板に沿って上から壁が降りると、マリーの家となります。

舞台の左右の壁と、残りの大方の床は、病院のタイルのようなものに覆われています。そして、その舞台には4つの布を被せられた大きな物が並んで置かれています。

1幕 五つの性格的小品

1場 組曲

カーテンが上がると、そこにはゲルネ扮するヴォツェックが立っており、両方の腕に杖を持った「大尉」が、うろうろその周りを歩き回っています。ゲルネは、兵士の服というより、病人の着るようなベージュ色の綿のシャツとズボンを着て、どこか違う方をギョロっとした目つきで歌っていて、すでにいっちゃった感じです。特に、それまで比較的穏やかだった歌が、大尉に私生児について詰られた挙句に歌う「自分ら貧乏人は」では狂気の発作が爆発したように激情的な歌に転換する様は、演出だけでなく歌手ゲルネの力量発揮という感じで、ぞっとするも素晴らしかったです。一方、大尉は、軍服を着ておらず、リージェント・パークかどこかで散歩or日向ぼっこしている身だしなみの良い爺さんという感じですが、これが本当にいやみっぽい英国人のジジイという感じを出していました。そして、やり取りの間に第一の箱の多いが取り払われると、アクリル・ケースの中に、模型の町並みが、そして、爺さんじゃなくて「大尉」は、模型の複葉飛行機を子供のように手に取って飛ばすまもなく、それに火を付けてアクリルケースの中に放り込むのでした。当然、火は町に燃え移り、町並みは焼失してしまいました。これが何を意味するのか、セリフから色々考えるのですけど、未だに分かりません。そして、髭をそるべく「大尉」が椅子に座っている時に、ヴォツェックの激情が爆発して、「大尉」は椅子から転げ落ちるように逃げながら、説教染みた歌を歌います。

2場 三つの和音によるラプソディ

狂気のヴォツェックの感じはますます強まります。二つ目の覆いが取り払わると、そこには、草むらと巨大な毒キノコが何本か生えたアクリル・ケースが現れます。アンドレアスの歌は可もなく不可もなく。ゲルネ=ヴォツェックの焦点の定まらない目と野太く狂気染みた(でも美しい)声が印象的な場。しかし、オケにはもう少しだけ凄みが欲しいところです。

第3場 軍隊行進曲、子守唄

マリーと子供のシーン。ベッドと箪笥、そして机だけの粗末な家での、マリーの歌には、全体にけだるく疲れた雰囲気が横溢しています。衣装も労働者階級のオバサン風で、全然色気もなにもなくて、生活に疲れた感じ。子供も机に向かっている。一連のやり取りの後、あっちに行ってしまった焦点の定まらないギョロ目のヴォツェック登場(実は、家の外でずっと立ち聞きしていた。ストーカーですな)。あれでは、マリーが途方にくれて他の男に逃げるのも分かるような気もしなくはないのでした。

4場 パッサカリア 主題と変奏

家の外で立ちションベンをしているヴォツェックを医者が発見して、とっちめ始めます。このシーン、名作オペラ・ブックスではベルクが原作の「ヴォイツェック」を改変した「咳」のセリフのままですが、当夜は、セリフが原作に戻された版のとおり、「小便」になっていました(歌も字幕もです)。

右手の壁の一部が開くとそこは倉庫兼冷蔵庫で、そこからゴム手袋を出してはめ、豆を持ってきて、椅子に座らせたヴォツェックに食わせるというシーンです。医者の相貌は、私にはレーニンにしか見えなかったのですが、、、。そして、第3の覆いが取り払われるとそこには、ホルマリン漬けの動物、そして赤ちゃんのグロテスクな標本が幾つも並んでいるのでした。医者は、歌にせよ、演技にせよ、行っちゃったヴォツェックを圧倒するマッド・サイエンティスト振りで、このシーンを掻っ攫っていました。逆に、この悲劇の発端は明らかに、この非人道的な医者だろうということも確に感じさせるものでした。

第5場 アンダンテ

鼓手長は、他の演出でもおなじみの皮のブーツに金モール付きの軍服。彼が来ると子供はいち早く机の下に逃げ込みます。そして、マリーとベッドの周りで鼓手長がふざけながら追いかけっこをしていると、「大尉」と「医者」が家の前をとおりがかり、そのまま、壁の上方からニヤニヤしながら覗き見します。

鼓手長が、ついにマリーを捕まえて、行為に及ぶと、二人はお互いににんまりと笑いあい、その場を去ります。一方、鼓手長、行為に及んでいる最中に、机の下の子供と目が会ってしまい、急に萎えてしまい、忌々しげにイヤリングを出して家を出て行きます。涙に掻き暮れるマリー、ソープオペラ並の安っぽさが余計に哀れです。

第2幕 5楽章の交響曲

第1場 ソナタ楽章

鏡を見ながらか細く歌うマリー、見聴きしていてやるせなくなります。すでにいっちゃったヴォツェックの悲劇より、正気でいるマリーの悲劇を見ているようです。

第2場 三つの主題によるインヴェンションとフーガ

満月、覆いのかぶさったアクリルBox以外何も無い舞台。左右から大尉と医者が現れて、取り留めない会話。そこにヴォツェック登場。二人は立ち去ろう逃げるヴォツェックに通せんぼを繰り返した挙句に、マリーの不倫をほのめかす。その瞬間のヴォツェック=ゲルネの声は恐ろしいまでに絶望的に低い極低音の声でした。

第3場 ラルゴ

再びマリーの家、どこか噛み合わない会話。

第4場 スケルツォ

マリーの家がそのまま酒場に変わります。そして、この場の音楽を奏でる奏者達が田舎の楽団員に扮して登場。なんと彼らは「暗譜」でこの場の音楽を演奏してしまったのでした。あっぱれ。お立ち台に上がって歌う歌手達の内の一人、第1の若い職人が「聖書」を持って歌い、酔っ払った挙句に聖書を落とすとマリーの子供がそれを拾います。

一方、歌手たちは、隊列を作って、奥に向かうマリーと鼓手長と、ヴォツェックの間に垣根を作っており、その光景を眺めながらやけっぱち気味にヴォツェックは歌っています。絶叫のように歌い交わされる”Immer zu, immer zu”。その果てに、怒りまくるヴォツェックから逃げる人々、最後に一人の白痴、ヴォツェック同様のスタイル、が強引に彼のダンスの相手にされ、最後には怯えて蹲ってしまいます。

第5場 序奏付きロンド・マルツィアーレ

マリーの家をそのまま兵舎に転換。そこで寝ているヴォツェック。そして鼓手長が登場して、馬乗りなって殴りつけ、酔っ払いの兵士ともども舞台下手に去って行きます。

第3幕

第1場 六つのインヴェンション

大きな仕切りが舞台の間口一杯に降りて奥が見えない。その前、舞台中央に立って怯えた苦悩の表情のマリー、そこに子供が現れ、聖書を渡される。マリーが切々と「マグダラのマリア」の章を歌っていると子供が足を拭っている。ゆっくりと仕切りの後ろからヴォツェックが登場して、マリーを見つめて付いてくるように促し、フラフラと催眠術に掛かったように付いていくマリー。

第2場 一つの音によるインヴェンション

仕切りが上がると、そこには、最後のアクリルboxが。それは水を湛えていました。

ヴォツェック=ゲルネの重々しい声とマリーの怯えきった声が、オケよもっと芯のある厳しい音を出してくれないかという願いすらも忘れ去せる緊張感溢れたシーン、その頂点においてヴォツェックがナイフで首を掻き切ると、鮮血がアクリルboxの水の中に散る。そして、ヴォツェックはマリーを引きずって舞台下手に投げ捨て、その上にアクリルboxを覆っていた布を被せます。このぞっとするシーンを舞台上手で子供が見ていたのでした。

第3場 一つのリズムによるインヴェンション

舞台手前に箱、置くは坂になっていて、その坂の向こうにダンス・ホールがあり、鏡で天井からダンス・ホールを見ている感じ。これは秀逸、ヴォツェックとマルグレーテの歌に従って、床が徐々に血まみれになり、人々がその坂を越えてやってきてヴォツェックを詰ると場面転換。

第4場 六つの和音によるインヴェンション

ヴォツッェクは、マリーを覆っていた布を取り除き、フラフラとアクリルBOXに近寄り、ナイフを拾って遠くに投げ捨てると、手を洗おうとするのですが、そのままBOXの中に、そして口にシュノーケルをくわえてそのまま水の中で凝固してしまうのでした。このシーンについては、うーむ、シュノーケルがまだるっこしいなあとは思うのですがね。そして、その背後で能天気に会話している大尉と医者。

場面転換の音楽、響きが浅いぞ。

第5場 八分音符によるインヴェンション

舞台は、奥の背景もタイル張りになり、舞台下手前方に無造作にごろりと転がったマリーの死体、そして、数年前のターナー賞を受賞して物議を醸したダミアン・ハーストのホルマリン漬けの羊のように、水中でギョロ目をむいて凝固したヴォツェック、それを呆然とたたずんで見ている子供、それを照らす目もくらまんばかりの明るさ、ただし日光のそれではなく、病院のそれ。客席のあちこちから少年の歌がゴシップ記事としてだけの関心で口にする人々の声のように聞こえてくる寒々とした光景。底なしの救いようの無い死が示されたところで暗転。

オケはもう少し頑張って欲しいところでしたが、実に素晴らしい舞台でした。パッパーノの指揮は、精緻なオケではないことを承知の上で、大きく揺れ動く音楽作り、ドラマティックな音楽と言えばよいでしょうか。演出も、シュノーケルの処理さえ何とかすれば実に素晴らしいものでした。しかし、何よりも素晴らしかったのは演技も含めて歌手でした。芸達者に何事にも実は無関心で残酷な二人の脇役を演じたクラーク(大尉)とハルヴァルソン(医者)、生活に追われて右往左往しつつ後悔の念にさいなまれるマリー=ダレイマン、そしてヴォツェック=ゲルネ、これまでの数種類の録音でも聞いたことが無い深く狂気と絶望を孕んだ声と演技を見せてくれたヴォツェック、実に素晴らしい。残念ながら来シーズンには再演されないのですが、どこかでまた見聞きしたい舞台です。



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