遠いコンサート・ホールの彼方へ!
ホーム Oct.2003



プッチーニ:歌劇「トゥーランドット」


2003年10月5日 ベルリン州立歌劇場 19時開演


指揮:Den Ettinger
演出:Doris Dorrie
美術:Bernd Lepel
照明:Franz Peter David
合唱:Eberhard Friedrich
コリオグラファー:Valentina Simeonova

トゥーランドット:Eliane Coelho
アルトゥム:Peter-Jurgen Schmidt
チムール:Alexander Vinogardov
カラフ:Dario Volonte
リュー:Elena Kelessidi
ピン:Alfredo Daza
ポン:Stephan Rugamer
パン:Pavol Breslik
役人:Yi Yang





ジャパニメーション&テレビ・ゲーム、 ベルリン州立歌劇場を占拠する

唖然とする客、失笑する客、憤慨する客、そして喜ぶ客、いやあ、オペラ演出は何でもありの時代なんだなあと改めて思うのであった。

まず、本日はケント・ナガノではなく別人が振る日であった。事前の案内にはそんなこと書いてなかったのだが。それから当初トゥーランドット役でアナウンスされていたSylvie Valayreが理由不明で降板。しかし、演奏の記憶が吹き飛ぶような舞台演出&美術、まさに表題とおり。

舞台の幕は、英語による現代中国は北京の地図。天安門広場(Heavenly Peace Gate)とか色々書かれており、さらに矢印やら、”Best Antique Shop!”とかのメモ書き、インクの染み等が滲んでいる。ちょっと気になったのは、「人民革命および毛主席記念館」の地図上の英訳が、”People’s Revolution and the Chairman MAD memorial Hall ”となっていたこと。OとDとの誤字だろうが、ブラック過ぎる(在独中国大使館員は気付いていないんだろうなあ。でも、双眼鏡で隅から隅まで見る人はそんなにいないか)。

しかし、幕が開けたら、どこが現代中国だ!ジャパニメーション、村上隆の世界ではないか!いや確かに、第2幕第1景は、現代中国らしい雰囲気を出していたが、それとて、サントリーのウーロン茶か何かの宣伝でみられた、モーターバイクに乗る中国人の若い恋人のシーン的なものでしかないのだ。

第1幕

ショッカーのような骸骨達の合唱団、その前にプラスチックの輝きを持つ赤と銀灰色のコスチュームの首切り役人。どこかで役人を見た記憶があるのだが、と思っていると、脇から、鮮やかに光り輝くマントを羽織ったミイラ男と化したチムール、そして、どこからともなく「ベギラマ」とか「○○は混乱した!スライムは逃げ出した!」とかいう言葉を思い起こすような姿のリューが登場。ドラゴン・クエストの魔道士か!(ちゃんとバッグには金で生き返らせてもらえる教会の印も入っていた)。そしてリュー達が骸骨達に通りでいたぶられている所に、登場したのが、ゲーセンでお馴染みの(あるいはTVゲームにもなっている)「ストリート・ファイター」を彷彿とさせる、青のジャージにGパン、巨大なバックル付きのベルトにスキン・ヘッドの頭、そこにタランテラの刺青をしたカラフ。彼は、いたぶる骸骨たちと、ストリート・ファイトを繰り広げるのですが、うーむ、如何せん、腹の出たおっさんでは様になっていない。同じジャパニメーションと中国武侠ものを反映させるならば「マトリックス」くらい徹底して欲しいものだ(主役級のコンセプトはここ、役人&市民のコンセプトはこちら)。

最初から失笑の連続でしたけど、このカラフ達の登場でさらに笑いは拡大。音楽は悲壮だったり重々しいし、歌詞も切々としているのに、舞台とのミス・マッチは絶大。先に話を進めると、首を切られるペルシャの王子は、スターウォーズですか?と思わせるバッタか海老を思わせる緑色の宇宙人の格好。それを、顔をパンダのようにメークした張りぼての白衣を着た天使達(子役)が袖に引き連れていき、いよいよトゥーランドット姫登場か、と思うと、巨大な携帯電話の模型が登場。再び場内は爆笑に包まれる。その画面に、日本の漫画的なトーゥランドット姫の絵が現れて、親指を下に向けると、バッタじゃなくてペルシャの王子は暗闇に消えていくのでした。(なお、姫は、どう見ても美人に見えない絵でして、キリン・ビールが、半年ほど前にロンドンの地下鉄構内での宣伝に使っていたマンガ<セリフがローマ字で書かれた日本語なのでイギリス人には分からんと思ったのだけど>を思い起こさせる画風でした、と言っても誰もわからんだろうなあ。ともかく、)カラフがトゥーランドット姫にうっとりとしていると、ピン・ポン・パンが登場、円谷怪獣かと思う着ぐるみ...。 トーゥランドット姫の残酷さを示す垂れ幕、これも劇画というかマンガの一シーンのようであった。

それでもというカラフのファイティング魂溢れる歌の中、意味不明に巨大なピンクのクマの模型まで登場。世界で一番稼いでいるピンクのクマこと「モモ」とはちょっと違うけど、村上隆の作品で見たような見なかったような気がしているうちに幕

休憩中、プログラムを確認、うーむ、そうか合唱や首切り役人のデザインはウルトラマンから取っていたのか(ここ)。円谷プロの許可を取っているのだろうか(お前も画像使用の許可をウンター・デン・リンデンから取っているのかという突っ込みはなしね)。さらに、オペラ・ハウス内を歩くと、「トゥーランドット」を主題にしたマンガが、それも素人の女の子達(名前と年齢も併記されている。1516歳中心)による「日本的少女漫画」そのものが、数多く陳列されている!

イギリスの本屋ではあまり見かけないが、ドイツの本屋では、ベルリンでもシュトゥットガルトでもフランクフルトでもハンブルクでも、大書店でも駅構内の小さな書店でも、結構な「MANGA」コーナーがあって「INUYASHA」だとか「CONAN」だとかがずらっと並んでいるのだが、州立歌劇場の中まで進出しているとは!それにしても、ドイツ語で「キャーーーッ!」というのは別の言葉があるだろうに、"
Kyaaaaa!"となっていたのには苦笑してしまった(MANGAの翻訳がこうなっていたのであろう)。

第2幕
幕が開くと、三台のモーター・バイク、そこにちょっと妖艶な感じの長い黒髪の美女三人が横座り。照明は桃色、天からはシャボン玉、するすると、トラや金魚などの絵幕がおり、バイクの背後はくるくると回る背景画があり、それをみるとどうも中国らしい。そこにピン・ポン・パン登場。彼らは着ぐるみを舞台上で脱いでしまった。ここで演出家のコンセプトが全く分からなくなったが、まあいいや、で先を見る、美女とともにバイクを運転する、白い綿シャツに黒い綿パン、こざっぱりとした髪型、「ウーロン茶」の宣伝で(私の中に植えつけられている)現代中国のイメージである。バイクから降りると、敷布を広げてランチ、美女によるマッサージ、そしてセックスと続き、その間中、例の「あー、やれやれ」という気だるい歌が続く。曲のリズムと腰の動きを合わせているので、また場内から笑い。いよいよカラフの審問だというところで、三大臣は慌てて着ぐるみを着ながら舞台の袖に引っ込むのだが、頭にかぶる分を間違えていた。

ウルトラ星の方々こと合唱団とピン・ポン・パンが登場。さらに巨大なピンクのクマ、巨大な携帯電話も登場。さらに、老皇帝も来るのだが、彼はちゃちな2階建て一軒屋(1階はシャッター付きガレージ)の2階部分に乗って現れ、さらに茶色の張りぼての背広に緑のネクタイで、アメコミに出てくるただの安っぽいビジネスマンに見える。合唱団のお辞儀の角度がマチマチなのが気になる。

ここでようやく姫が登場。ピンクのクマの腹の扉が開くと、腰に日本刀とピンクのクマのぬいぐるみを吊るしていた。その格好で、日本刀を振り回しながら、恨み辛みを歌われてもなあ、それにカラフ、日本刀の切っ先を簡単に握らないで欲しかった、斬鉄剣でなくとも指が落ちるぞ。そういえば、タランティーノの最新映画”Killing Bill”のポスターでも、主演女優のユマ・シーンが、黄色のレース・ウェアに日本刀を持っていたが、あれは何だったのだろう?と思っていると、審問シーン。カラフが答えながら、携帯電話のボタンを叩くと、画面に答えが現れる(でもあのボタン操作ではあの文字は出ないのだが)。そして最後の審問が終わると、よくやったとばかりに褒美の商品ではないが、ガレージの扉が開いて、また場内爆笑。私は双眼鏡でみてさらに爆笑、赤のマツダのファミリア、それもナンバー・プレートが「品川41841」。これが北京の人々を恐怖で眠らせないトゥーランドット姫の自家用車なのであった。日本の我が家の自家用車並ではないか。役立たずの番犬に「例の盗人の名前が分かるまで、お前は寝てはならぬ」と帰国したら歌ってみるか。無視されるな。


第3幕始まる。客数は減っていなかった。

さすがに、もう笑えるシーンは無いだろうなあ、カラフが「誰も寝てはならぬ」を歌い、リューとチムールが拷問されリューが死んで、「愛です」とトゥーランドットが歌い、大いに盛り上がって終わるんだなあと思った瞬間、そういえば、今日の主目的はベリオの補筆完成部分を聞くことだったことを思い出す。

リューの最後のシーンは、さすがに変なことはしていなかった。コスチュームだけがO.ナッセンのオペラ「怪獣達のいるところ」に使いまわしがきくほどミスマッチなのだが、リューはトゥーランドットの持つ日本刀で自分の首を掻き切り、大量の血が床に流れ、天使達に運ばれていった。隣おばさんは歌を聴いて泣いていた。そして、ミイラ男ではなく、チムールも「哀れなリュー」を歌い、さっきまで拷問していた三大臣達に支えられつつ退場すると、いよいよ本来の目的ベリオ版の始まり始まり(聞き方が間違っている、という指摘はイギリスの知り合いにも言われた)。

感想:全然合ってない。

どの程度プッチーニがラスト・シーンの構想を残したかは知らず、そして随所に「トゥーランドット」の旋律を使っていたとはいえ、出てくる音楽はベリオそのもの。小さな持続しないクライマックスがいくつも連なる中、プッチーニとは明らかに違うセクエンツァですか?と思う管弦楽法を用い、いわゆる甘いメロディは皆無(一部「誰も寝てはならぬ」が使われていた)。歌はあるが、プッチーニの歌とは全く異質で、かなり跳躍する音符(五音音階すらあったかいな?という感じ)。補筆完成というので、プッチーニの諸作品から展開上の使えそうなメロディを採用したり、過去のプッチーニの数多くのヒロイン達のメロディを幾重にも重層していって(大体恨み辛みで死んでいった感じのヒロインが多いじゃないですか、彼女たちの供養にもなるし)、アルファーノ版顔負けの、でも複雑な響きで大団円に持ち込むだろう(初演はザルツブルクだったし)という素人考えをあざ笑うかのように、どんどん曲も歌もエネルギーが減衰していって、三和音で静かに閉じたのには、最後だけ聴衆に迎合してつじつま合わせをするのは良くない、とか思ったぞ本当に。


で、演出。二人だけ取り残されると、トゥーランドットはカラフに黒い衣装とクマを剥ぎ取られ、シュミーズだけになる。背景も高層ビルの林立する夜の大都会になる。すると、そこに新たな平屋の家が現れ、その中の部屋には青いジャージが吊るされていて、それをカラフに示されて、彼女は家の裏手にそれを持って出て行く。カラフは冷蔵庫からビールを取り出して、そのまま飲んでいるので、いきなり「欲望と言う名の電車」ですか?という世界に(この間笑いが止まらず)。時期に姫は青いジャージにピンクのズボン、サンダル履きというヤンキーの奥さんの髣髴とさせる姿で再登場。当然場内失笑。ここから、姫とカラフの対話が始まるのですが、どう歌を聞いても、どう表情を見ても、姫は結婚に依然として承服していない感じ。またまた皇帝がやって来てビールでカラフと乾杯するのだが、このシーンも問題の娘と結婚してくれてありがとう、といった小市民的風景でしかない。その皇帝をさっさと姫は追い出しながら、不承不承に、旋律そのものがそう聞こえるのだが、「愛ですよ、ええ愛ですと言っておきましょう」という感じに最後を歌っていくのであった。

暗転。直ちに場内各所から大ブーイングであった。ただし、歌手やオケや指揮者、そして合唱団にはブーイングは飛んでいなかった。果たして今は亡きベリオへか、演出家へか、それとも我がジャパニメーションへか、確認しようがなかった(確認するまでも無く分かるな)。

ああ書くのに疲れた、と思って自分の書いた物をみると演奏について全く触れていないのであった。もっとも、この曲をそんなに知っているとは言えないので、簡単にだけ触れる。

カラフは、オケに時々声量が負けていたのと、声の伸びが若干欠けていたのが残念だが、聞かせどころは相応にがんばっていた。性格作りに関しては、このような演出であったので、どうしようもなかったと思われる。第1幕では、体を引き締めた方がよいと思ったが第3幕はかえって中年のしがないおっさんがビールを飲んでいる風で効果が出ていた。リューは、最後のシーンに全精力を注入していたようだった(といっても他の聞かせ所は第1幕だけだが)。隣のおばさんを涙させるほどの歌唱力はあり。トゥーランドット、過去の録音と比較するのはかわいそうだが、舞台で聞く分には十分楽した。最後のシーン、氷の皇女からヤンキーへの転換は結構はまっていたなあ。

演奏は全体的に軽め、メトの豪華な演奏をLDで見聞きするのとは大分印象が違って、正直比較できません。

で、演出に関する私の感想。コンセプト不明で、考える気は無いけど、面白かった。最後まで着ぐるみのジャパニメーションの世界で行くか、小市民的な世界(あるいは「精神を病んだ女性の妄想(引きこもりの世界)」からの脱出でもよいのだが)で一貫させても良かったと思うが、現在のアジア的混沌・文化、そして20世紀音楽であるベリオとをプッチーニのオペラをネタにしてコラボレートしたのだと表現すれば、凄くモダン!!、かもしれない。少なくとも、我が国の新国立劇場が、村上隆に美術担当をさせることは絶望的である状況では、その片鱗を垣間見れたかな?ともかく、伝統的演出のもと、オペラは歌手だ!という人には怒りの演出・美術ではあるが、実は至極伝統的な欧州のスタンスではないか?とも思う。ヨーロッパは「常に前進し続けなくては症候群」にかかっているのである、そして19世紀後半に、ゴッホが、モネが取り入れた「ジャポニズム」を彷彿とさせる試みではないか!いやそれだけでない、ジャパニメーションやTVゲームという東風が西風を圧するか否かを、オペラという欧州の伝統的文化で試すことすら躊躇わないのだ!恐るべし欧州!金も無いのに!

因みに、「東風が西風を圧する」と述べたのは、スターリンと初めて面会した際の毛沢東の言葉です。幕の話と上手く繋がった感じ(自分で書くな!)。


ホーム