"Danbury, Conn., 1874〜1954" | |
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交響曲第2番を廻るエッセー
その1 第5楽章のスキップ
あなたは楽譜を開いて作品を聞いている、すると聞きなれた作品なのに突然楽譜を追いかけられなくなる。慌ててページを行きつ戻りつしているうちに、なじみの音が聞こえてきて、ようやく楽譜に戻ることができた、しかし...。
どうも、St.Ivesです。これは今亡きバーンスタインの振ったアイヴスの交響曲第2番のDG盤を初めて楽譜を見ながら聞いたときに起きたことでした。突然、目の前の楽譜と音が合わなくなり、ついには全然別の場所に音楽は飛んでいました。レニーは楽譜と違う演奏をしているのでしょうか?あるいは楽譜がおかしいのでしょうか?
私の見ている楽譜は、PEER INTERNATIONAL CORPORATION NEW YORK 02-002262-856というものです。事は、第5楽章165小節を過ぎたあたり(167ページ)で起きます。163小節のスキップするように上昇する第一ヴァイオリンが聞こえると、突然楽譜と音が合わなくなり、気が付くと185小節に飛んでゆったりとした「民謡調」のメロディー部分に移行するのでした。この間小節数にして20小節4ページ強の音がスキップされたのです。
そこで、私はこれがバーンスタインだけのことなのか、あるいは他の演奏も同じ事をしているのか、幾つかのCDを聞き比べてみました。すると実に面白いことがみつかりました。
指揮者・演奏団体 | レーベル・CD番号 | 演奏・録音年月日 | スキップの有無 |
レナード・バーンスタイン ニューヨークpo. |
ニューヨークpo.自主制作 NYP 2008/9 |
1951年2月25日 初演! |
あり。ただし後年の録音とは全く異なる →「初演者レニー」 |
レナード・バーンスタイン ニューヨークpo. |
SONY CLASSICAL SMK60202 |
1958年10月6日 | あり |
ユージン・オーマンディ フィラデルフィアo. |
BMG 09026-63316-2 |
1973年2月7日 | あり |
ズービン・メータ ロサンジェルスpo. |
LONDON POCL4153/4 |
1975年5月 | あり |
ハロルド・ファーバーマン ニュー・フィルハーモニアo. |
VANGUARD 08 6153 71 |
?(1966〜1977) | なし |
マイケル・ティルソン・トーマス アムステルダム・コンセルトヘボウo. |
SONY CLASSICAL SK 46440 |
1982年? | なし |
レナード・バーンスタイン ニューヨークpo. |
DG 429 220-2 |
1987年4月 | あり |
ネーメ・ヤルヴィ デトロイトso. |
CHANDOS CHAN 9390 |
1995年4月29日、5月1日 | なし |
ケネス・シャーマーホーン ナッシュヴィルso. |
NAXOS 8.559076 |
2000年6月6、19日 | なし →「校訂版か?」 |
上記以外にも実演で聴いた、井上道義、高関健(いずれも1998年)、岩城宏之(2000年)による演奏に際しても、バーンスタインの行った「スキップ」はありませんでした。
実演まで含めると1980年代を境に、バーンスタインを除けば、「スキップ」が無くなっているようです。マイケル・ティルソン・トーマス指揮アムステルダム・コンセルトヘボウのCD解説書によると、1951年までこの交響曲の楽譜は実用に供されず、その後マルコム・ゴールドシュタインによる校訂が行なわれ、彼の録音がそれに基づく最初の演奏・録音であることが記されています。この点は実は次の「民謡調」のポイントにもなることですが、ここではその話はひとまずおいて先に続けますと、この「校訂」によって「スキップ」が無くなったようなのです。現在私の手許にある楽譜には、確かにゴールドシュタインの校訂によると書かれています。校訂が完了したのは1988年12月、ちょっと見にはM.T.トーマスはこの楽譜を使えないようですが、彼はアイヴス協会と深い係わり合いがあったことからいち早く、あるいは第一次の校訂譜を用いることができたのだと思います。そしてこの校訂楽譜が出版された以降は、皆がこの楽譜に忠実に従うようになったのです。ただ一人、バーンスタインを除いて。
では、バーンスタインの演奏はアイヴスの意図と違っているのでしょうか?
交響曲第2番の初演は1951年2月22日、アイヴス夫人ハーモニーの臨席のもと行なわれました。当時のニューヨークpo.は週4回同じプログラムの演奏会を開き、うち1回を放送録音しており、上記の2月25日の録音こそ3月4日に放送され、コネチカット州ウェスト・レディングの自宅でアイヴスがラジオを通じて聴いたものでした。完成から実に半世紀、バーンスタインの招待を断ったアイヴスは、自宅のメイドのラジオで演奏を聞き、嬉しさのあまり椅子の上で踊ったと言われています、が、それは神話でしかありません。ヘルニアで苦しむ当時77歳の老人が椅子の上で踊れるでしょうか?実際のところは、親戚・知り合いともども静かに最後まで聞き、終演後の爆発的な拍手がラジオから流れる中、一言も言わずに立ち上がり、暖炉にツバをはいてから、台所に歩いていったのでした。気恥ずかしかったからでしょうか?彼の作品の中では「やさしい」作品が予想通り受けたことに気分を害したのしょうか?あるいはバーンスタインの演奏が気に入らなかったのでしょうか?
1954年5月19日アイヴスは亡くなります。その翌年の1955年、バーンスタインは再びアイヴスの交響曲第2番を演奏会で取り上げます、そしてその演奏をハーモニーは聴いていました。彼女はその後ヘンリー・カウエル夫人シドニーに手紙を書きました。
" It was as Mr.Ives's very self - I
was greatly moved."
これがすべてではないでしょうか。