"Danbury, Conn., 1874〜1954"
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交響曲第2番を廻るエッセー

その2 民謡調を廻って


20世紀最後の年のサントリー・サマーフェスティヴァルは、それまでの年に較べてもとりわけ企画的に貧弱でしたが、8月24日のコンサートにおいて20世紀初頭を飾る曲として、アイヴスの交響曲第2番を取り上げるだけの識見をまだ持ち合わせてました。しかし、識見はともかくも、その演奏はちぐはぐなものであり、一見単純そうで演奏者にとっては至難の第5楽章、とりわけコーダの木管、金管、弦がセクション毎に異なる旋律を平行して聴かせる部分を代表に、アイヴスらしいあちらこちらから様々なナマの音素材が聞こえるという特色が失われ、音がダンゴ状態になっている、とてもじゃないが聞けた演奏ではありませんでした。唯一の誉められる部分は終わりの部分を楽譜とおり八分音符でピシット決めたぐらいがナマ演奏の醍醐味という散々な結果でした。

ただ、これで終わりではなく、聴いていて「これは!」と思った部分もありました。その部分とは第5楽章の「民謡調」の部分です。「民謡調」と言われても何のことか分からないでしょう、しかし、賑やかな第5楽章で2回ほど、しみじみとした旋律を、最初は弦楽器の伴奏にのってホルンが奏で<58小節から>、2回目は、伴奏をフルート→弦→フルートと移り行く中をチェロが奏でる<187小節から>部分です。因みに、旋律はフォスターの作品の引用らしく、伴奏は「藁の中の七面鳥」の変形です。

アイヴスの交響曲第2番というと大方の人はDGのバーンスタイン盤、あるいは最近ですとオーマンディの演奏で慣れ親しんでいるではないでしょうか、そしてこうした演奏を聴き慣れていると、当日の岩城指揮による第5楽章の「民謡調」の部分が、ホルンやチェロが速めのテンポで美しい旋律を奏でている裏で、ものすごいスピードでピコピコと動く弦やフルートに、「何なんだ!」と仰天してしまい、挙句の果てに「何でここでテンポを落とさないんだ」とか思ってしまうわけです。エエ、私も実はミッチーの演奏を聴いて仰天した口なんで、その1ヶ月後の高関の演奏でもやはり同じだったので、あわててスコアを調べてみたら、何と第5楽章の基本テンポは、

Allegro molto vivace(2分音符=92-96)


というショスタコーヴィチの第5交響曲顔負けの速さだったのです、さらに件の「民謡調」の部分は、

Meno allegro(二分音符=72-76)


というこれまた快速なテンポ指定がされていたのでした。更に言えば、ホルンとチェロにはご丁寧にCantabileという指定もありまして、つまり、ミッチー、高関、岩城は、Cantabileに成功したか否かはともかく、楽譜に(ある程度)忠実な演奏を行っていたわけです。

そこで、例の如く楽譜の違いを演奏の変遷で辿ってみることにしました。

@ バーンスタイン:<NYpo.の自主制作盤、CBS、DGの3種類> 50年代の最初の二つの録音は、Allegroの指示に違和感がなく、民謡調の部分ではテンポを落としていました。一方、DG盤は、バーンスタイン晩年特有のゆっくりしたテンポのため、かなりゆったりとした「民謡調」の演奏でした(演奏時間:NY盤8分39秒、CBS盤9分10秒、DG盤10分05秒)。

A オーマンディ:<BMG>:極めてゆっくりと始まり、民謡調の部分手前でちょっと加速してさらにゆったりと突入。もしかして4分音符=92-96、4分音符=72-76と解釈したのか?と思わせる演奏です(同:10分26秒)

B メータ:<DECCA> テンポは、スコアさえなければまともに聞こえるAllegroで、バーンスタインのCBS盤同様に、民謡調の部分も朗々と歌わせています(同:9分01秒)。

C ファーバーマン:<VANGUARD> バーンスタイン(CBS盤)並のテンポでした(カットなし)。なお、1箇所どっきりするような不協和音があります(同:9分50秒程度)。

D マイケル・ティルソン・トーマス:<CBS> ユニーナ位置付けの演奏です。この人はアイヴス協会に深い関わりがあったようなので自筆譜にも触れられる立場にいたのでしょう、これまでの演奏に比べればかなり快速テンポでスタートします。しかし、民謡調の部分ではぐぐっとテンポを落としてCantabileしています(同:9分40秒程度)。

D ネーメ・ヤルヴィ:<CHANDOS> ついに、ミッチー、高関、岩城と全く同じテンポ設定の録音がありました。この演奏はまさに楽譜のテンポとおり、下手糞なデトロイトpo.を使いながらも、演奏したものでした(同:8分05秒!)。

E シャーマーホーン:<NAXOS> 新しい校訂楽譜に基づく演奏。かなりゆったりと「民謡調」を出している。改訂によりテンポ指示が大きく変った可能性がある。

さて、何故ヤルヴィ(ミッチー、高関、岩城)とそれ以外の録音がこんなに違うのかという疑問が湧いていきます。さらにスコアをみると、

Note on the printing
Numerous corrections are included here for the first time, as suggested by Malcom Goldstein, John Kirkpatrick and others.

December 1988

とあり、さらにもともとのコピーライトは、

Copyright 1951 by southern Music Publishing Co.

となっています。因みに、シンクレアー編集による「アイヴス辞典」をみると、1951年にルー・ハリソンとヘンリー・カウエルの編集で出版され、1979年に現在のPeer出版社に権利が移され、1988年に校訂が加わり、1991年にさらに校訂が加わったと書かれています。

上記の各CDが録音された年代をみると、ヤルヴィのみ校訂楽譜以降(バーンスタインのDG盤は、カットを維持していたように別物と考える)の録音な訳で、まさにいつの時代の楽譜を使用したかというところに答があるように思われますが、問題はそれで解決したわけではありません、つまりヤルヴィの演奏こそアイヴスの楽譜に即した「正当」なものだと見なしていいのか?という問題が残されています。


問題は二つに分けられると思います、楽譜が本当に指定しているのかどうか?、と、楽譜に忠実な演奏とは何か?という問題です。


前者は、アイヴスの楽譜がどのような状態で保存されていたかということを知っていれば、すなわちボロボロの状態で散乱していたのならば、いくら慎重な校訂の結果といえどもそのまま受け入れて良いのだろうかということだということになるでしょうし、校訂者の趣味が入り込んでいる可能性も大です。また、校訂楽譜での演奏を前面に押し出したのはヤルヴィ盤だけではなく、新しいシャーマーホーン盤のみならず、1982年頃に録音されたMTT盤でもゴールドスタイン校訂楽譜使用と述べていますので、「校訂楽譜使用」という文言は演奏に「唯一」とか「絶対」の正しい楽譜を用いたというお墨付きを与えているわけではないのです。ファクシミリについては、実物を見ない限り検証は不可能ですが、アイヴスの楽譜には結構ファクシミリが、部分とはいえ、載っているものがありますので、アイヴスがメトロノーム記号を書き入れる人なのかどうかを我が家にあるアイヴスの楽譜をひっくり返して確認してみました(書き入れていれば必ず校訂楽譜には載るでしょうから)。

シンクレア校訂の交響曲第1番:楽譜にはメトロノーム記号なし。ファクシミリはなし。

カークパトリック校訂の交響曲第4番:楽譜にはメトロノーム記号あり。ただし第1楽章の冒頭のファクシミリにはメトロノーム記号はなし

ゴールドスタイン・カークパトリック校訂の交響曲第2番:メトロノーム記号あり。ただし、「アイヴス辞典」に引用されている第5楽章冒頭部分、後のシャーマーホーン盤の校訂者ELKUSによる「1951年版」には、Allegro molto vivaceとは書かれていますが、メトロノーム記号はなし。因みにELKUSの校訂した他の楽譜もメトロノーム記号はない。

ピアノ・ソナタ第1番:メトロノーム記号あり

ピアノ・ソナタ第2番:メトロノーム記号なし
Thanksgiving and Forefather's Day:自筆ファクシミリの最終稿に何となくメトロノーム記号めいた数字が確認される(校訂譜にもメトロノーム記号あり)。

いい加減これくらいにしておきましょう、結論はこういった方法では出ないのですから。ただし、何となくカークパトリックはメトロノーム記号を入れてしまう人物のように思われます。そして彼はアイヴスにとても近い人物だというところで、メトロノーム記号はアイヴスが是認したものなのか?と思わせるところが曲者でしょう。多分、メトロノーム記号は絶対ではないのでしょう。

続いて「楽譜に忠実な演奏」という点で考えてみましょう。楽譜に忠実とはどういう意味なのでしょうか?例えば楽譜をみてみると、実は奇妙なことがいろいろあります、例えば、音量の絶対水準、楽器間の音量バランスが書かれていません。ヴァイオリンは何dbでヴィオラは何dbといった指示はありません、個別楽器毎にも相対的な音量指示はあるものの、fとffとの差などというものはありませんし、そもそも基準音量も分かりません。いわば、楽譜に忠実なという言葉は全くもって存在し得ない事象を示している言葉であり、演奏慣習に寄り添っていることを宣言しているに過ぎないと思います。楽器間のバランス、テンポ変化の程度、浮き立たせる旋律・楽器といった部分を疎かにして、楽譜に書かれたテンポだけを忠実に守ることこそ皮相的ではないでしょうか?

ここで「第五楽章のスキップ」でもユニークだと紹介したティルソン・トーマス盤に登場してもらいましょう。くどいようですが、多分、彼はその立場上自筆譜を見れたことでしょうし、ゴルドスタイン・カークパトリックの校訂作業にも何らかの形で加わったでしょう(第1番と第4番のCDは校訂後の楽譜を使用)。そのような立場にいたであろう彼は、確かに第5楽章の冒頭こそ現在見られる出版譜を彷彿とさせるかなり快速のテンポを採用しているものの、「民謡調」の部分ではテンポを落として演奏者に歌わせていますし、伴奏もピコピコと機械的な動きにならないように注意しています。つまり、彼は校訂譜に拘泥することなく、彼の主体的な判断でかの部分のテンポ設定を行い、かつそれまでの「民謡調」に寄りそった演奏とは異なる説得力を持った演奏を繰り広げているのです要はセンスの問題という当たり前の結論なのです。

ヤルヴィ以降の演奏について言えば、仮にテンポだけでも楽譜に忠実であろうとすると浮薄な音響になってしまう、それをどう処理するかというのが指揮者に課せられた使命でしょう。勿論、もしかするとアイヴスは校訂楽譜通りの効果を狙ったのかもしれないという考えもありますが、同時期の作品や全体感からみてあの部分だけそうした音響処理を施す必然性も可能性もほぼないと私は思いますが、それならそうで他の部分との差を明確にして浮き上がらせるような処理を行なうことが求められるでしょう。

結局、指揮者は課せられた使命を解決するためには、校訂楽譜がおかしいと思って自筆楽譜を調べて判断するか、そうせずともバーンスタインやティルソン・トーマスのように聴衆に何を聞かるのかといったコンセプトを明確に示して演奏を行なうかのいずれかだろうと思います。校訂楽譜を使おうと使わなかろうと、" It was as Mr.Ives's very self. "と思わせるか否かに全てがかかっているのです。その点で岩城の演奏は散漫で、伴奏が妙に浮いていて、体をなしていなかった、というそれだけの話になってしまうのです。


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