金色日記 Diary in Gold



 

3月20日(月曜日)

 なんか数日前だったかに、『トイ・ストーリー2』__監督ジョン・ラセター+トム・ハンクス(ウッディの声)+ティム・アレン(バズの声)(Disney・PIXARアニメ)

 オモチャのチャチャチャ♪。このオモチャという設定が、アニメの物語をメタ・レベルにしていて、なんか凝ってるーって感じ。それぞれのオモチャのディティールがハンパじゃない。

 「小さいオトシマエ」というのは、ほかでもない、3月12日の日記で、マイクロソフトさんの「Office98/Macintosh Edition」に文句をつけたことです。あれは、当方の初歩的なミスであった。インストールして再起動したときフリーズした、その後もパソコンの調子がおかしいといったが、それもそのはず、実は、パソコンの「日時」の設定が、ぬあんと1904年になっていたのだった(苦笑)。自分で「1904年問題」を作り出していたのね。なんでわかったかというと、オンラインの買い物サイトで、「ブラウザの日時が古いのでセキュリティが保障できない」(バージョンが古いと出る)という「警告」が出た。

 ブラウザは真新しいCommunicator4.7だったので、「日時の設定」を調べてわかった。

 正しい日付に直すと、お試し版の翻訳ソフトも動いたし(実はそれも「使用期間前なので使えない」という表示が出ていたのだ。1904年ならあたりまえだよね(笑))、Office98も無事インストールできた。それに、インストールの方法をよく読んだら、「再起動」なんていらなかったのだ。

 マイクロソフトさん、ごめんなさ〜〜い。そうでなくても、Appleとマイクロさんは、共同しあっているのにね。Apple社の中にも、「マイクロソフト課」みたいなのがあるんでしょ?

 マイクロソフトに問題があるにしても、私ごとき末端のユーザーが指摘できるものではなかった。ハハハ、米国司法省じゃないって。被害妄想というか、誇大妄想とゆーか>自分

 でした。

 それやこれやで、未だ、完全には、Macに移行できてません。で、このファイルも、またWinで作ってる。でも、これを、MacのWord(CommunicatorのComposerは、今使ってる古いGoldと違って、HTMLタグの手直し場所がよくわからない。わかるヒトがいたらおせぇーて)に移植して、それからFetchで送ってみるからね。今後、フォントとか多少「表示」が違ってくるかも……。

 アタマも体も固くなってしまって……トホホホ……(体もだるいし)。

 それにつけても、つくづく、今のWeb管理の方法が、まるで空気のように身についていたのだった。他の人々とは違った、私独自の作成、管理方法なんでしょうけど。

 そこから脱却するのはタイヘーン、てこってす。このサイトのファイルもいつしか「膨大」になっていたし……。一抹のノスタルジーも……。
 

3月21日(火曜日)

 ↑「CommunicatorのComposerは、今使ってる古いGoldと違って、HTMLタグの手直し場所がよくわからない」って、よく考えたら、本末転倒というか、おかしなこといってますね(笑)。

 べつに、始めからメモ帳とかで打ったHTMLのテキストにしておけばいいんですよね。

 この頃、すっかりボケが忍び寄って……。春はあけぼの……。
 
 

3月28日(火曜日)

『ストレイト・ストーリー』__デヴィッド・リンチ監督+リチャード・ファーンズワース(79才)+シシー・スペイセク

 デヴィッド・リンチはどうかしちゃったのか? あの『イレイザー・ヘッド』や『ブルー・ベルベッド』や『ワイルド・アット・ハート』や『ツイン・ピークス』などの、どぎつい物語を作っていた監督が、突如、心温まる老人のロードムービーを作ってしまった。ここには、変態はもちろんのこと、悪人も犯罪者も、銃も、車すらも(大きな顔をしては)出て来ない。
 73才の体も不自由になってしまった老人が、10年前に仲たがいしたまま交際の途絶えた、500キロ先に住む兄が倒れたと聞いて、なんとかして会いにいこうとする。しかし、アメリカではあたりまえのようであった、車の運転免許はない。いっしょに暮らしている娘も少々知恵遅れで、老人を送っていくことはできない。そこで──、なんと、老人は、トラクターでいっちまおうとする。しかも、そのトラクターに、トレーラー・ハウスまでくっつけて──。

 唐突であるが、柄谷行人『倫理21』(平凡社)で言う、「自由」というものは、こういうことなんだなー、と思う。親切な誰かの車で行ってしまったら、それは、車社会に支配されていることにもなる。自ら、自由であろうとする「倫理」とは、こういうことなんだ。その老人の生き方は、すべてにわたって、この自由を獲得しようとする、そういう生き方であることがわかる。また、知恵遅れだが、自立している娘(40代くらい)も、主婦の仕事をこなしながら、巣箱なんかを趣味で真剣に作ってたりするのだが、彼女もまた、自由であろうとしているのがわかる。

 そしてこの映画全体が、そういう自由を獲得することを描いてる。

 そんなふうに見ると、リンチは、かつて「変態」を描いていたときも、実は「自由の獲得」を描いていたのかもしれないと思い、なんと「倫理的な」作家だと思った。

 アメリカも、成熟したか、潤って。
 

4月2日(日曜日)

 どーでもいいけど、上記の↑『ストレイト・ストーリー』、村上龍がノベライズしていたんですね。まー……「経済のお勉強」から「ノベライズ」まで、なんでもやりゃーいいと思ってるのか、なんでもできると思ってるのか、自分を全能と思ってるのか……。でも、「ノベライズ」はいいですよねー……、「堂々と」人の作品を「書く」ことができるんだから。そういうのはフツー、下っ端の作家というか、作家以前のライターがしたりするんだけどねーーー……。村上龍がすれば、なんだって「よく見える」か。

 ……って、そういうことが今日の主題じゃないんだって。

『グリーン・マイル』__監督、知らない。主演、トム・ハンクス。原作、スティーブン・キング。

 巷では、「泣く」とか「感動する」とか噂されているが、べつに「泣き」も「感動し」もしなかった。しかし、だからといって、退屈でも、下らなくもない。3時間以上を、飽きさせなく見せる。どんな深刻なテーマを扱っていても、エンターテインメントというものは、そういったもんじゃろー。
 とくに、普段あまり描かれない、「看守の日常」は見せる。それに、"アカデミー・トゥワイス"俳優、トム・ハンクスの演技は、やはり、揺るぎない安定感がある。
 
 

4月4日(火曜日)

 いっとくけど、この場合↑「エンターテインメント」は褒め言葉じゃないよ。

 初心に帰る。初心とは、当然、蓮實重彦の『映画狂人日記』(河出書房新社)を読んで、ものを書くことの姿勢を再確認することである。
 
 帯に「総長襲名後、はじめての映画論集!」とある。なるほどあそこの総長ともなると、山口組の組長にも匹敵するくらいの、なにか「タブー」めいたものがつきまとう。こういう時代には、あまりメリットもなさそうな「仕事」にも思えるから、あるいは、本人は社会奉仕のつもりかもしれない。

 ……などという憶測も働く、相変わらずみずみずしい、かつて、場末の(おそらくは饐えたような臭いを発していたのではないかと思われる)ポルノ映画館に通いつめていた頃と、まったく変わらない文章を目にしたら。

 蓮實重彦は、その文章から私がインスパイアされる数少ない日本の「作家」の一人である。とくに、映画についての文章。文学についての文章はこれより数段落ちる。

 まあ、それは、映画への愛というものなのだろうか? 人はここまで映画を愛せるのだろうか? 誰もが映画について何かを言いうるかのようなこの時代、「映画評論家」であることにはもはや、なんの意味もない。ハスミはとっくにそれを承知である。ゆえに、彼は、「映画評論家」を廃業する。「総長の仕事もあるしー……」とか言って。
 

 実際は、すべてが自宅の一室で事足りるかのようなインターネット時代、「映画評論家」たりうることは、これまで以上のフットワークを必要とする。ハスミは、今までも、フットワークのよい「作家」であった。しかし、「映画評論家」を「廃業」した今、さらにあちこちに出向き、映画と関わっている。映画祭を準備したり、外国の雑誌に執筆したり。

 結局、ハスミ的表現を借りて言えば、いまは「映画評論家」を「廃業」することでしか、映画評論家たりえない時代なのだろう。

 彼の本からは、ある対象への接し方を学んだ。すわなち、それは、「行儀作法」と言うことでもある。東大で上野千鶴子に喧嘩のしかたを学ぶぐらいなら、蓮實重彦に行儀作法でも学んだ方がマシである。

 注記:ハスミと言えば、かつての(たしか5年以上前)二つの「対談」が思い出される。一つは、柄谷行人との『闘争のエチカ』(たしか河出書房新社)と、江藤淳との『オールドファッション』(たしか文春文庫)である。江藤は時代に破れ去り(と私は認識している)、柄谷は、大衆への啓蒙書の装いをまとった『倫理21』を出した。逆説ではなく、東大総長となったハスミがいちばん変わってない、と、この評論集を読むとわかる。この場合、「変わっていない」とは、対象とのスタンスを維持している、という意味である。

  「アフォリズム」にも、『映画狂人日記』から引用しておきました。
 
 

4月9日(日曜日)

 『スリー・キングス』___デイビッド・O・ラッセル監督+ジョージ・クルーニー+マーク・ウォールバーグ+アイス・キューブ

 時代変われば、戦争変わる──。もう「軍」とか、「政府」とか、「お国」とか関係ない。決して戦争はススメられる商売じゃない。しかしそこに戦争があるかぎり、行かねばならないのが、「国民」である。でも、そこへ行っても、生活態度とか性格は変わらない。日本の昔のセンソーは、それを、無理矢理変えてしまったところに悲惨さがあった。
 とくに、マーク・ウォールバーグがよい。『ブギー・ナイツ』でポルノ俳優を演じた時から、なんか、デビュー当時の風間杜夫を彷佛とさせて、素人っぽいような人を食ったような、軟弱な雰囲気がよい。その雰囲気を、ムサい戦場でも維持することによって、ある種の批判になってるかも……と言ったらホメすぎ?
 
 

4月12日(水曜日)

 『NYPD45分署』___なんとかフォリー監督+チョウ・ユン・ファ+マーク・ウォールバーグ。

 上記のマーク・ウォールバーグがまたまた出演した映画。ニューヨークを舞台にした刑事物。しかし、スカッとした高揚感もカタルシスもない。ニューヨークの中華街を仕切るマフィアを取り締まり、住民に安全な暮らしを保証するのが、その地区取り締まりの警察官の役目だが、現実はそうはいかない。そこには個人の事情も絡み、さまざまな現実が交錯する。そんな「現実」を、わりあいそのまま描いてしまった映画。その「重さ」が、メランコリーとなるか。

 中国人たちの「租界」に混じる、「白」一点、マーク・ウォールバーク。白人が主流の映画の中では、むしろ「しょうゆ顔」の彼が、ここでは、妙にバタ臭く映る。いや、ミルクの匂いさえ感じさせる。いや、「しょうゆ顔」とは、あくまで、「和風あっさり顔」という意味で、中華の醤油味とは違う。

 だから、なんなのさ? 結局、メランコリーさえ辛くも排除しているかのように見えるこの映画は、かつてのB級が目指した、ほんとうのハードボイルドかも。
 


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