4月16日(日曜日)
『ボーン・コレクター』__フィリップ・ノイズ監督+デンゼル・ワシントン+アンジェリーナ・ジョリー
「最もミステリアスで冷酷な連続猟奇殺人事件」ということだが、デンゼル・ワシトンって、ベッドで寝たきりの役でもセクシーだなー……と思いながら見ていた。これは、かつての天才犯罪捜査官が、事故で脊髄を損傷しベッドに寝たきりなりながら、自分の「手足」として、やはり天才的な臭覚を持つ、パトロール巡査を使いながら、事件を解決していく、といった趣向になっていて、こうした設定は、『羊たちの沈黙』をも思い出すが、説明が必要な謎解きものには、謎解きの面白さをそこなわず、ドラマとしても自然な感じに見せるよいテクである。
この脚本は、人物たちの背景といい、ドラマの設定といい、よくできているわ、と思う。こういうのは、あちらの言葉では、stereotype と言わずに、templateと言うのか。
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期待は、「ジュリア・ロバーツ is エリン・ブロコビッチ」である。華があるのに、ド庶民をやらせたら右に出るものなしのジュリアは、やっぱり感情移入できるー! コピーも憎い。「ノン・キャリアの意地を示せ」。非行から這い上がって、司法試験に受かりゃいいってもんじゃない。問題は、何かになった、ではなく、何をしたか、だ。
今度ジュリアは、高卒、バツイチ、金なしで、「史上最大の和解金を得た女」を演じます。早く、観たい!
4月22日(土曜日)_4月23日(日曜日)
『フェルメールとその時代』(大阪市立美術館 4/4__7/2)VS.『レンブラント、フェルメールとその時代』(愛知県美術館 4/7__6/18)
と、レンチャンで、絵を見た。この両者の企画は非常に似ている。いったいなんなんだ、ということはさておき、本質に迫ってみよう。こうやって、たてつづけに絵を見ていると、素人でもうすうすわかってくるものがある。それは、「絵とはなにか?」ということである。だいたいこういう企画は、目玉の作家のまわりに、「その時代」の凡庸な作家が配されている。そして、わかってくることは、巨匠と凡庸な作家はどこが違うか、ということである。
凡庸な作家は、「その時代」を写真のように写し取っている。そこには、とにかく、目の前の素材を「写し取る」ことで精一杯で、「表現」、自己の表現にまでは至らない。巨匠、のちに「巨匠」と呼ばれるような作家は、どうしても自分が出てしまう。
その自分とは、なにか、であるが、これは、ある癖、というか、質感、のようなものである。フェルメール(1632__1675)で言えば、右側から差す光、大胆な構図、のようなもの。
また、レンブラントで言えば、光と闇もさることながら、絵の具の積み重ね。
で、どっちが、「積み重ねているか」といえば、やはり、レンブラント(1606__1669)なのである。この「積み重ね(=質感)」は、画集ではわからない、そのために、人は美術館へ出向く。
もとより、人がどんな絵を好むかは、その人の好きずきだが、なんでも薄く、軽く、デジタルになる時代に、気分は、やはり、レンブラントか。
日本画家で言えば、梅原龍三郎(1888_1986)とかさー。
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どーでもいいんだけど、レンブラントは、ファーストネームかあ……
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なんか、すごくためになる日記であることよ。
4月28日(金曜日)
『マーシャル・ロー』___エドワード・ズウィック監督+デンゼル・ワシントン+アネット・ベニング+ブルース・ウィリス
最も成熟した民主主義の国アメリカで、クーデターが起きたら……? しかも、国際テロを利用して軍が国家の支配に乗り出したら……という、発展途上国や政情が不安定な国には、よくあることだが、まさか、あのアメリカで……という大胆と言えば大胆、荒唐無稽と言えば荒唐無稽なストーリーの映画だが、結局のところ、デンゼル・ワシントンのかっこよさと、ブルース・ウィリスのうさん臭さと、アネット・ベニングの「オバサンっぽさ」を描き出しただけだった。
これはそれぞれ、この三人の俳優の本質と言っていい。
しかしそれにしても、やっぱりデンゼル・ワシントンて、いい男だなー……と思いながら映画を見ていた。
映画の題材ゆえに、いろんな民族(とくにアラブ系)が出て来て、エスニック色に彩られるが、なぜか、デンゼルだけは、「エチオピア系か?」と嫌がらせを受けながら、まったくエスニック色を感じさせない。おそらく、ヒーローとはそういう人の言うのだろう。
5月2日(火曜日)
ひぇ〜〜、もう5月かぁ〜〜!!
近頃の気分は、「プロヴァンス」である。「キャトル・セゾン」というフランス雑貨を扱う店(本拠地はパリだって)が某デパート内にあり、足繁く通っている。店内は、それ風の音楽(クレモンティーヌの『クーラー・カフェ』とか)がかかり、ナチュラル嗜好ながら洗練された感じもあるのは、まさにパリ風。で、てっとり早く安価に「おフランス」気分に浸れる(私は)。
ここは、「更新」も頻繁で、どうも毎日ディスプレーが変わるようだ(昨日、今日と続けて行ったのでわかった(笑))。石鹸から食器、文具、インテリア小物、家具まで、およそ「暮らし」に関係するものが揃っている。
んで、そういうものを、必要と気分(こっちの要素の方が大きいが)に合わせて、テキトーに仕入れる。
今日は、フォークとラベンダーの石鹸と風呂敷大のインド綿のオフホワイトのクロス(積み上げた衣類などにかける目隠し用に使う)を買った。
そのあと、外の広場にあるエスプレッソ・バー(「メニュー」の写真参照)でカプチーノを注文して、外のテーブルに座れば、気分は「プロヴァンス」である。もう日が落ちかかるっていうのによオ。
そして、気分は、フローベールの『L'education sentimentale』である(なぜか『感情教育』とは言いたくない。誰かがそんな題の(おそらく)俗っぽい小説書いていたしー。ふんと、ミルトンの『失楽園』といい、かけはなれた小説に古典の題つけるのやめてくれるー?)。
風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける
……なんつって(自分だけよがってる)。
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註:パリなのに、なんでプロバンス?__パリ人は、「初夏を感じる」と、「プロヴァンス」風な気分(バカンスとかに思いを馳せて)になるんよ(私見ですが)。
5月3日(水曜日)
『アメリカン・ビューティー』__サム・メンデス監督+ケビン・スペーシー+アネット・ベニング
アメリカの知性なんてこのテードのもんかぁーーーって、映画。確かに作品としての欠点はない。欠点がないからといって、おもしろいとはかぎらない。オープニングの語りから、すでに「どこかで見たことのあるような」感じ。登場人物のひとりひとりも確かにていねいに描かれている。しかし、そのひとりひとりが、すでに、「どこかで見たような」キャラクターなのだ。
こういう映画を「プレゼンツ」する、ドリームワークスの総元締スピルバーグの作品そのままに、卒はないけど、イマイチ新鮮さに欠ける一作である。
たしかに、ケビン・スペーシーとアネット・ベニングの演技はうまいが、今さらそういう演技を、映画の評価に結びつけて喜ぶウブな観客はいまいて。
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ドイツの発泡性白ワイン、シュラー・シュワルツ・カッツ・ゼクトを飲んで寝ちまう。
註:発泡性ワインは、ぜひ、フルートと呼ばれる縦長のグラスで飲もう。「味」が全然ちがう。このGustav Adolf Schmitt社の製品は、色も白っぽく透明で、「甘口」ながら、すっきりとしていて、「粗食」に合う。
ドイツの発泡性ワインはSekt(ゼクト)と呼ばれ、フランスのは、Vin Mousseux(ヴァン・ムスー)と呼ばれ、Champagne
地方のものだけ、Champagne(シャンパン)と呼ばれる。
5月4日(木曜日)
『ザ・ビーチ』___ダニー・ボイル監督+レオナルド・ディカプリオ
やっぱり、ディカプリオは天才か。出る映画出る映画、どれも外さない。彼が出演した映画で、凡庸な映画はひとつもない。
その彼を主演に選んだ、ダニー・ボイルの感覚もすばらしい。この作品は、彼なくしては成立しない、とは言わないけれど、表現しにくい。
いわゆる「プロ」と自認する「映画評論家」の批評をまだ読んでないが、わが友ハギオさんの「報告」によると、マスコミで批評を発表している評論家たちの間での評判はよくないようである。なんでも、「汚いだけ」「めちゃくちゃ」「でたらめ」……とか。
かわいそーに……。それらの評論家の方々は、アタマが時代に完全に取り残されていると見える。辛くもハスミちゃんが指摘するように、もはや、そういう「職業」はオワリかもね。
この映画は、もし「今」という時代に「物語」を語る語り口があるとすれば、こういうふうなのよ、という映画である。
出だしからして非凡なことはすぐわかる。それが「見えない」あんた(=映画評論家)はもう廃業したら?
5月5日(金曜日)
『ハーモニー・ベイの夜明け』___監督……知らない+アンソニー・ホプキンス
どーでもいいが、アンソニー・ホプキンスは、そんなに金に困ってるんだろうか? なんか「出過ぎ」じゃないか?
始まって30分くらいはオハナシが見えない。果たして、ドナルド・サザーランドはいい者か悪者か? キューバ・ガッティング・Jrは、二番目に名前が出ていたので、そう悪い役ではなさそうだが……。
そのうち、これは、船戸与一風の冒険ものかと思っていると、突然ゴリラの生態なんかが出てエコロジー風なものに変わってしまう。
結局、もと人類学者のアンソニー・ホプキンスが刑務所(=「ハーモニー・ベイ」)から逃亡して、映画は終わった。
つづきは、『ハンニバル』を見てねん、ということなのだろうか?
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自分からは滅多に電話して来ない母親が電話してきた。なにかと思ったら、「I love you という題名のメールを開いたらコンピューターが大変なことになるって、いま、『ニュース・ステーション』で外人のひとがしゃべってるよ。ハルちゃん、テレビ見ないから言っといた方がいいかなと思って」
それを妹に言ったら、「あのバーサン、ただ者じゃないね」だって。
実はその前の、「バスジャック」事件も母親に電話して知ったという次第であった。
5月8日(月曜日)
『シャンドライの恋』__ベルナルド・ベルトルッチ監督+サンディ・ニュートン+デヴィッド・シューリス
蓮實重彦曰く、「20世紀最後の『生意気』な芸術家だったかもしれない」ベルトルッチの最新作。まずは、蓮實のそのあとに続く言葉を引いてみよう(『映画狂人日記』より)。
「実際、21歳で『殺し』を発表した彼は、映画後進国イタリアを完璧に無視し、自分はフランスのヌーヴェル・ヴァーグの一員だといいはって、あらゆるインタヴューをフランス語で通したという。何という『生意気』だろう。しかも、それを滑稽に見せないだけの実力がベルトルッチにはそなわっていた」
私も、ベルトルッチがフランス語でインタヴューに答えているのを、その昔、NHK教育で見たことがある。
たしかに、この最新作を見ても、ベルトルッチが、「ヌーヴェル・ヴァーグの一員」であることがよくわかる。それは映像によく現われている。
カメラの非凡なアングル。対象を撮る距離が、「ビデオ」を思わせる。実際は手持ちカメラで撮影したと言う。このようにして、恋愛という実は、不定形なものが、しだい形成されていく過程が描かれうる。
実際、ここに描かれているのは、ごく普通の男女の恋愛である。しかも、それが完全に成就されるためには、男女はインテリでなければならない、と、ベルトルッチはよく知っている。
どこかのテレビドラマでやっている紋切り型の「恋愛みたいなもの」とはわけが違う。
ひょっとして、これは、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』と対をなすものなのかもしれない。
女はアフリカ人である。それがなぜかイタリアにいる。しかも既婚。しかも夫は自国で政治犯として捕われの身。しかも、自分は、ある屋敷に住み込みながら、医学生として大学に通っている。センスも頭もルックスもいい。
普通、われわれは、ヨーロッパにいるアフリカ美人といえば、スーパーモデルしか思いつかない。しかし、この女性は、あくまで普通の女なのである──。
男は、叔母の遺産である、ローマの邸宅に住むイギリス人。仕事と言えば、子供たちにピアノを教えている程度。
そういう男女が、雇い主とメイド、という関係で、出会ったのだが……。話は、きわめて知的に展開する。
まったく「生意気さが滑稽に見えない」堂々たる芸術作品。