6月2日(金曜日)
『ドゥルーズの哲学』(小泉義之 講談社新書)____これまで、いたずらにドゥルーズの著作を溜め込むばかりで、なかなか「立ち向かう」機会も意欲もなかったが、これを読み終えた今こそ、その時期であるような気がした。
よく詩人や評論家が、「ドゥルーズ」からのなにがしかを引用しているのを目にする。そういう人たちは、「ドゥルーズの哲学」がほんとうにわかって引用しているのか? これを読む限り、いったいドゥルーズが何を主張しているのか、わからず、またわかろうともせず、ただ単に、「それを援用するとかっこよさそうであるから」しているにすぎないのがよくわかる。
正直言って、私自身も、「自分にとって必要な著作家」ではあろうと漠然と思っても(思うから、著作を買い集めていたのであるが)、いったいどういう「思想」なのか、わからずにいた。
では、彼の哲学とはどのようなものか? それは、人生の「『問い』を『問題』に切り替え、『答え』を『解』に切り替えて」解いていくことによって、思考できないものを、思考しようとする哲学である。その際に重要な概念はは、微分である。
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この書は、簡単な体裁の「入門書」であるが、おそらくこれまでのどのドゥルーズ解説書より、よく書かれていると思われる。二十年前なら、さしずめ、「エピステーメー」なる叢書から出たであろうような本が、「講談社新書」から出ているのは、それだけ時代が「進歩」したものと思われる。
東浩紀の「デリダ論」より、ひょっとしたら、できがいいかもしれない。
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余談であるが、何年か前(正確には、1995年)、ドゥルーズが、生命装置をつけて寝ている部屋の窓から飛び下りて自殺したことを伝える新聞記事を読んだことを覚えている。本書でも、それに関する記述が終わりの方に出てくる。それによれば、「自らの手で人工呼吸器を外し、窓から路上に飛び下りた」そうである。必然的に、同じように人工呼吸器をつけ、他人にその死の権利を握られ、政治にさえも利用されて逝った、どこかの国の元首相の、ぶざまな死と比較され、ますます、ドゥルーズの思想がわかるように思った。
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『ミッション・トゥ・マーズ』___ブライアン・デ・パルマ監督+ゲイリー・シニーズ+ティム・ロビンス
学芸会。
6月4日(日曜日)
『ドゥルーズの哲学』を読んだら、急に数学の勉強がしたくなった。上記本によれば、ドゥルーズは、誰でも数学を勉強する権利はあるし、数学はべつに、特殊な専門家のものではない、と言っているようだ。
そんなこともあろうかと思い、18年前に買っておいた本があったんだよ。
岩波「数学入門シリーズ2」『微積分への道』(雨宮一郎著、1982年刊)
この本の「序」を読んで驚いた。
「数学は外界の事物の考察にともなって行われる思考であり、しかも、あらかじめ一定のことがらを学習した上でそれを適用するというのではなく、その考察の中から生まれて来るのが本来の姿である」と、ドゥルーズと同じようなことを言っているのである。
「この本来の姿は『数学』という改まった意識なしに遂行される日常的な思考にあわれていて、どんな数学も日常的な思考の延長上にあることを見きわめようとすることが、数学の了解に至る道である」
「ここで『了解』という言葉について一言のべておきたい。われわれは非常に多くのことを了解しているが、通常、何を了解しているかという意識がともなっていない。そこでたまたま了解の欠如している事柄があるとき、その欠如もまた意識しないのである。『数学』は歴史的な事情でそのような事柄の一つになっている。そのため、表面的な知識を求める学習が全体的な了解がないままに行われ、ある程度熟練した後でもなお了解を欠いていることが多い」
「ある事柄についての了解と、その事柄における修練とは、全く別のことである。動物の調教の場合のように了解を欠いた修練もありうるし、修練しなくても了解が可能である」
「数学の修練は、数学を用うる仕事に従事するものでなければ、不必要なことである」
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たとえば、受験のための数学と生徒の選別のために、なんと、われわれは、数学を学ぶことを奪われていたのである。
いま、読みはじめてみると、すごく「わかる」のである。この本は、すぐれた数学入門書であった。
高校時代の、数学はできるが、なんかあまり頭よさそうもないやつというのは、調教された動物だったんだなー……とか。
6月6日(火曜日)
6日付「朝日」夕刊(西部版)で、浅田の彰が、最近日本で公開された、ゴダールの『映画史』について書いている。この作品は、何年か前、NHKBS で全部ではなかったかもしれないが、放映され、私はビデオにとって持っている。
「(……ヌーヴァル・ヴァーグ以後の多くの映画作家たちが引用とパロディーを繰り返しながら徐々に衰弱していくなかで、なぜゴダールだけがそこ(野心的な超大作である『映画史』を撮るところまで)まで行き着けたのか)しかし、まず思い出しておくべきは、60年代末から70年代初めにかけて、もっとも過激な実験を敢行し、その代償としてもっとも過酷な衰弱を強いられたのが、ほかならぬゴダールだったということだ」
上のような浅田の文章を読むと、以前なら、感動もし、感心もしただろうが、なんかなー……ワンパターンなんだよなー、「レトリック」がー。
同じ文体というより、書き手から伝わる、一回性でしかあり得ないような「雰囲気」が、デジャビュ感を拭えないって感じ。
やっぱりこの人の時代は終わったのかなー? なんのかんのいっても東の時代なのかなー? 「書き手」としての態度は、絶対、東の方が新しいもんねー。
『映画の世紀末』は買わなくてもいっかー。
6月7日(水曜日)
『オール・アバウト・マイ・マザー』___ペドロ・アルモドバル監督+セシリア・ロス+マリサ・パレデス+ペネロペ・クルス
アルモドバルはある種の表現を抑制しない。いくらなんでもこのへんで止めておいた方がいいだろう、という「良識」とは無縁だ。気持ちのいいほど、突き抜けてしまう。しかし、ハリウッド映画ならきっとリアルに描くに違いない映像を省略する。かくして……
大胆にして繊細、残酷にして心暖まる、まさに来るべき21世紀に、われわれが見たい、映画ができる。
主役のアルゼンチン女優、セシリア・ロスの知的で、温かい、母性そのもののような感じがよい。
ゲイを甘く見ている日本のある種の女流作家は、ゲイにも「恐いゲイ」がいることを認識すべきだ。もちろん、「かわいいゲイ」もいるけど。
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手許にあるDeleuzeの原書といったら、十数年前に買った『L'image-mouvement/Cinema1』しかないので、とりあえず(bol.frで何冊か注文したが)、それを読み始める。
以下、「序文」から。あんまりよい訳ではないけど。
"Nous ne presentons aucune reproduction qui viendrait illustrer notre texte, parce que c'est notre texte au contraire qui voudrait n'etre qu'une illustration de grands films dont chacun de nous a plus ou moins le souvenir, l'emotion ou la perception." (Gilles Deleuze "L'image-mouvement Cinema1" Les Edtions de Minuit, 1983)
「われわれは、このテキストに挿入されるかも知れないいかなる映画の写真も挿入しない。なぜなら、偉大な映画について、われわれ自身が多かれ少なかれ持っている記憶や感動や感覚の映像だけを挿し絵として望むのが、むしろ、このテキストなのだから」
6月11日(日曜日)
『インサイダー』__マイケル・マン監督+アル・パチーノ+ラッセル・クロウ
アメリカには、ちゃんとした「ジャーナリスト」がいて、ちゃんとした「ジャーナリズム」が存在するから、「闘い」もあるのだろう。
それに比べて、日本で、自分はジャーナリストだと信じている人々のほとんどは、単なる「文化ゴロ」だったり、「芸能人」だったりする。
それにしても、この映画の、タバコの毒に関する報告は、真実なんだろう。「毒」とわかっているのに、「売り」続け、「買い続け」、「吸い続ける」という世の中というのは……???
最近、気骨ある硬派の役が多いアル・パチーノであるが、かっこいいと思わせるなにかを持ったオジサンである。
印象に残った台詞は、二人の主役の台詞ではなく、アル・パチーノとともに、硬派の報道番組を作ってきた老インタヴュアーの台詞である。彼はこれまで、数々の貴重な人材とのインタヴューをものしてきた、アメリカにはよくいる名物記者なんだろうけど、この映画の題材となる、タバコ業界がマスコミにかけた圧力に屈する。
そういう自分が勤めるテレビ局の内部事情を『ニューヨーク・タイムズ』に流してまで、闘い抜こうとするアル・パチーノに向かって言う。なぜ妥協したかを。
「余生をラジオのパーソナリティーで送りたくない」
日本だと、「ラジオのパーソナリティー」でも、ジャーナリストだと思い込んでいる人々がいるもんね(合掌)。
6月14日(水曜日)
以前、ベゾスが送って来たノベルティーのコーヒーマグは、使い方がイマイチわからなかった。二重になったプラスチックのコップに蓋がついて、蓋には穴が二個開いている。一個は、一段低くなった面に縁に沿って細長く開いていて、もう一個は、空気抜きのような小さな穴だ。
しかし、↑『インサイダー』を見たら、アル・パチーノが、これと同じ種類のカップを使っていたのである。たしか、公衆電話ボックスの上かなんかにおいて、書類を見ながら、片手でこれを口にやっていた。
要するに、パソコンなどを使いながらとか、仕事しながら飲むのに適したように作られていて、これならこぼれにくく、冷めににくい、というわけだ。
いかにも仕事してる感じがかっこいいのですぐ真似た(笑)。いま(6/16 午後12時30分頃)もこれでコーヒーを飲みながら書いている。
しかし、普通のカップで飲むと違って、味も香りもない、のが難点である(苦笑)。

6月15日(木曜日)
フランスのインターネット書店、bol.frより、大荷物が届く。中身は、
Initiation au Grec ancien 98,00
L'anti-Oedipe 156,00
Diotionnaire Grec/Francais 86,00
La Carte postale 200,00
送料 69,00
合計 582,00(フラン)
いま、フランは下がりに下がって、1フラン=15円くらい。お買得。
6月17日(土曜日)
『グラディエーター』___リドリー・スコット監督+ラッセル・クロウ+フォアキン・フェニックス
予告編を見て期待してしまったのだけど、ちょっと外れた。リドリー・スコットは過渡期の人か。
この映画は、今ではあんまり見ることがなくなったもの、「人望」を描いていて貴重なのだが……。
やっぱりローマ帝国を描くなら、ラテン語でやってほしかった、とか。
ラッセル・クロウは鼻の形がいい、とか。
6月18日(日曜日)
『マン・オン・ザ・ムーン』___ミロシュ・フォアマン監督+ジム・キャリー
予告編では、『フォレスト・ガンプ』みたいな臭い愛の物語なんだろう、と思ったが、意外に洗練されていた。
うーーーん……私の芸も新しすぎて理解されない、と思った。
6月22日(木曜日)
『サマー・オブ・サム』___スパイク・リー監督+ミラ・ソルヴィーノ
予告編を見たときは、あのスパイク・リーが方向転換し、ついにスリラーというかサスペンスものをやるのか、と「期待」させたが、実際はそうではなかった。
「2000才の犬が殺せと、私に命令する」とキャッチ・コピーにあったので、そういう話かと思ったが、そういう殺人鬼は出るには出るが、なんと、その殺人鬼が狂言まわしであったという、すごい発想といえば発想の映画である。
やー……この人は、やっぱり社会派でした。
6月28日(水曜日)
何日でもいいや↑ってかんじ。ほんとに、時はあっという間に過ぎてしまう。なにしてたわけでもないのに、このサイトを更新する暇がなかった。なんでだろ? それなりの準備がいるからか。常に知的な話題を提供せねばっていう……。
今日はぐっと生活じみて、梅の話題。年上の友だちの城さんが、梅を山ほどくれた。というのも、彼女は、山口県で梅園をやっているのだ。今年は豊作であったとか。梅もまるまる肥えている。私の母にも5キロほど送ってくれた。
彼女は「1トンでもあげるよ」と言ったけど、私の処理できる能力として、梅干し用2キロと、梅酒用2キロ、ぐらい。写真は、「脂ののった梅」(梅酒用には、少し色付いているが、梅酒にした)。梅には、いろいろなレシピがあるが、なんせメンドーなので、常備食の梅干し以外は、梅酒にしてしまうのである。
この写真を見ていると、熟したオリーブの実を連想する。オデュッセウスが食べていたのは、こんなんじゃなかったのかねー?
なお、この梅は、無農薬ゆえ、斑点がある。あ、そういや、去年は、くず梅をもらって梅干し作ったが、高級梅よりおしかったと城さんにほめられたのだった。
梅干し作りのバーサンにでもなるか。
6月29日(木曜日)
『ザ・ハリケーン』___ノーマン・ジェイソン監督+デンゼル・ワシントン
ボクサーというのは、なんか知的な雰囲気からは遠い感じがして、デンゼル・ワシントンがボクサーを演じると聞いても、いまいち気乗りがしなかったが、さすが、デンゼル、これは、知の勝利の話であった。人種偏見がまかり通る時代のアメリカで、貧民街に生まれた黒人の少年は、自分を守るために、また自由を手にするために、おのれの肉体を武器にするしかなかった──。
と、それはまだ、序の部分で、これから語られる物語は、まったく予想外の展開を見せる。
演出もうまい。配役もよい。「紅一点」(よく考えたらそうではなかったが)、デボラ・カーラ・アンガーのクール・ビューティーぶりが心地よい。21世紀の美女はこんな感じ?
6月30日(金曜日)
気温32度。梅雨の晴れ間はいいけれど、ひぇーーー、今日で6月も終わり? まだお年玉付き年賀状の当選番号調べてない……。