金色日記 Diary in Gold


7月4日(火曜日)

 『橋の上の娘』__パトリス・ルコント監督+ダニエル・オートュイユ+バネッサ・パラディ

 冒頭のインタビュー・シーンは「額縁」のようで、この物語のリアリティを殺ぐような感じがしたが、ま、わからないでもない「恋愛物語」である。

 男は中年のナイフ投げの曲芸師、女は男運の悪い若い女。どうみたっておしゃれな恋愛からは程遠い設定であるが、フランス人は、いつも、どんな階級の人間でもおしゃれな恋をする権利はあると言っているようだ。

 「橋の上」から川に飛び込もうとしていて、ナイフ投げにスカウトされた若い女と、ほんとうは自分が死ぬつもりだったのに、その女の中に「運命」を見た中年男は、ナイフ投げと「的」という「関係」を結びながら、つまりは命を預け、預かり、という関係を結びながら、キスさえもしない……二人は真に燃えるのは、ナイフを投げ、投げられる瞬間……そこには普通のセックスを越えた官能の共有がある……

 しかし、残念なことに時代は急速に変化している、愛さえも変化する。……つーことなのよ(合掌)。

7月5日(水曜日)

 上↑の映画で、中年男と若い女が、離れた場所にいても、「会話」しあう。それは愛しあう者同士の意識を表わしていて、ステレオタイプと言ってしまえばそれまでだが、われわれが日常に見い出す「真実」でもある、なー……

 なんてことを考えると、だんだん、あの映画がよいように思えてくる。

 あるときは、「仕立て屋」だったり、あるときは、「髪結いの亭主」だったり、要するに、しょーもない男たちばっかりで、それでも、恋する権利はあるどころか、愛する能力は「外見」とか「職業」「身分」ではないんだと、ルコントは言っているようで、社会的エリートが恋愛の主人公になりがちなアメリカ映画とは一線を画した、いかにものフランス映画だ(と、なぜか、感想が二日にまたがる)。

 結論__男の魅力は、全身全霊で女を愛することができるかどうか、かもね()。

7月7日(金曜日)

 これを書いている7月8日は、私の誕生日である。といっても、もはや、この年になると、全然どうでもいい。できることなら、人に気づかれたくないくらいであるが、自分かわいさのあまり、こうして喋ってしまうのである(笑)。

 まあさ、それを「記念」して、ひさびさにプロフィールの写真を変えた。なんかやさしそうなオネーサンではないか(笑)。

 私はかねがね思っているのだが、あの「掲示板」とやらね、あれに、書き込み者の写真を「添付」するようにしたらどうだろうか?

 「ケッ! こんなチンケな野郎だったのか!」とか、「ジーサンだから許してやろう」とか、「まー、間抜けな顔してるから、言うこともあんまり気にならんな」とか思って、無駄な諍いとかもなくなるんじゃないかね? もっとも「書き込み者」も激減するだろうが(笑)。

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 いま、エステーローダーの新しい口紅、ピュアピュアを買うと、マニキュアがもれなく一本ついてくる──。左の(ホンモノの(笑))オネーサン↑のニットの制服は、キャンペーンのためのもので、なんと、濃淡3色、3枚を支給されたのだとか。

 「もらったんなら、プライベートでも着れるね」と、私が言うと、懇意にしている美容部員の糸川さん↓が

手を大きく横に振ってみせたのであった。彼女は美容部員に似合わず、清楚、正直、率直、しかし、美容部員なので、当然容姿は端麗である。

 なんで急にこんな写真を撮ったかというと、ピンク色がほんとうに瑞々しくきれいだったのである。それに、光もやさしく、写真日和であった。


7月8日(土曜日)

 『サイダーハウス・ルール』__ラッセ・ハルストレム監督+ジョン・アーヴィング原作・脚本+トビー・マグワイア+マイケル・ケイン

 あちらの人はなんでこう、配役がうまいのだろう。もうこの人なくしては、この映画のイメージはあり得ないというふうに配役する。そして映画のできはほとんど配役で決まってしまう。

 ある映画が自然なら、それは、そこに出ている俳優が、自然である、ということである。

 孤児院で生まれ育ち、自己のアイデンティティー確立のために、いったんはそこを飛び出し、りんご農園で働く主人公のホーマー役のトビー・マグワイアしかり、彼を愛する医師のマイケル・ケインしかり、豊満さと無垢を同時に出せる女優、シャーリーズ・セロンしかり。

 かてて加えて、孤児院の子どもたち。なかでもリーダー格の少年は、『マイ・フレンド・メモリー』で子供ながら、兄と同様に芸達者ぶりを見せつけた、マコーレー・カルキンの弟、キーラン・カルキンが印象的である。

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 なんか誕生日が過ぎると、いっきに年とってしまったような感じだな。


7月9日(日曜日)

 『ゴドーを待ちながら』___サミュエル・ベケット原作+串田和美演出+緒形拳+串田和美(於:西鉄ホール)

 大袈裟にいえば、1953年のパリ初演以来、膨大な数の解釈があったであろう『ゴド待ち』を、串田は衒いなく、ほぼ原作どおりに、しかも「わかりやすく」演出していた。

 これによって、「時間」とか「存在」といった主題が明確に見える。

 新国劇出身の緒形拳も、やはり、フツーの舞台人のように、一度は『ゴド待ち』に挑戦したかったのだろうか?

 しかしながら、この人は、意外にも、演技がそれほどうまくなかった。

 しかし、それゆえ、変にスレたところがなく、悪い印象はしなかった。

 主役の二人の「浮浪者」のほか、「サド・マゾ」コンビ(?)のポッツォーとラッキーを演じる役者も、「面を取ってみれば」、串田、緒形よりはるかに若いようであったが、こちらは芸達者で、面白いものだなーと思った。

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 実は私も、『ゴド待ち』を演出したくなっちった。


7月10日(月曜日)

 萩尾さんが2月だかに極秘でいった(だったら、死ぬまで黙ってろよー!(笑))スペイン旅行のおみやげ、「サフラン」を使って、「パエリャ」を食べるパーティーというのをやった。

 私って、見かけによらず、もてなし上手。というか、パーティー仕様が得意。しかも、手抜きで(笑)。

 今回も大幅手抜きパエリャであったが、萩尾さんと城さんは大満足。

 一年に一度くらいは人を呼ぶのも、大掃除ができてよい(笑)。

 BGMはショパンをかけていたら、「もっといい音楽ない?」と萩尾さん。なつかしのラブソング集を出してやると、「あー、これがいい!」。最初にかかった、「アンチェインド・メロディー」(例の『ゴースト』でも流れたやつ)に、「もー、これだから、やるせないわねー」と、二人ともうっとり。簡単に酔える者は幸いなり。

 食うのに夢中の萩尾(左)、城さん。手前の鍋にパエリャ(らしきものが)。

 掃除と料理に疲れた筆者(右)、お金持ちマダム風の城さん。手前に見えるは、赤ワインをおいしくするカラフ、あるいは、デカンタ。

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この頃、やけくそで写真を載せているな(笑)。DTIも15MまでOKになったしー。



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