8月1日(火曜日)
松浦寿輝『花腐(くた)し』(講談社 2000年8月1日刊)____表題作「花腐し」に、「芥川賞受賞第一作特別書き下ろし新作」「ひたひたと」を加える。前者が400字詰め原稿用紙にして130枚くらい。後者が50枚ちょっと。……つまり、芥川賞をとったので、一冊の本には満たない枚数を無理矢理本にしちまった、という、べつに珍しくもない造りである。
「花腐し」だけ読んでみた。これは、初出が「群像」2000年の5月号で、やはりどう見ても、芥川賞狙いの作品である。誰が狙ったかは、べつとして。内容も、バブル崩壊後の経済状況、インターネット、一時騒動になったような気がする例の「幻覚きのこ」、新宿という無国籍化した都会……などの題材を鏤め、さらに古典の教養をさりげなく挿入し、こなれた日本語で「読ませれば」、これはもう、芥川賞をあげないわけにはいかない。
正直言って、前半、というか、かなりの部分まで、おそらく5分の4くらいまでは面白かった。しかし、主人公の栩谷(くたに)が、酒に酔ったすえ、幻覚のなかで少女と交わる場面からなんか興醒めというか、そーかー……これは、そういう作品だったのかー……と、「かたち」が見えてしまい、がっかりした。その「かたち」というのは、具体的な生活であったものを抽象的かつ叙情的なものに還元してしまう、「日本の純文学」に流通しているかたちである。要するに、古臭いのである。
途中までは、これは、ラッセル・クロウ主演で映画化できるぞ、とか思ってたのに(笑)。
主人公の名前も「くたに」で、「くたし」にかけてあるのか? こういった作品の場合、あんまり意味ないような気がするが……。
表題は、万葉集の巻十の「春相聞」から取ったようだ。作中にも、わざとらしく、とても万葉集など読んでいるとは思えない男の口から、「……春されば卯の花腐(くた)し……って、万葉集にさ」などと出てくる。正式な歌は、
春さればうの花ぐたしわが越えし妹が垣間(かきま)は荒れにけるかも
訳は、
「春が去れば、卯の花が腐る五月雨の季節がやってきて、私が恋人に逢いにいった卯の花の垣根も荒れてしまうであろう」
卯の花は垣根に用いた。また、「卯の花腐し」というのは、「五月雨」の異名である。
……んー……だから丸谷才一の気に入ったのか? まあともかく、検定試験にパスしておめでとうございます、というような作品である。
8月4日(金曜日)
バレエのレッスンが終わったあと、城さんたちに、「過去日記」の彼女たちの映っているやつとか、「夏休み日記」を見せてやろうと、その近くにあるネット・カフェ、というか、「エスプレッソ・バー」なんだけど、パソコンが5、6台置いてあるところへ行く。
ここはガイジンもよく来ていて、キーをがちゃがちゃ叩いているのが見受けられる。
今日はすいていた。なかに一台だけiMacが置いてある。Win、Mac、どっちでもいいのだが、あいてるときは、iMacを選ぶ。
はたして、自分のサイトを表示させようとして、ひょっとして前にブックマークしたのが残ってるかしら? と思って、「Favorite」(ブラウザは英語版のIE 5.0だった)を見ると、「Vivre sa vie」が残っていた。それも二つも(笑)。
お店の人にも、「見てね」とかゆっといたのだった。ネット・カフェのパソコンを私物化しちゃあいかんて(笑)。
この頃、当地でもぞくぞくとネット・カフェができている。
フランスの「Liberation 」のニュースレターでも、世界の果てにあるインターネット・カフェ(サイバーカフェともいう)を紹介していた。オーストラリア、ラオス、ネパールなどの。
ネット・カフェの活用といえば、私はいつも、この「日記」でも紹介したディカプリオ主演の『ザ・ビーチ』を思い出す。あの映画はネット・カフェで終わる。あの終わりがとても気に入っている。
8月5日(土曜日)
『パーフェクト・ストーム』__ウォルフガング・ペーターゼン監督+ジョージ・クルーニー+マーク・ウォールバーグ+(なつかしの)ダイアン・レイン
三つの嵐が重なった史上最大の嵐のなかに、たまたま乗り出してしまったカジキ漁船はいったいどうなるのか──?
海で働く男たち+女たちの様子が力強く描かれ、ひさびさに現れた「労働者」映画である。
ウォルフガング・ペーターゼンは真にハードボイルドな監督である。海ったって、ひとかけらの感傷も滲ませない。
ハリウッドのほかのエンターテインメント映画のように、カタルシスももたらしてくれない。
なんたって、『LA 大捜査線__狼たちの街』で、「まさか」と思う間もなく、主役を途中で殺してしまった監督である。あとはおして知るべし。
8月6日(日曜日)
『リプリー』___アンソニー・ミンゲラ監督・脚本+マット・デイモン+グウィネス・パルトロー+ジュード・ロウ
あー、あたしも誰かを殺して、贅沢な生活を満喫したいー(笑)。
オシャレだし、イタリアの風物はふんだんだし。だけど、そのほかにいったい何があるの?
新聞に載ったインタビュー記事によると、監督・脚本のミンゲラは、アラン・ドロンの『太陽がいっぱい』と自作を比較、「ドロンのような風貌の男が、他人の人生を欲しいと思ったりしますかね?」と答え、そのときは、「なるほど、言えてる」と、私も思ったのだが──。そして、おそらく、ミンゲラ作の方が、原作には近いんでしょうけど……。
やっぱり、イタリアの太陽には、ドロンの美貌が似合うし、犯罪もああいう絶世の美男がしてこそ、美しい、というか芸術としての価値がある。
マット・デイモンの小賢しい犯罪を見ていると、なんか私にもできそう──、という冒頭のような不謹慎な感想を抱いてしまうのであった(
)。
8月7日(月曜日)
町田康『きれぎれ』(文藝春秋 2000年7月10刊)___表題作「きれぎれ」(初出、「文学界」5月号)に、「新潮45」連載の「人生の聖」を加える。400字詰原稿用紙換算(いつまで、こういう「換算」が意味を持つのだろう? たぶん、「芥川賞」が存在するかぎりは……)、前者、140枚ちょっと、後者、120枚くらい。「きれぎれ」だけ読んだが、ちらと見たところ、「人生の聖」も似たようなものであった。もちろん、まだ、「芥川賞受賞!」の帯はついてないやつ(笑)。
こういうことをやっていると、しだいに見えてくるものがある。それは、日本の現代文学の特殊性である。長くてせいぜい150枚ぐらいの作品が、文芸誌に載り、それが「作品」として取りざたされる。
もちろん、「焦点」は、「芥川賞」に合わされている。一応「短編賞」だからね。
そして、内容も、いかにはめを外したような文体で書かれていようと、まるで課題テーマを処理しているような感さえある。つまり、前に書いた松浦寿輝「花腐し」と、町田康「きれぎれ」は、同工異曲といってしまってもいいくらい似ているのである。
本作も、石原慎太郎が喜びそうなくらいには、「教養」が過不足なく鏤められている。
ま、本作を5等分して、2/5から4/5までは面白かったけどね。
文体は笙野頼子系か。こういうのは存外、日本の文学者には受けるんだな。
8月9日(水曜日)
『TATARI(タタリ)』__べつに監督名はどーだっていい、みたいな映画+ジェフリー・ラッシュ+ファムケ・ヤンセン
なんかホラー映画専門のプロダクションの第1回作品てんだけど、いいのかねー……こんなのつくちゃって。だって、舞台はもと、精神病院だった建物で、そこではかつて、気が狂った職員たちによる患者の生体実験が行われていた……というんだけど、70年後に、その建物に、さる酔狂な人間が妻の誕生パーティーに客を招いて、「一夜を過ごし、生き残った者に一億円やる」とかゆーんだけど……。
ちょっと前にあった、『ホーンティング』とまったく同じで、建物自体が呪われている(この映画の原題も『呪われた丘の家』とかゆーんだけど)というハナシ。
気持ち悪いだけで全然恐くないドタバタに、あの名優(と言われる)ジェフリー・ラッシュが主演している。……よほど金に困っているのか、それともそういう「趣味」があるののか……。
8月12日(土曜日)
訂正__8月1日日記↑、松浦の『花腐し』について、「だから丸谷才一の気に入ったのか?」なんて書いちゃったけど、丸谷センセイは、「芥川賞の選考委員」には、入ってらっしゃいませんでしたね。
8月13日(日曜日)
『英雄の条件』__ウィリアム・フリードキン監督+トミー・リー・ジョーンズ+サミュエル・L・ジャクソン+ガイ・ピアース
いやー……フリードキンは、私のテーマなんだけどねー……。
なんたって『フレンチ・コネクション』だからねー。この映画にもそれっぽさは、残っている。ただ設定が、「警察」から、「軍隊」に移ってるだけ。でも、「軍隊」を扱うのは、難しい。「軍隊」でハードボイルドやると、リベラルの賛成を得られないかもしれない危険を孕む。でもやってしまった。
この映画のテーマは、極限すれば、武器を持った子供が立ち向かって来た場合、果たして、相手は子供だからと、殺されるがままになるのか? ということ。(普通の状態ではなく)"It's combat"(「戦闘状態だったんだ」)というセリフが何度も出て印象に残った。
*
ガイちゃんが、「エイズ」みたいに痩せちゃって……。
8月17日(木曜日)
『TAXi2』___リュック・ベッソン製作・脚本+ジェラール・クラヴジック監督+サミー・ナセリ
フランス人というのは、徹底して権力と言うものが嫌いだ。もちろん、フランスにも権力志向の人間はいるが。
こういう「フランス版スピード」でも、周到に権力は遠ざけられる。主人公のタクシー運転手は、どんなにかっこよくても、決して、「エリート」や「体制」の側に行ってしまうことはない。
つまり、この「007」は、あくまで、個人として、やっているのだ。そこがすばらしい。
警察も政府も軍隊も、徹底的にオチョクられてるし。
1時間29分、No CGは、すがすがしい。
8月20日(日曜日)
楠見朋彦『マルコ・ポーロと私』(集英社 7月30日刊)__初出「すばる」2000年5月号。
帯に曰く、「ジェノヴァの牢獄で、東方の記憶を語るマルコと、筆記する『私』。物語の誕生までの物語」とか、「『東方見聞録』を書いた『私』とは、一体何者だったのか? 新しい刺激的な小説」とあらば、イタロ・カルヴィーノの『(マルコ・ポーロの)見えない都市』研究家としては、一応、目を通しておかねばなるまい……
ってんで、読んだけど、なんか、「跋」文が御大層な割には、どってことない小説。
これが、「すばる文学賞作家 待望の第2作」(帯/この帯はいっぱい文章が書いてあるんだってば(笑))(誰も「待望」してないって(笑))って言うんだけど、ま、そのテードの作品でしょう。
だいたいが大袈裟なんだよなー、「跋」で明かされている資料等の「解説」が。たった230枚程度の小説に、25枚ぐらいの「創作裏話」を載せるかー?
はい、はい、あんたはこれを書くのに、たくさんの資料にあたり、お勉強したんですね。エラかったね。──でも、それをそっくりそのまま提出してるって感じ。
つまり、まだうまくこなれてない、というか、「ナマ」な感じ。
それで思ったんだけどさ、小説というのは、やはり構成力と日本語力だね。題材なんかカンケーないね。この作者は、上記↑、芥川賞受賞二作家に、大きく水を開けられている。
カルヴィーノの『見えない都市』を読んだ時には、マルコ・ポーロにも関心を持ったが、これを読んで、マルコ・ポーロなんかどーでもよくなった(笑)。
カルヴィーノがすばらしいのは、マルコの生を描き出したからではなく、その論理力にあるのだった。
看板に偽りありの「新人賞作家」作。いや、「新人賞」出身の作家の作品て、どうも文体上のパターンがあって、何を描こうと同じような印象しかない。甘い、というか。