9月23日(土曜日)
『マルコヴィッチの穴』___スパイク・ジョーンズ監督+ジョン・キューザック+キャメロン・ディアス+キャスリーン・キーナー&ジョン・マルコヴィッチ
うーーーん……、すごい。ついに、アメリカもこういう作品を、アングラではなく、堂々と出してくるようになったか──。
かつて、ウッディ・アレンが、スノッブたちの会話の中に、皮肉のように滑り込ませたテーマが、堂々と、真正面から取り組まれ、掘り下げられている。
ジョン・キューザック演じる、アブナイ人形使いが就職した、いかがわしいカイシャで、ファイル・キャビネットの後ろに、穴を見つける。それは、誰でも、十五分間だけ、俳優のジョン・マルコヴィッチになれる穴だった──。
なんと、あのマルコヴィッチ自身さえ、その穴に入り、自分自身になることを体験してみるのだが……。
なんといっても、「誰でも、×分間だけ、××になれる」の、その××が、ブラピでもクリントンでもなく、マルコヴィッチである、という選択がまず、すばらしい。この「人選」が、この映画を、決定的に、「知的な」ものにしている。
おもろうて、やがて深まる深層心理。
(これから、「お勧め映画」には、この↑マークをつけることにしました。映画選びの参考にしてねん)
9月24日(日曜日)
天童荒太『永遠の仔 上・下』(幻冬社 上、2000年5月8日刊、第30刷/下、2000年5月7日刊、第27刷/初版は、1999年3月10日)____上下合わせて、2385枚(幻冬社の本は、巻末に400字詰め原稿用紙換算枚数が記してあるので、数える必要がない(笑))。
帯には、「『このミステリーがすごい! 2000年版』第1位!」とある。テレビドラマ化もされているらしいが、私はまったく興味がないので、本書についてだけ語る。
この本は、エンターテイメントとしてのミステリーであるまえに、いくつかの社会的テーマを含んでいる。その大きな骨格となるものが、child abuse(児童虐待)である。リーダーズ英和第2版には、括弧にいれて、「特に親による性的虐待」とある。アメリカ人は、child abuse に敏感である。事件に子供がからんでいる場合、まず、そのことから疑ってかかる。
日本はそれに比べて、だいぶ遅れている。これまで起こった、少年による事件も、そのことが疑われることはまずなかった。
私はなぜか、そういう本にも関心がいき、買うまでは至らないが、書店で手に取り、核心の部分を読み耽ることもままあった。それは、たいてい、child abuse を受けた人間の告白、自伝といった形をなしている。ケースとしていちばん多いのは、年長の男性の家族(父か兄)が、若年の女性の家族(娘か妹)を、abuseする場合だ。
そしてなぜか、それが、単なる男の子への暴力である場合(性的でない場合)も、それらの記述は具体的で、写真まで載っていることもあり、真面目な記録であるはずなのに、それ自身が、皮肉にも、もしこんな表現を使うことが許されるなら、ポルノグラフィック的である。
前置きが長くなってしまったが、この天童荒太の小説は、そういうものをミステリーの重要な主題として描きながら、猟奇的、ポルノグラフィック的なところはまったくない。そういう意味では、こうした小説の方が、実際の「告白」や「記録」より、より冷静に、上品に、child abuseというものを記述している。
本書はそのほかに、老人問題なども、物語に添う形で無理なく描いている。
ストーリーの語り方や、人物の出し入れ、構成もうまい。
読者は、社会問題がテーマの小説を読みながら、同時にミステリーを追っている。
大団円に近づく、人物たちの心の軌跡、その後の動きがまとめられていくその過程で、やはり、これは、「ヒューマン劇」かと、思い始めたところで、どんでん返しが起こり(下巻、484ページ)、ミステリーであったことを思い知らされる──。
……と、まあ、そういった小説なのだが、上下合わせて、表紙カバーや、帯に、作家や、ドラマ化の出演者である俳優たちの、「感想」が載っている。作家は、宮本輝、山田詠美、村上龍、小池真理子といった人たちであり、俳優は、中谷美紀、椎名桔平、石田ゆり子、渡部篤朗といった人たちである。当然でもあるが、彼らは、こぞって「感動」を語っている。
だが私は、「うまい」、「最後まで乱れなく冷静な筆致で描いている」と思いながらも、一滴たりとも「感動」などすることはなかった。それはすでに、既知の「ケース」であったものを、ただ整理してみせたものにすぎなかったからなのか、よくわからないが……。
9月25日(月曜日)
ああいう↑作品を読んだあとは、口直し、というか、目直し(?)をしたくて、世界文化社から出た、白州正子インタヴュー集、『対座』とかいう本を読んでいる。すごいよねーこういう世界は。4歳で能を始めたっていうけど、「わが家は貧しかったんで、能舞台なんかなかったけど、その頃おつきあいしていた家(華族とか財閥などの、「上流社会」。註:山下)は、みんな庭に、能舞台を持っていて、よく呼ばれて舞いました」(いま、すぐ手元に本書はないし、面倒なので、正確な引用じゃないですからね)ぬあんて。
三島由紀夫が貧乏ったらしく見える(笑)。
さて、掲示板のお客さんの「シリウス」さんが、過去に言及したファイルはないかと、問うてくださった、トーマス・マン原作、ルキノ・ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』である。
この映画は、私も、テレビ、あるいは、ビデオでしか観たことはありませんが、ちょくちょく放送されますよね。原作というか、翻訳は、高橋義孝訳の新潮文庫版(ぬあんと、昭和44年刊のやつ!)をくりかえし読みました。これはいま手元にありますが、茶色になってます。人からもらった本で、「作曲家マーラーのヴェニスに於ける体験をもとに書かれた」なんて、その人の書き込みがあります(笑)。
この作品ほど、原作と、映画の乖離が少ない作品はないような気がします。つまり、ヴィスコンティと、トマース・マンは、ほぼ同じ感覚、美学の持ち主だったのではないか、ときおり、同一人物ではないか、とまで思ってしまいます。
マンのテーマは、ちょうど、19世紀の貴族的なものが没落し、いかがわしい芸術的なものに取って替わられるというもので、それは、ヴィスコンティも、同じように映画で描いて来ました。
記憶をたどることでしか語ることはできないけれど、この『ベニスに死す』という映画の美学もすばらしい。たとえば、老芸術家(たって、まだ五十歳ですよ!)のアシェンバハが、例の美少年一家が食事を取っているのを見かける、ホテル内の食堂であったか、まず、われわれの目の前に、水色の大きな花瓶があり、たしか、あじさいかなんかが活けてある。その向こう側に、食堂のテーブルが見える、という具合。つまり、カメラはそのように、観客と、対象の間に、花瓶という夾雑物を挟み、見せる。これは、リアリティ、その豪華を形作る手法の一種でしょう。
それから、やはり、アシェンバハが、美少年を追って(?)、さまよう、ベニスの街の、石畳、教会、鐘楼の鐘の音、靴音、などが、「影」をうまく使って表現されていたような……。
そして、とくべつ籐の椅子を出させて「執筆」していた浜辺の、乾いた風の吹く雰囲気。彼は心のなかで幾度となく、少年に話しかけ、ついに最後は、遠くで水浴びしている少年になにか言おうとして、手を差し伸べ、立ち上がったところで息絶える?(違っているかもしれない。いつかDVDを入手し、入念に研究してみます)
ほんとうに、あんなふうに死ねたら、本望ですよね。
アシェンババは、原作では「作家」であるが、映画では、作曲家ですか? それなら、上記の知人の書き込みがほんとうなら、映画では、インパイアされた、そのオリジナルに戻してみたのかもしれませんね。
原作では、アシェンバハは、意識のなかで、美少年にこう語りかける──。
「なぜなら美は、パイドロスよ、美のみが愛するに足るものであると同時にこの目にはっきりと見えるものなのだ。よく聴くがいい、美こそはわれわれが感覚的に受容れ、感覚的に堪えることができるたった一つの、精神的なものの形式なのだ」(『トニオ・クレーゲル/ヴェニスに死す』高橋義孝訳 新潮文庫、199ページ)
昨日の、『永遠の仔』では、一滴の感動もしなかった、と書いたが、私にとっての感動とは、こうした場面のことである。
偉大な芸術家のアシェンバハは、美の体現者である少年にのみ、自己の思想の理解者を見る。そしてしきりに、心の中だけで、彼の思想を語りかける。そのけなげさ。涙なくして読めない箇所だ。
あ、ちなみに、この作品執筆当時に、マンは、まだ37歳。すでに「ドイツ文壇に不動の地位を占めた」と、文庫解説にある。老年の心境を書いたのではなく、老年をなめきって書いていた、みたいなこを、たしか、わが師、橋本治が指摘していた。
ついでながら、講談社の『現代思想の読む辞典』によれば、マンは、「徹頭徹尾19世紀的パラダイムにしたりながら、20世紀の問題に直面せざるを得なかったことの悲劇と喜劇を一身に体現したドイツの作家」とある。
時代はすでに、その20世紀さえ、終えようとしている……(合掌)。
(すげぇー日記になってしまったな(笑))。
9月29日(金曜日)
『パトリオット』___ローランド・エメリッヒ監督+メル・ギブソン(
)
永遠の恋人、メルさまの最新作。まだけっこー、セクシーなのに、メルさまったら、「お役御免」とばかりに、早々と「おとっつぁん」の役に引きこもってしまって……。
うーーーん、やっぱりこの映画は、時代劇的『リーサルウェポン』か。
歴史のヒーローモノをやる役者は数々おれど、やはり、メルさまは、動きがいい(って、その気になれば、なんだってホメられる)。
ほんと言うと、あんまり「歴史絵巻」には出てほしくない。「おとっつぁん」の役もやめてもらいたい。
だが、さすがに、七人の子持ちの役の今回、実生活でも、同じくらいの数の子持ちのメルは、大勢の子への気配り具合が、板に着いていた(って、変なホメかた)。
私はべつに、七人の子持ちでもOKです(?)。
って、肝心の映画はどうなんだ? うーーーん……よくわかんない(と言っておこう)。
10月2日(月曜日)
ひぇぇぇーーー、もう10月かあー……。
『長崎ぶらぶら節』___なかにし礼原作+深町幸男監督+吉永小百合+渡哲也
いやー……けっこう泣かせるぅーーー。吉永小百合、いいねーーー、あんなバアサンになりたいねー、華があるねーーー、清潔感もあって。かつて、「血染めのラブレターを書いた」という「伝説」の伝わる、渡哲也と共演してどんな気持ちだったんだろうか?
愛しているから、寝ない。
あたしゃ、メリル・ストリープとデ・ニーロの、『恋に落ちて』を思い出してたねー。
それに、唄と三味線も堂にいっていて、ほんとに、メリル・ストリープしていたねー。
なんで、吉永小百合は渡哲也と結婚しなかったんだろー?
原作は読んでないけど、なんか、すごく思い入れて書いたんだろうなーってのが、映画を通しても伝わってくる。なかにし礼は、ロマンチストなんだろーなー。
手加減なしの長崎弁もいいねー。
10月8日(日曜日)
ひぇぇぇーーー、もう8日かあー……。
『キッド』___ジョン・タートルトーブ監督+ブルース・ウィリス in ディズニー映画
40歳のばりばりの仕事人間が、8歳の自分に出会って、人生を考え直す……という、それほど奇抜でもない「心暖まる」映画。
でもさ、「不可逆」だからこそ意味のある過去や、「予測不能」だからこそ生き甲斐のある未来が、こんなふうに簡単に、「目の前」に現れたら、なんか「心暖まる」どころか、ぞっとして、死にたくなるかもしれない。そんな考えを「排除」しての、「心暖まる」ディズニーの世界なのだった(
)
でも、やっぱりブルース・ウィリスには、子守りがよく似合って、子役の子とのやりとり自体は、「心暖まる」んだけどね。
つーか、やっぱり、ブルース・ウィリスは、「きれい系」の男なのかもしれない。『フィフス・エレメント』で明かされたことであるが。ニコラス・ケイジ(不細工なのに二枚目ぶってる)や、リチャード・ギア(オジンのくせに二枚目ぶってる)と違って。
10月9日(月曜日)
『X-Men』___監督、主演は知らない。「有名人」では、アンナ・パキンが出ていた。
いまどき、「ミュータント」と言われてもね……。
10月10日(火曜日)
詩人の小池昌代氏が、翻訳詩の同人誌のようなものを送って来た……どって?
*
N書店によると、Fさんが、待ち構えていたように、「今度ボルヘスの全集のようなものが出るんよ」と教えてくれた。
国書刊行会から、未邦訳なものを集めた『ボルヘス・コレクション』(全5巻?)が出るようである。訳者は誰なんだろー?