金色日記 Diary in Gold


6月12日(土曜日)

 あんまし書くことないんだよねー。

 ウンベルト・エーコ『前日島』もザセツしちゃったしー。前作『フーコーの振り子』もザセツしたままだしー。でも、『薔薇の名前』は読んだけどねー。……すると、なんかそれなりに「見えて」来るものもあるなー、とか。

 前二者の版元は文藝春秋で、訳者は、藤村昌昭。後者は、東京創元社で、訳者は、河島英昭。

 つまり、なんつーか、ひょっとして、訳のせいかも……とか。単にエーコの作品が面白くないという理由かもしれないけど。

 それと、もうひとつザセツした大作品に、トマス・ピンチョン『ヴァインランド』(新潮社、佐藤良明訳)。これも訳がなー……。いや、単にピンチョンの作品が面白くないというそれだけかもしれないけど。

 でも、N書店のFさんも言ってたなー。「『フーコーの振り子』も『ヴァインランド』も、買ってく人はいても、読んだっていうお客さん、あまり聞かないんですよー」。

 新聞とか雑誌にしたり顔で書評書いてるアンタ、アンタはほんとに、全部読んだんだろーね? とか。

 (自分がザセツしたからって、人まで疑っちゃいけねェか……)



 今日の至言。

 「若者は不器用でも美しければよいが、オヤジが不器用であることは救いようがない」__島田雅彦(『すてきなオヤジ』島田雅彦の料理@より、朝日新聞 6/12付夕刊)



 (ついでに)今日のバカヤロー。
 
 「34歳。恋愛エッセイ中心の物書きは40歳まで。『一生の仕事として取り組める小説で名を残す』と考えている」__(「恋愛の教祖」と呼ばれる作家、梅田みかさんのインタビュー記事、同上)

 はいはい、そうなんですよねー、おそらくみなさん、考えているんでしょーよ、いま、ポルノとか、少女小説とか、つまらんエッセイとか、つまりは、読んだらそれでオシマイみたいなものを量産している売文業者の方々は。本人がどんな目標を持とうと自由だけど、いま現在、それを「買って、読んでる」読者はいったいなんなんですかねー?

 ま、いいけどー。

 エーコだって、ピンチョンだって、駄作を書くかもしれないのにねー(←このイミは実は深い。おそらくは、20代からそういうことをずーっとやっていても、それだけの「結果」しか出せないかも、というほど文学の世界は厳しい。ちなみに、あのナボコフさえ、何十年も英文学の教師をやって、やっとパリのポルノ専門の出版社から、『ロリータ』を出し、「小説で名を残す」ことができた。それも、名を残すことが先にあったのではない。まず、『ロリータ』という作品を書きたい、という欲望が先にあったはずだ)



6月13日(日曜日)

 『メッセージ・イン・ア・ボトル』__ケビン・コスナー+ロビン・ライト・ペン+(おっと、大事な人を忘れてた、チョー有名なのに、名前度忘れ……あ、ポール・ニューマンだ。なぜか、スパゲティ・ソースの瓶のラベルが目に浮かぶ。なぜか、ではなく、往々にして「ありうる」であるが)

 どーもコスナー君は、映画はワンマン・ショーではない、ということが、まだわかってないようである。



6月14日(月曜日)

 「模範的ビジター」、Mさんからメールが来たので、ここに勝手に紹介し、ついでに「返事」としましょう。


> 私も『薔薇の名前』は読みましたが、『フーコーの振り子』は図書館から
> 借りてきたこともあり、飛ばし読みし、最後の題名の由来の戦いの構図
> のみをかろうじて覚えているという状況です。
> 日記を読み、ザセツしたまま放り出してあるウィトゲンシュタインの
>『論理哲学論考』をグルニエからとりだしてきました。
> 奥付には
> ウィトゲンシュタイン全集1(第1回配本) 論理哲学論考他
> 大修館書店 1975年4月1日 初版 発行
> と書かれています。
> 4半世紀前に買ってザセツしたまま、引越しにもとにかく捨てずにもってきたものです。
> 今年の秋の始まるまでには目を通そうかなと新たな決意をした次第です。


 ええと、「ザセツ本」と「(いろんな理由で)中断している本」は違いますよねー。「ザセツ本」は、小説類に多く、普通ならいっき読みができる、もしくは、それほど時間はかからず読み終えられる本です。

 哲学書や古典などは、どうしても時間がかかるし、またかけなければいけないのではないでしょうか。

 と、今日は意外とまともな態度(実は眠たいから(笑))。



6月16日(水曜日)

 『ソルジャー』__カート・ラッセル+デイビッド・ウェブ・ピープルズ脚本(『ブレードランナー』と『許されざる者』との中間期にこれを書き上げた、とか)。

 四角四面のカオのカート・ラッセルが、無表情の「人間兵器」を演じる。赤ん坊の頃から40歳まで、そうやって教育された男である。

 しかしそのカオは、どことなく、目が下がっているせいか、いつも泣いているようである。事実彼は、はじめて悲しみを知り、涙を流す。

 ここがシュワちゃんとの違いである。

 なんちゅーか、結局、<B級>の匂いのする作品であるが、そこがよい、とゆーか。



6月18日(金曜日)

 (前半)

 たまたま覗いたあるサイトに、ケビン・コスナーの『メーセージ・イン・・ボトル』(Message In A Bottle)のことを、(たぶん無意識的なマチガイによって)『メッセージ・イン・・ボトル』と書いてあった。

 うーーーん……その方が、この映画にはふさわしいか、って。偶然にも皮肉になっているのが皮肉である。



 (後半)

 だいたいあのオイチャン(って、ケビン・コスナーのことだけど)は、スケベなくせにストイックな役をやりたがるから、自己矛盾が起こるんだ。

 死んだ妻に心を捧げている男が、目の前にいい女が現れたからって、そう簡単に寝ちゃいますかねー?

 それに、登場人物たちの心理にも全然、逡巡がなくて、会いにいったら、すぐにデキてその街にしばらく滞在するとか、ご都合主義すぎる。

 あれが、ノーラ・エフロンだったら、瓶の手紙を拾った女が、その手紙を書いた男に興味を持って会いにいっても、一回目は、そっと覗くだけで帰ってくるだろう。それが、コスナーが多かれ少なかれ制作としてからんだ映画だと、もうすぐに「恋人関係」になってしまうのだ。

 それで、「死んだ妻が忘れられない」と言ったって、見てる方はしらけるよなー。

 アメリカ在住の日本人の意見で、あれは、原語で見ると、言葉というものの美しさが胸を打って、また違った解釈になる。やはり字幕だと、そこがわかってもらえない、みたいな意見を目にしたけど、

 あんたねー、「原語」って、わしらだって、一応、英語は中学校からやってるので、完全に何を言ってるのか、わかってないわけじゃないんですぜー。

 それに、何語であろうと、スワヒリ語であろうと、タガログ語であろうと、たとえひとことも理解できない言語で、100パーセント字幕に頼ろうが、駄作かそうでないかぐらいの判断はつくよなー。



 アメリカン・チェリーが安く出まわっているので、チェリー・パイを作ってしまいました。



(おまけ)

 やっぱり、アメリカ人には、「恋愛」ってものがわかってないようだ。ついでに、「詩」ってものも。



6月19日(土曜日)

 劇団「四季」『ソング&ダンス』(福岡シティ劇場)加藤敬二振付+浅利慶太演出……ったって、こーゆーのは、あんまり自主的には見に行かない。今回、城さんに頼まれてチケットを買ってやって(ぴあカード+エントリーボックス)、それにつきあったって感じ。

 ついでに、ハギオさんを誘ってやる。なんせダンスのためなら家族も捨てる彼女である。

 ふんで、私は睡眠をほとんどとらずに行ったので、やっぱり途中で「Zzzz...」となってしまい、ハギオさんに、

 「イビキが聞こえたので誰かと思ったらあんただった、毎回一度は寝るね」

 と言われてしまった(苦笑)。

 これは、これまでの「四季」の出し物の「名場面集」のようなもの、と「四季」側は言うが、なんつーか、これまでのミュージカルで使った、歌と踊りを集めただけ、と言った方が正しい。

 毎回、「メンバー表」が置いてあるが、今回の出演者についてハギオさんは、

 「荒川務はアタマが薄くなったね」とか、「野村玲子は老けたね」とか、相変わらずあら探し。おまけに帰りがけに、パンフレットなどを売るスタッフに、

 「加藤(敬二)さんが出ることはないんですかねー?」などと訊く始末。もー……。



 生きる「博多ガイドブック」のハギオさんの案内で、中洲のソープ街を通り抜け(抜けられます!)、中央区は大名一丁目の、オープンカフェ、『Bal Musette』へ。ここは、3月に、外交フランス語講座を受けた際、フランス人のセンセイがたとランチを取ったところ。

 いかにもひとつのパリそっくりの方式と内容と雰囲気にしてあって、フレンチの人々は、いたくノスタルジアを刺激されるらしい。

 料金までがテーブルで、で、(おそらく日本人は、テーブルの上に置いていくというのに慣れてないので)先払い(苦笑)。

 もちろん、「お冷や」は出ない。250mlのエヴィアンを買え! しかも、カウンターは、300円、テーブル席は400円(すべての飲み物にこの2種の価格がついている)。コンビニで、100円ぐらいで売ってるやつがだよ。あと、ワインとか、食前酒もいろいろあるが……、わしらは、何を注文していいかわからず、水はぐっとがまんで、カフェ・オレにした。確かに、泡が立ったホンマモンで、レシートにも、「CREME」とあった。

 音楽はもちろん、Bal Musette(って、CDも出てるよ)。まわりを見渡せば、フレンチらしき女の二人組みも。

 「まー、きれいねー」と城さん。ただ、フツーの若い女がバゲットのサンドイッチを食ってるだけだが、ガイジンだとなんか違って見えるらしい。

 お腹が空いたが、ここはなんか落ちつかん。

 「もっと明朗会計のとこへ行く?」と、わたし。

 「そやね」と二人。そんで、街中の、あたりまえに、カフェしてる、とうより、かなりフレンチな感じだが、方式と値段だけは日本の、ところへ移動して、パン類を食った。

 代金は、「口止め料」として、1000円(1400円中の)をハギオさんに出させた。なんの? 「口止め料」もらっちゃったからねー……。

 ハギオさんの案内で、大丸の地下でメチャ安い野菜と魚を買い、あー、本日も、全然カネつかわんかったー(満足、満足)。



6月20日(日曜日)

 『ハムナプトラ』__なんか真ん中あたりから寝てしまい、結局、どんな映画だったのかわからずじまい。しかも、クレジットが出始めてもまだ寝ていたので、車掌さんに、

 「お客さーん、終点ですよー」

 と、起こされる始末(ンなアホな)。

 *

 それでも、心に残るのは……古代エジプトの、もっとも恐ろしい刑=「生きながらミイラにされる刑」って、いったいどんな刑だろ?

 王朝の反逆者であることがバレた高僧が、その刑を受ける。生きながら舌べらを抜かれ、全身包帯をグルグルに巻かれ、例のミイラ用の棺桶に入れられる。そこに、あのカブトムシを一回り大きくしたのような虫をごっちゃり入れられ、砂の下に埋められる。どうやら、その大カブトムシが、ミイラ作りに「貢献」するらしい……。

 原題は、やっぱり、『The Mummy(ミイラ)』。

 途中、「ハッ」と目を覚ますと、その大カブトムシが蠢きまわっている。バーホーベンの『スターシップ・トゥルーパーズ』の昆虫に対抗できる「存在感」である。

 ま、そんだけ見てりゃ、いっかー、とか。



 (睡眠不足続きで体調最悪)



 ほら、あなたの布団の中にもそのカブトムシが!



6月21日

 ドリュー・バリモア主演+製作総指揮『25年目のキス』
___いまどき、高校生が映画の題材に取り上げられるとしたら、それは、「犯罪」とか「社会問題」としてである可能性が大きい。しかし、この映画は、いまどきの高校生(当然ながらアメリカの)をまるごとリポートしていて、少女漫画的な展開ながら、妙に新鮮なのである。

 世間のおとなたちは、小中学生の扱いに困り、いまや誰も高校生を顧みない。そこで、この映画の中の「新聞社」は、一面の特集記事のテーマに、社主自らが「高校生」をテーマに選んだ。

 ナベツネ自らが、編集会議の席に乗り込んで、いちばんウブで駆け出し風の女社員に、「きみ、高校生に扮して、突撃レポート取ってこ〜い!」と言ったようなもんである。

 そこで、まだ「記者」にはなってなかったドリューちゃんは、上司の反対をなんとか説き伏せ、チャンスとばかりに駆け出していったのであるが……

 思い出すのは、自分のダッセー高校時代……

 ほんと、ブスでダサい女をやらせたら、いまどきの女優で、右に出るもののいない、ちょい太りぎみのドリューちゃんなのである。

 最後にゃー、「じょーだんじゃないわよ、なにがプラムのクィーンだよ、あたしゃ、ホントは、25歳のおとなの女なのさ!」と、高校生のませガキ相手に啖呵を切るかっこよさ。

 この映画、さっき「少女漫画的展開」と言ったが、それは、一見で、実は、ケッコー奥が深い映画なのだった。



 棚の組みたてー♪



 (もちろん)今日も、執筆。



6月23日(水曜日)

 ♪GAINSBOURG: DE GAINSBOURG a gainsbourg
 ♪Chantal Goya: Les annees 60



 棚の組みたてー♪→完成。



 腰がいてー+蒸しあつーい!



 (追加)

 「プライバシーの侵害」ということで作品が差し止めになった柳美里さんの問題ですが、この人の作品は全然興味ないんで、ひとつも読んでないんですけど、そして問題の作品を見ずしていろいろ言うのもなんか不毛な感じなんですけど、だからといって、件の作品を人目に晒したらそれこそ、さらに「プライバシーの侵害」になってしまうというジレンマがあるんですが、それでも、常識的な推量ということはできるので、言っておくと、

 まず、この件は、「表現の問題」云々よりも、二つの異なった問題を含んでいると思う。

 一つは、「友情」の問題=人間同士の信頼関係の問題。柳さんはこれを、本人に「ひとことも相談もなし」に発表することによって、それを壊した。

 もう一つは、その作品が十分に異化されていたかどうか、ということ。それはフィクションでありえたかどうか(ドキュメンタリーなどではなく)ということ。「(判決は)日本の私小説の存在を危ぶませる」などという意見があったが、だいたい、日本人は、想像力が不足しているのだ。

 その作品の何が主題か知らないけど、障害のある人間を描いた作品で際立っていると思われるのは、

 グラス『ブリキの太鼓』とか、ドノソ『夜のみだらな鳥』とか。
 
 *

 しかし、どうしても「それ」を書きたい! という欲望もわからないわけではない。しかしたぶん、私なら、その「友だち」に見せて意見を聞くだろう。

 しかしまあ、「作家」ってのは、ある意味では根性が悪くないと成功しないとこもあるからねー……。まあ、そこまでして「作家」になりたくもないけど。

 弁護、批判、両方の立場の意見を見たけど、どうも弁護側の意見は、観念論に終始して旗色が悪いような感じもしたが……。
 だいたい、「弁護派」の作家、評論家は、もし、自分に障害があり、友だちだと思っていた人間に黙ってそれを書かれたら……ということを一度も考えたことがないのだろうか? と思われるような態度に見える。

 ふんなもんだから、思わず口走ってしまった、

 「あたしも、デブの右翼をモデルに小説書こうかな」とか。

 




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