8月15日(日曜日)
イラン映画『運動靴と赤い金魚』___イランは貧しい。しかし、ビバリーヒルズのような高級住宅地もある。つまり、貧富の差が激しい。そんなイランの映画のおおよそは、貧しい子供たちの話だ。父親は、悪い人間ではないが、たいてい、アタマが固く頑固で愚かですらある。母親もまたそんな男に従っている。そんな家庭で育つ子供がどんな生活を送るか。貧しさゆえに、まだ想像力は失われていない。なぜなら、想像力とは、欠如を埋めるものであるからだ。
ウッディ・アレンの『セレブリティ』___これは、フェリーニの『甘い生活』のリメイクだそうである。『甘い生活』と言えば、私もインパイアされ、拙作『アフロディーテ』(『すばる』……いつのだったか、古すぎて、忘れたァー)も、実は、これを書きなおしたものである。
ウッディ・アレンには、『誘惑のアフロディーテ』(見てないが)という作品もあり、なんか、私のマネしてるのかねー? 両方とも、私の方が先だが。
『セレブリティ』に関して言えば、やはり、ヨーロッパ人が持っている、絶望とか、深み、などが欠けている。ほんとに、ただのドタバタに終わっている。モノクロであるとこも、フェリーニとおなじにしてあるが、フェリーニの『甘い生活』の持っていた、あのモノクロの美しさはどこにもない。
ほんとに、この頃つくづく確信を深めているのは、アメリカ人というのは、なにか、決定的に、精神的な深みを欠いているということである。つまり、「剰余の手触り」こそが作品である、ということがわかってないというか……。「純文学」の場合、これは致命的である。
ついでながら、拙作について言えば、うーーーん、やっぱり甘かった、というか、書くのが、十年早かった、と反省している。
8月17日(火曜日)
Samuel Beckett 『WATT』(Grove Press New York/ 初版は1953年
Olympia Press Paris)を、17ページまで読む。確かに、語の使い方は、Joyceを彷彿とさせるところがあるが、もっと希望に溢れている。
英語なのでなかなか読み進められないが、それでも読みだすと、惹きつけられる。Beckettの作品は、注意深く読む必要がある。
8月18日(水曜日)
ショーン・コネリー+キャサリーン・ゼータ=ジョーンズ『エントラップメント』___「2000年問題」をついた犯罪映画。前半はわりあい緻密に犯罪の計画を練っていくも、後半、このテの映画によくあるパターンだが、どんでん返しを狙うあまり、あれよ、あれよというまに、ご都合主義の連鎖にはまっていく。ま、新しいというのか、007とどーちがうの? というのか、白髪の鬘をわざわざつけるか、というか、イギリスの女優は、美人でも鍛えられてる、というか。
『WATT』、23ページまで読む。『ゴドーを待ちながら』的状況がすでにある(って、ほぼ、「同時期」ですけど)。
8月20日(金曜日)
数少ないながら、「常連」ともなると、いろいろ、「読まれて」しまうこともある。そこを、いかに「読まれないようにするか」に、「日記」の書き手の工夫がかかっている、なんちゃって。
まあさ、勝手にソーゾーしてりゃいいじゃん。
この頃はほとんどやる気をなくしている。思えば、「便所の落書き」かもなー……とか。ごくたまぁ〜〜に来るメールも、惚けたようなオヤジばっかりで。
ある掲示板では、私の出した返事のメールを、まるでメールでないかのように偽装しながら、無断引用していた。しかも下品な「反論」とともに。しかも、私のサイトへリンクも貼っていた。こんなバカ、相手にしてもしょうがないと無視していたら、しばらく経って、リンクを新しくしたのを機に、まるでそんなことなど、なかったかのように、自分とこのリンクの紹介もこういうふうに変えてくれ、なんて注文つけてきた。リンクを取らないだけでもありがたいと思え、なのに、呆れてものが言えないとはこのことである。ズーズーしいというのか、厚顔無恥というのか……。
だいたい私って、執念深い性格なので、過去の恨みはほとんど忘れてませんね。忘れたかのふりをすることはあっても。
*
Raymond Queneau 『Les fleurs bleues』(1965/folio版)の第一章を読む。邦訳は二回読んだ、ので、だいたい流れはアタマに入っている。この本は、ほんとにむかつく本である。言葉の遊びあり、造語あり、おまけに、誤植あり。──どれが、言葉の遊びで、どれが造語で、どれが、真の誤植か(!)、わかんなくなる。それで、ま、いっかー……の作品となる。
だいたい、私が好んで読むよう作家の作品というのは、辞書に載ってない言葉がたくさんある。というか、それが「文学作品」てものだろう。
8月21日(土曜日)
Italo Calvino 『Six Memos For The Next Millennium』(Vintage
Books 1993)__この本も、すでに邦訳を読んだ、ことは、この日記にも書いたと思う。とてもためになったのだけど、もうひとつハッキリしない部分もあって、英語で読んでみようという気になった。しかし、これは、英語版では、「訳者」とか明記していないものの、草稿の大部分はイタリア語であろう。
で、英語で読み始めると、やっぱり、よくわかんないのである(苦笑)。ま、私の英語力のせいもあるんでしょうが、なんか「おつゆが足りない」(最後は野垂れ死にであったいう、伝説の映画評論家、佐藤重臣氏の、ある映画を評した時の言葉。余談ながら、私はかつて、アテネ・フランセにて、氏の個人秘蔵フィルムを見たあと、氏の解説を聞いたが、すばらしくユニークなものであった)。
で、また日本語版に戻ってみた。訳者の米川良夫氏は、1988年に出たイタリア語版を底本としているようである。この訳は、すばらしいと思います。ふんで、カルヴィーノ夫人の前書きを見ると、英訳版は、なんと、前半が省かれているではないか!
いやん。
*
(英語に訳されたヨーロッパ語の本は、信じない方がいいですよー)
(もう一回日本語版を読むか)
8月23日(月曜日)
もー、いまが何月か、わからなくなってしまう、まいど、この「日記」を書きながら、認識しているしだいである。
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イギリスの小品、『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』__この映画の映画化権をトム・クルーズが、170万ドルで買い取って、製作、主演の予定……とか、170万ドルつーと、いくらだよ? 1億7000万円くらい? 金があればなんでもできると思ったらおーまちがいだよなー……。
だいたい、トム・クルーズには無理だって。この映画をリカイするの。これこそ、イギリスそのもの、イギリスの手触り、みたいなものが命なんだから、どうせ、アメリカのハリウッドの連中は、この「物語」を換骨奪胎というより、「骨抜き」にするに違いない。
だいたい、ストーリーなんか、意味ないんだからねー。
確かにこのところ、イギリス映画は元気がいい。ちょうど、『L'EXPRESS』(8/12-18号)でも、ヒュー・グラント、ジュリア・ロバーツの『ノッティングヒルの恋人』(原題は、『ノッティングヒル』、仏題は、『ノッティングヒルの一目惚れ』←こっちの方がわかりやすい)を取り上げて、それに先行する、『フォー・ウエディング』『トレイン・スポッティング』『フル・モンティ』『ブラス!』などにも言及している。これらはすべて、アメリカでも、「当たった」イギリス映画である。
やっと、アメリカは、イギリスを理解しはじめたようだ、と、この記事の記者も、インタビューされたヒュー・グラントも言っている。
しかし、トム・クルーズは、そういう風潮に乗せられているだけだろう。
一方、ヒュー・グラントだけど(タイプよ
)、なんでも、ある朝、ファックスの紙が床に落ちていて、見ると、それは、ウッディ・アレンからだった。「いっしょに映画を作りませんか?」。そして、P.Sとして、シナリオの数行と、「もしあなたが空いてなかったら、この手紙を破ってください」とあった。
ヒュー・グラントは、「空いていた」。で、次なる作品は、ウッディ・アレンの映画である。さて、ケネス・ブラナーより、よくなるか?
こういうエピソードを披露するところが、なんか、イギリス男ってゆーか……。
(この「日記」は、おそらく他ではあまり紹介されてない話題もさりげなく書かれていて、ほんと、おトクぅー!)
8月25日(水曜日)
涼しい。
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浮き上がった者は、讒(ざん)される。
讒 とは、「中傷」のことである(ものすげぇー、難しいぢ)。
8月26日(木曜日)
実は数日前、失礼ながら、作家の我孫子武丸氏の「日記」を覗いたら、作家の松本侑子氏のホームページにリンクが張ってあったもので、なんとなく行ってしまった。
行ってみると、そこでは、松本氏の著作『罪深い姫のおとぎ話』が、桐生操著『本当は恐ろしいグリム童話』に大幅に「盗作」されていると、「文献」を提示して、ギャアギャア、騒いでいた(ように見えた)。
まあさ、その「文献」とやらを検討してみましたよ。確かに、松本氏の主張通りに、松本氏の著作から取って書きなおしたのだろうということは明白なような気もした。
問題は、他人の著作から取って(盗ってではなく)、書きなおすことが、果たして「盗作」と言えるか、ということである。確かに、松本氏が、わざわざ、アンダーラインを引いて、あげてある箇所は、その発想というか、文脈が、そっくりである。しかし、まったく同じ語句を使っているところは、巧妙にも、ほとんどない。これは、わざと、重ならないように書いたのだろう。むしろ、「偶然の一致」の方が、語句がひとつやふたつは重なる可能性が高いが(私が弁護士ならこの点をつくけどなー)、ほんとに、微妙なところで、語句の一致は避けられている、という印象である。
松本氏は、「(ここのこの箇所は)『グリムのオリジナル・テクスト』にはない私の創作なのに、それを、桐生氏は、ほんとうにグリム童話として扱っている」と、主張している。
果たして、『グリムのオリジナル・テクスト』とは、なにか、というものが問題である。
松本氏の「参考文献」は、白水社『初版グリム童話集』とあるが、この本の訳者が誰か、記されていない。私のテクスト観で言えば、訳者は、すでに「作者」である。
もともと、『グリム童話』というもの自体、ヤーコップとウィルヘルムのグリム兄弟が、広くドイツ全土に渡る、昔ばなしの類を、お年寄りなどから聞き書きし、一字一句洩らさず、忠実に書き留めたものである。ヨーロッパのことだから、デンマークのアンデルセンとも、フランスのペローとも、重なる話はあったらしい。
たとえば、グリム兄弟は、版を改める時に、フランスのペローが、後手なのにもかかわらず、彼のと重なった部分を省いている(松本氏の論理でいけば、グリムが、アンデルセンとペローを「盗作」と訴えることもできたのに)。
──以上のことは、岩波文庫の『完訳 グリム童話集』の訳者、金田鬼一が、1の「まえがき」で書いていることである。それに、もともと、「童話」というものは、「子供だけのための話」ではなかった、と。
それで、最初に戻ると、この、『本当は恐ろしいグリム童話』という題名である。こうした題名が、暗に意味していることは、「無邪気な子供のための童話」が、実は、「本当は恐ろしい」のだよ、ということである。
別に、『グリム童話』と名づけられたテクストが、「無邪気な子供のための」ものでないのだから、「本当に恐ろしい」もなにもない。それに、民話などというものは、みな恐ろしいものなのである。
従ってこの本は、そういう認識を欠いている無知な人々を当て込んで書かれた本なのである。
だから、松本氏のページに書いてあるように、250万部、37億5000万円の売り上げがあったのなら、それは、それだけ、バカなやつがいた、ということである。ほんとに、「グリム」を読みたかったら、私のように、上記の文庫を買えばいいものを。
また、そういう「民話」は、どのようにも解釈できる。昔から、数多くの「作家」たちが、いろいろな解釈を施して、「書きなおして」きた。だいたい、文学というものの本質は、「書きなおし」である。
松本氏は、「私は、童話をフェミニズム批評の見地から書きなおした、それは、私のオリジナルな発想」というが、そういう、たとえば、「眠り姫」に性的ななにものかを付与する、「創作」は、今に始まったことではないし、むしろステロタイプ化しつつある。
(などといってる先から、『ねむり姫の謎──糸つむぎ部屋の性愛史』(浜本隆志著、講談社現代新書)などという本の宣伝が今日の新聞に……(笑))。
こういうものは、いったん当たるとウンカのごとく発生する。
今回の『本当に恐ろしい……』は、確かに、松本氏のを「盗った」のだろう。しかし、「盗った」相手も、「盗り方」もまずい(どうせ盗るなら、もっと、大物の、世界的な著者から盗るべきだったし、その「盗った」ことを、明記すべきだった。ま、松本氏程度から盗るなら、せめて氏の了解を得て、印税の半額を支払う約束をするとか……)。
そういう「まずさ」を、人は、「盗作」と呼ぶのである。しかし、「盗った」のは、明白でも、一字一句重なるところがないと、果たして、「裁判」ではどうなるのか?
ちなみに、『本当は恐ろしい……』の著者、「桐生操」というのは、二人のオバサンのペンネームである。ま、オバサンのやることですから……(「盗作」も、二人でやれば怖くない、と思ったのか。『オバサンの犯罪』なんて物語まで思い浮かんでしまったではないか(笑))。
余談ながら、松本氏のページに発表されていた、「はげましのおたより」のほとんどは、女性で(「悪」を厳しく糾弾し、「被害者」には「たいへんだったわねー」と同情を寄せるもの)、なかに、ひとりだけ(私の見たかぎりでは)、男性がいた。「図書館員」だって。まさか、あんたじゃないでしょーね>Fたん。
あー、松本氏のページにはリンクは張りません(だって、リンク張るやつは連絡しろと書いてあったし、べつに連絡したくもないし、これは個人的意見だもん)。確かめたい人は、勝手に「検索」して行ってください。安孫子氏のページは、このサイトの「リンク1」にあります。
ついでながら、松本氏は、「(白水社の)『初版グリム童話集』では、8枚にしかすぎなかった『青ひげ』を、5倍の長さの創作にしたのは私」と自慢して(いるように見えた)いたが、ギュンター・グラスなんか、30枚くらいの『漁夫とその妻の話』を、50倍くらいの小説、『ひらめ』にしたんだからねー。
それにしても、『グリム童話』というのは、話が、250以上あるのである。にもかかわらず、どーしていつも、「書きなおされる」のは、『眠り姫』とか『青ひげ』とか『白雪姫』(バーセルミ作も思い出すが)なのかねー?
私が岩波文庫の『グリム』なんか買ったのも、実は、グラスの『ひらめ』の下敷きになっている話を知りたかったためである。