金色日記 Diary in Gold


11月3日(水曜日)

 「プルーストを求めて」は、なにぶん現在進行形のテクストなもので、書いていくうちに、最初の意図が変わっていくこともあります(って、すでに変わってます(笑))。ですから、時々、前の方もチェックしてください。

 そのつど、前に書いた文章を直せるのも、こうしたエディタのいいところです。



 体がだるい。



 前に書こうと思っていたことで、どーでもいいことですが、モス・バーガーに、完全和風のメニューができましたね。ガンモドキの入ったライス・バーガー+豚汁+ゴボウの梅味サラダのセット。味は悪くないけど、塩分が強すぎかも。



11月4日(木曜日)

 『グロリア』__シドニー・ルメット監督+シャロン・ストーン as グロリア。

 『グロリア』というのは、ジョン・カサベテスが、夫人で女優のジーナ・ローランズのために、20年近く前(?)に作った、オバサンのためのハードボイルド映画である。この映画が画期的なところは、ヤクザの情婦とはいえ、すでにトウのたったオバサンが、たった一人で、赤の他人の子供を守るため、組織と対決するところにかっこよさがあった。

 それが、シャロン・ストーンでリメイクされると何年も前に(?)耳にした時から、そうか、シャロンもついに、「オバサンになる決心をしたのか」と、期待したものだった。

 しかし、だ。結局、シャロンはまだ、「若い女」の域を出ようとはせず、というか、監督のシドニー・ルメットがこの映画のテーマを全然理解してはおらず、ただ陰気なだけの映画になってしまっていた。

 んー……今のハリウッドで、いったい、この役を、誰ならできるだろーか? と、マジに考えてしまった。

 (余談ながら、この映画に出ている怪優、ジョージ・C・スコット氏は、今年9月24日にお亡くなりになってます。アーメン(かどうか……))。



11月7日(日曜日)__橋本スペシャル

 『女賊』(舞台版)___橋本治作・演出・美術・衣装・美粧+篠井英介一人芝居(@シアタートラム(三軒茶屋))

 ほぼ1年前に出た、橋本治の『女賊』を、私は小説だと思って読んだが、実は、フリーの女方役者、篠井英介に捧げられた芝居台本だった──。その舞台化は、本の帯に告知されていた。1年後の11月……。待つこと、実に1年。ついに、その初日にかけつけることができたのであった!

 シアタートラムは、わりと新しい劇場で、形はほぼ真四角。小劇場と言っていい規模だ。客席の傾斜は深い、ので、後ろの席でも、舞台の隅々を見渡すことができる。
 その四角い劇場で、篠井英介という肉体が、いかなるドラマを展開するか。

 自称、前衛演劇研究家のわたし。しかし、これは、もはや、所謂アングラでも、ただの商業演劇でもない。

 だいたい、演劇というジャンルが、力を失っている時代である。「ぴあ」に出て来る順番も、音楽、スポーツ、美術に先を譲り、いちばん最後である。昔は、映画より前に載っていたこともあった(と思う)。

 そういう時代に演劇である。なぜか?

 それは、おそらく、篠井英介という役者がいたからである。

 かつて、鈴木忠志は、「演劇の一回性」ということを言った。これは、映画のように、コピーがきかないという以上に、その上演は、一回かぎりのものである、つまり、次の日には、また別物になっていることを示している。

 そして、鈴木は、メソッドの方へ行ってしまった。

 ここに、流行らない、演劇をひっさげて、なんと、橋本治が登場する。おそらくは、まったく新しいコンセプトを吹き込んで。

 これを、なんと表現してよいか?

 そこには、テレビでやってるような、ギャグを満載して、刹那的にその場の観客を喜ばす、「新しさ」はない。

 さりとて、昔ながらのドラマトゥルギーに支えられた「商業演劇」が展開するわけでもない。

 言ってしまえば、「教養」なのである。日本の古典が持っていた劇的なものを、わかりやすく確認しようとするつくりになっている。歌舞伎の見栄あり、常磐津あり。

 それを、篠井英介という肉体を通して見せる。篠井は、みごと、橋本の「教養」を肉体化してみせる、という、そういう演劇。

 篠井という役者は、なるほど女形専門の役者である。しかし、彼は、決して色を売らない。色を売らずに、芸を売る。どんな不細工な役者でも、色を売ろうとする今の世に、稀有な存在なのである。おそらくは、そこに、橋本は惚れたのであろう。



 付録「その日のハシモト」

 演出家というものは、やはり、初日が気になるものである。ひょっとしたら、ひょっとするかも……の予想通り、いらっしゃいました、橋本センセイ。芝居が終わって、ぞろぞろと出口に向かうと、いちばん後ろに壁に貼りつくように立ってらっしゃいました。
 関係者らしい女性に挨拶されて、「いやー……、それが……」などと、口に手をあてがいがちに、ロビーの方に出ていらっしゃいました。しばらくそこで、立ち話をするうち、べつの関係者も集まってきて、ロビーの脇の、「関係者以外立ち入り禁止」のドアの中へと消えていかれました。

 その間、ずっと、触ろうとすれば触れる距離で、観察させていただきました。橋本センセイは、自分の芝居の評判が気になるようで、ヒトがじろじろ見ていることなどまるで気づかないようでした。

 んー……そのファッションがなー……やはり、アーティストなのである。

Hashimoto sennsei

 
上着は、テーラードの、ダブルだったか? 色は紫。それに、大胆にも、白の大きなストライプが。ボトムは、はき込んだふうのぴちぴちのジーンズ。靴は、黒革のアンクルブーツ風。胸には、オレンジ系のポケット・チーフまで。ネクタイは記憶にないので、適当な黄色にしました↑。

 巨体を恥ずかしそうに折り曲げかげん。後頭部は、本人の申告通り、禿げてらっしゃいました(笑)。



 この橋本センセイのファッションは、確かに、普通の人の居住区では、目立つと思います。しかし、よく見れば、それなりに、センスがよいのです。

 この大胆さは、そのまま、舞台衣装にも発揮されてました。とにかく、すばらしい! ワダエミなんか目じゃない。



 さらなる付録「篠井英介」

Sasai Eisuke

 この舞台では、色んな面を持つ女を演じる。まずは、コケティッシュな女として登場する衣装がコレ。けっこー、カワイイ。ひょっとして、橋本センセイの、洋服は、この「彼女」に合わせたのかも……。
 

註:この芝居は、11月23日まで、やっています。その気になったヒトはぜひかけつけよう。まだ、席はあるような気がする。ワカンナイけど。



11月9日(火曜日)

 無理が祟って、疲労と風邪でダウン中……。




11月10日(水曜日)

 「エクリチュール」

 先日、ある人から、10/27の日記の以下の記述にドキッとしたので、自分の日記に引用させてもらった、悪かったらすぐ削除します、というメールをもらった。添付のURLから、そのサイトへ行って、その人の日記を読むと、ひどい引用のされ方であった。その「ドキッとした」も、非常に、低次元のドキッとで、しかも、私の記述は、以下がほとんど引用され、いいとこはそこだけで(笑)、しかも、「たまに行くサイトにこんな記述が」と、こっちのURLが付いているだけであった。しかも、メールには、「エクリチュールって、どういう意味ですか? 国語辞典(笑→は、すべて山下記)を引いたけど、わかりませんでした」とあった。
 エクリチュールもわからないで(少なくとも推定できないで)、よくも、以下の文章に「ドキッと」できたものだ! と呆れた。返事は、それなりの、「どやす」(笑)内容になったかもしれない。しかし、私は、親切にも、Ecritureは、仏語辞典に載ってますよ。と教えてあげた(笑)し、私の記述を削除せよとも言わなかった。ま、引用とは、そういうものだと、自分では解釈しているので。最低限、その人が、「これは、他人の文章である」ことを明記していればいいと。

 つーわけで、私は、確かに、人より乱暴な言葉遣いを、ときにはするし、「感情を露にしたエクリチュール」でもって、表現もする。

 そういうときは、確かに、腹を立てていたりもする。要は、それを隠して、あくまで愛想よくするか、しないか、の違いである。

 私はときとして、前者を選ぶ。って、まー、そういうことなんじゃないか。

***

 ──インターネットの世界というのは、エクリチュールのみの世界であると言ってもいい。個人も企業も、エクリチュールで、「内容」を表現する。いや、「写真」や「絵」もあったか。しかし、主に、エクリチュールで、より深く、その「内容」を知ろうとする──。

 なにが言いたいかっていうと、その人の書いたものを見れば、だいたい、人となりがわかる、ということだ。そして、それは、もちろん量が多い方が、より推測しやすいものになる。

 ホームページを開いている人の知性も人格も、掲示板に書き込んでいる人の知性や人格も。あるいは、どんな暮しをしているかも、わかってしまう場合がある。その人のエクリチュールのみで。

 もっとはっきり言ってしまえば、「書く」ということは、その人の人格すべてが出る。

 そういうことに無頓着すぎる人が多いのも事実だ。このエクリチュールの氾濫時代。

***

 「Just a Keijibann(たかが掲示板)」

 今回、「リュリュ」さんという人の書き込み対して、私はアタマに来ました。それをそのまま書きました。すると、すぐに、「真」さんが、それとは、全然カンケイのない、諏訪敦彦の映画について書きました。これは、図ってかどうか。たぶん、慎重な「真」さんのこと、図ってでしょう。
 次に、「マジェイア」さんが、フォローしてくれ、その上に、「hiro」さんのフォローもありました。
 私は、ありがたいことだと思いました。フツー、こんなフォローはそうそうあるものではない。それだけ、この掲示板は、よい人材に恵まれているのだ(大げさか?)と。
 「真」さんは、「真」さんなりに、クールに話題を提供することによって、「マジェイア」さんは、長年のつきあいの成果によって(というか、この方は、「悟り」を開かれてますからねー(笑))、「hiro」さんは、私が察した通りの繊細さによって。

 この前には、私は、「RK]さんて方に当てても、それなりのイヤミを書きました。以来、「RK]さんの書き込みはありません。

 すべては、書かれたもので判断する以外にない世界である。

 書かれた言葉に対して腹を立てるしかないし、書かれたもので慰められたりする。

 腹を立てられたら、反論するもよし、二度と書かないと決心するもよし、黙って消えていくもよし、性懲りもなく書くもよし──。

 たかが掲示板、なのである。

 ただ、私は、ときとして、感情を露にした書き込みはするが、自分に不利な書き込みを削除したり、その人を排除したりはしない。できるかぎり、フェアであろうとは思ってるけど、どーなんでしょうー(笑)? いかなる場合も、管理人が一番、有利であることは、心得ているつもりです。

***

 「それなりの自己反省」

 「リュリュ」さんの「いちびる」という言葉の意味がわかりませんでしたが、おそらく「からかう」とか、「おちょくる」というほどの意味でしょうか?

 私が、橋本センセイ(すでにこの言い方が、「おちょくった」言い方であると)を「おちょくっ」て、いたようなので、自分もそれに合わせたと。

 んー、なんつーか、これは一種の「照れ」にも属する行為で、私が関西人に対して戸惑うのは、シャイな部分が全然ないというか……。「照れ」と、「おちょくり」を混同するというか──。「センセイ」という言葉に関して言えば、私は基本的には、作家を先生と言う態度は好きではない。しかし、橋本氏は、心の師と思っているので、「先生」と言いたい。しかし、マジに言うのも無粋な感じなので、「センセイ」と。その他、本気でバカにしてる作家も、「センセイ」と書くことありますが(と、ややこしいんです、内面は)。

 ま、いずれにしろ、自分の記述に、師を「おちょくっている」と、思わせる余地があったのもまた、事実でしょう。

 尊敬しつつ、おちょくるというか──。でも、いずれにしろ、「愛」なんですよ。そのココロは、作家として尊敬する橋本センセイを、藤本某とか水上某とか村上某とか、司馬某とか、中島某とかと、いっしょにしないでー! です。私は、「愛」がなければ、細かい観察なんかしませんから。

 それと、「有名人」なんかなんとも思っちゃいない、ということです。



 ちなみに、私もなんか、昔より、あきらかに禿げてるような……(笑)。



 ほんとに、風邪引いてるんですよー(細かな心遣いありがとう>hiroさん)。体がだるいし、もー死ぬかも……(笑)。



11月12日(金曜日)

 『将軍の娘__エリザベス・キャンベル』__サイモン・ウエスト監督+ジョン・トラボルタ+マデリーン・ストウ(女だけど

 チラシに曰く、「レイプよりも恐るべき事件──」。事件、というか、行為。それは何か、と言えば、「裏切り」である。それも、最も信頼をよせていた人物の。

 人が何に傷つくかといって、これほど傷つくことはないだろう。

 しかし、この映画は、そうした重大なテーマを扱いながら、全然それを、浮き上がらせていないのであった。

 ABCNEWSのMr.Showbizでも20点(100点満点で)だったもんねー。



 しかし、今日は、これをきっかけに、少し話を広げて考えてみよう。「裏切り」という言葉は強いが、広義には、「相手が自分の思惑どおり行動してくれなかった」ということである。

 それが、赤の他人の場合もあれば、信頼していた友人、恋人、家族の場合もある。

 人生で、自分が最も辛い時に、自分が最も頼りたい人が、そのようであった場合、人はほとんど回復不可能なほどに傷つく。その傷をどうやって癒せばいいのか?



 ちょっと大げさなんだけどさ、「掲示板」とかで、傷つく、ということも、それに似たようなところがあると思う。「相手」は、「他者」である。こう出るだろうと読んでいても、必ずしもそう出るとはかぎらない。それに、人は傷つく。

 「掲示板」にも、書きましたが、「マジェイア」さんは、「じゃ、なんで掲示板を開いたんですか?」と問われました。Interactiveであるため、と私は答えました。だからこそ、立てなくてもいい腹を立て、言わなくてもいいイヤミを言い、傷つけなくてもいい人を傷つけ、吐かなくてもいい毒舌も吐きました。

 Interactive=Happy とはかぎりません。

 でもまあ、現実ってものは、そんなものでは……。

 みんなが和気あいあいと楽しくなんてのは、幼稚園の砂場にだってないでしょう。

 私も、確かに、言いたいことは言いました。けど、気分はよくないです。ひどく孤独な気分です。でも、言いたいことを言う以上、こうした孤独は引き受けていくつもりです。



 これまで、女は、十分な孤独に耐えてきたと言えるでしょうか?



 ふたたび掲示板ですが、このような人気のないサイトにわざわざおこしいただき、よくもみなさん、書いてくれたものだと、ほんとうにありがたく思っています、基本的には、というか、毒舌を吐いているときも、そのことは忘れてません。



11月14日(日曜日)

 『トーマス・クラウン・アフェアー』___ジョン・マクティアナン監督+ピアース・ブロスナン+レネ・ルッソ(

 マクティアナンは、ついに、恋愛をサスペンスにしあげてしまいました。

 女は誰だって、心を読まれたがってるって。しかし、たいていの男は失敗する。

 すごくゴージャスな生活がでてくるが、最後は、そんなものどーだっていい! と思わせるのが、恋なのだ。

 男は、大富豪にして、名画の泥棒をシュミにしている男。女は、それを追う、保険会社の調査員で、Bounty hunterなどと呼ばれる女。

 名画の前で、

 女「ふーーーん、犯人は、あれを盗んだの。私ならこれよ」
 男「ふーーーん、きみはこれがお気に入りか」
 女「それを私に贈ってくれるっていうの?」
 男「不可能はない」

 なんちゃって。誰か、ねえー、私はピカソでいいからさー……(笑)。

 ファースト・デートのレストランのテーブルにブルガリのネックレスの箱なんか置いちゃって、
 男「そんな高価なもの、なんて言うなよ」
 女「そんな陳腐なせりふ、言わないわ」

 これって、ほんとに、私が中学生の時に見た、スティーブ・マックィーンとフェイ・ダナウェイの『華麗なる賭け』のリメイクなのかなー? (フェイ・ダナウェイが、精神分析医の役で、ゲスト出演してるのは、その証拠?)。あの時は、全然意味がわからなかった。

 あーあ、せめて、最後に流れるスティングの "Windmills of your mind"(『Brand New day』所収)でも聴いて、その気分に浸りましょ。



11月16日(火曜日

 今日からまた寒くなった。いよいよコタツが、なににもまして心地いい季節である。世の中には、べつにコタツなどなくてもなんとも思わない人々もいる。そういう人々は、足が冷えない人々なのだ。そして、どうも「足の冷える人」と「冷えない人」と、男女を問わず、しかも、人種さえ問わず、世界中に、2種類あるらしい。

 ってことを、スペインで、スペイン人の一家と話してわかった。私が足が冷えると言うと、その家のホアンフォって、「若者」が、「オレも冷える。でもマリアン(姉)は違う。父は冷える。母は違う……」などと──。

 で、案の定、コタツで本を読んでいたら、すぐに寝てしまう(笑)。

 ──そこで、夢を見る。中学生の頃行っていた、英語塾の先生の夢だ。私はまた、英語塾申し込みへ行った。すると、先生は、有名人ばかり来ていると、大して感慨もなく言う。目覚めていく過程で考える、その先生が亡くなって久しい。思えば、よい先生であったが、家庭人としては、問題ありの「夫」であった。ギャンブルに家庭内暴力。奥さんもまた教師で、私の母の幼なじみであった(そういう縁で、その塾に行くことになったのだが)ので、母のところに、よく「助けを求めに来た」──。

 Il y a bien des annees de cela.(それから長い年月が経っている)

 と、「プルースト」を開くとあった。眠る前に読んでいたのは、べつの本であったが。

 La possibilite de telles heures ne renaitra jamais pour moi.(そのような時間が、私に生まれるのは、もう二度とないだろう)。



11月18日(木曜日)

 『バッファロー66』
__ヴィンセント・ギャロ監督・脚本・主演+クリスチナ・リッチー+懐かしのスターいろいろ。

 あれ(『トーマス・クラウン・アフェアー』)も愛、これも愛〜♪。でも、この種の愛の方が、より現実に近いのだろう。なんか夢がなくなってしまうが。そうだ、愛なんてものは、夢がなくなったところから、はじまるのかも──。

 アメリカの寒々とした風景は、そのまんまアメリカなんだろう。

 クリスチナ・リッチーは、若年ながら、あっぱれな役者だ。アンジェリカ・ヒューストンもすごいが。

 余談ながら、今流行りの「ブラピ」も、やがては、このなかの、ジャン・マイケル・ヴィンセントや、ミッキー・ローク(かつては、飛ぶ鳥を落とす勢いだったもんねー)みたいになるんでしょうよ。運がよけりゃ。



11月22日(月曜日)

 『黒い家』
___森田芳光監督+内野聖陽(なんて読むんだ? これ)+大竹しのぶ

 森田芳光はほんとうに映画を撮ることがすきなんだろうか? たまたま、最初の作品が評価されたんで、そのままズルズルやってるんじゃないのだろうか? ほんとうに、他の監督の作品を見て、勉強してるんだろうか? 演出とか演技とかいうことを勘違いしてるんじゃないんだろうか? 役者の不気味さを演出と思っているのではないのだろうか? 役者って存在は、なんにも手を加えないと不気味なものよ、っていう、そういう映画。

 また、「恐怖」というのは、想像力が作り出すもので、想像力の入り込む余地ない本作品は、巷で言われているほど、というか、映画会社が宣伝してるほど、恐くない

 ただ、不気味さ、というより、役者という肉体の、不快さ、はある。それを観客に、ぐいぐい押しつけてくる。それを、なんらかの価値として、評価する人もいるかもしれないが、私は評価しない。




11月23日(火曜日)

 でもなんか、大竹しのぶと西村雅彦が乗り移ってるような気がするのは確かだ。だって──

『アナライズ・ミー』(ハロルド・ライミス監督+ロバート・デ・ニーロ+ビリー・クリスタル)

を見ても、映画館を出て、思わず口真似してしまったのは、大竹しのぶと西村雅彦の口調だった。そういういつまでも、あとをひく映画が、よい映画か、そうでない映画か、私はわからないのであるが。

 で、どうなのよ? 『アナライズ・ミー』。うーーーん、これもねー……もう少し軽さがほしいというか。デ・ニーロの演技は軽さとは無縁だけど、ビリー・クリスタルも、意外と重い演技をする役者だった。



 「non-no」特別増刊「Bella non-no」(SHUEISHA)1月1日号を買う。「家具と雑貨とパソコン」の本てあったから。「シンプレム登場でパソコンの選び方が変わった」__「パソコンをはじめたいけど、部屋に合うパソコンがないからとPCライフをあきらめていた人に、ビッグニュース! とうとう、ナチュラルな部屋に似合うナチュラルなパソコンが登場しました」だって。

 なんか、よさげだけどなー。このシンプレムとかいうやつ。でも──

 「パソコンをはじめたいけど、部屋に合うパソコンがないからとPCライフをあきらめていた人」って、そんなやつおるのかー?! って、この私です(あきらめた結果、AKIAのノート使ってる)。

 「そーかぁー、保険金出んのかぁー、そーかぁー、保険金出んのかぁー」って、今年いっぱいゆってるかもねー(笑)>私




 



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