1月8日(月曜日)
訪問者のみなさま、謹賀新世紀、おめでとうございます。日記の中から失礼します。12/28〜1/8まで、長い休暇をとっておりました。その間、二本の映画を見た以外、ほとんど何もしてませなんだ。その二本の映画とは、
1『オーロラの彼方へ』___グレゴリー・ホブリット監督+デニス・クエイド+ジム・カヴィーゼル___ニューヨークにオーロラの現れた日、次元が交錯するとか……。古いアマチュア無線の無線機を通して、「死んだ父」と、30年と時を隔てて、交流する。心暖まる映画と思いきや、時差を利用した、新しい趣向のミステリーでもあった。ラッセル・クロウに妻メグ・ライアンをとられたデニス・クェイドが、いかにもの父ぶりを好演。息子役の役者の真摯さもよい。
2『ホワット・ライズ・ベニース』___ゼメキス監督+ハリソン・フォード+ミシェル・ファイファー___んー……どうということはないミステリー。
本年もよろしくお願い申し上げます(
)。
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(おまけ)
甥のアキラ(10歳)はレゴ歴10年近い。今ではアイボのような動く犬も作ってしまうが、基本セットで特別作ってもらった、「ハルちゃん」、わが顔である。

1月10日(水曜日)
『13デイズ』___(キューバ)危機なんだろうけど、山場がない。まあ、ケビン・コスナーは、よくやっていたのではないか。
1月18日(木曜日)
『初恋の来た道』___チャン・イーモウ監督+チャン・ツィイー___この映画は、「初恋」ではなく、「来た道」に重きがかかっていると思う。僻村の、「街」=「外部」につながる一本道から、学校の先生が来て、「初恋」が来て、つまりは、「変革」が来た。
前に『あの子を探して』でも書いたと思うが、チャン・イーモウは、だんだん肩の力を抜き、シンプル化に向かっている。それだけ、「生」及び「生活」は、生き生きとしたものとして現れる。
少女の作る餃子のうまそうなこと!
ゴダールと全然違うんだけど、「90分の作家」になったという意味で、ゴダールを思い出した。よい傾向じゃ。
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(おまけの余談)
実は、上記、アキラ少年の兄、ハジメ少年(小学五年生)に、お年玉をもらってしまったのだ。なんでも、私が、「来年はちょうだいよ」と言ったとか(苦笑)。金額は400円だけど、なぜ400円かと言えば、財布の中にあったありったけの金額とか……。この子は、若いのに、老成していて、「新聞はあまり読まないからなー」と言いながら、「12省庁になったことには驚いた」なんて、下手な大人より読んでるじゃん。悪いと思いながら、「来年は、(お年玉の)金額増やしてね」と言う私だった(
)。
1月20日(土曜日)
『ことの終わり』___グレアム・グリーン原作+ニール・ジョーダン脚本&監督+レイフ・ファインズ+ジュリアン・ムーア
実はグリーンの原作の文庫本は手元にあるが、読んではなかった。そういうハナシだとは知らなかった。しかし、どこまでが、ニール・ジョーダンの手柄なのだろう? あらためて、読んでみなければいけない「古典」であるな、とも思った。というのも、この作品で、ヒロインがたてる「誓い」は、スタンダールの『パルムの僧院』を思わせたし、ヒーローの行動は、安部公房の『燃えつきた地図』を連想させたからである。
それにしても、これほど、性交シーンのなまめかしく、かつ、美しい作品はない。ジュリアン・ムーアの慈悲をたたえたような眼差しと、レイフ・ファインズの気品のある体つきが、結局、精神的なものに還元されるラブストーリーを、リアルなものとして信じさせる。
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『ナボコフ夫人を訪ねて』マーティン・エイミス(大熊栄・西垣学 訳 河出書房新社 2000年12月30日刊)
『時の矢』の作家、マーティン・エイミスのエッセイと言うなら、読むに値するだろうと思ったが、そのとおりであった。「若手作家」が「偉大な作家」を訪ねるインタヴューも、単なる「ルポ」記事に終わっていない。そこには文学的な深い味わいがある。
奇しくも、「グレアム・グリーン」を訪ねたエッセイが冒頭に載っている。実はこちらを、上記の映画より先に読んでいた。んーーー、グリーンは、上記の映画の世界と、それほど違わない雰囲気の世界を生きている。
表題作、「ナボコフ夫人を訪ねて」も興味深い。これを読むと、ナボコフ夫人は、ナボコフと同じくらいの才能があったのだな、と思わせる。
しかしながら、このエッセイ集、オリジナルは、1993年刊のものである。さすがにエイミスの省察は、「時分の花」ではないが、この「時差」は、なんとかならなかったものだろうか?(とは言うものの、7年前に出ていたら、この本を手に取ったかどうか、わからないのだが……(笑))
1月21日(日曜日)
『イギリスから来た男』___スティーヴン・ソダーバーグ監督+テレンス・スタンプ+ピーター本田
「名優、テレンス・スタンプ」に捧げられたオマージュ。しかし、この名優を知らなかったら、面白さは半減。実は私も知らなかった。60年代に活躍したそうな。60年代と言えば、小学校じゃないか(笑)。私と同じ年頃であるはずのソダーバーグは知ってたんでしょうよ、当然、映画監督になるくらいだからね。
ソダーバーグ自身は、アメリカでは、「文体」のある映画監督で、嫌いではないけど、これは、ちょっと、なんか肩透かしって感じだった。とくに、昨日の『ことの終わり』が濃厚であったせいか(笑)。
ピーター本田は、なんか馬みたいだなー……すかん。
1月25日(木曜日)
『追撃者』___シルベスター・スタローン+(か、かんとくが……わからんようになっとる、チラシでは)
すごく読みにくい赤い字で、なんかスタッフが書いてあるような気もするが……。
ほんと、スタローンさえ、出りゃ、ええんかい?
実を言うと、わりあいノッて見てたんです(笑)。オープニングの音楽も映像もそれなりにセンスいいし。
ひさびさ、B級(蓮實重彦の『ハリウッド映画史』を読むと、B級には厳密な定義があって、俗に言われているのと違うようだが……、ま、ここでは、「俗に」)アクションの秀作と思ったけど、
50歳を遥かに過ぎてるはずのスタローンの顔に、皺一本もないのは、やはり、無気味であった。
1月27日(土曜日)
『ジャンプ』佐藤正午(光文社、2000年9月刊。本書は11月刊の6刷)___本の帯に曰く、「恋愛小説の名手が、失踪をテーマに描く最新文芸ミステリー」。
佐藤正午の小説はあんまり読んだことないので、「恋愛小説の名手」かどうか知らない。知らないが、本書で描かれているのは、「恋愛」ではない。冗談じゃないよ、このテードのものを「恋愛」って呼ばれちゃあーねえー。さりとて、本書は、「ミステリー」でもない。なるほど、「導入部は、ミステリー仕立て」である。しかし、書き手が、ある事柄を語るのを、あの手この手を駆使して引き延ばしているだけで、「謎」は一向に深まらない。というか、188ページあたりで、作者は、どうもミステリーであることを放棄し、微妙にべつの小説にすり替えていることがわかる。その事態を、版元は、「文芸」と言うのであろうか? つまり、破綻したミステリーを。
つづいて、「失踪がテーマ」であるが、それさえも、この小説は疑わしい。人ひとりの失踪という自体を、作者は真剣に考えていないからである。つまり、「失踪」は「テーマ」なのではなく、「ファッション」である。
「そのうちいつか、南雲みはるの失踪の理由についてすら僕は関心を失ってしまうだろう」(264ページ)___だったら、なんでこんな小説書いたんだよー?
「要するにふたりのつきあいはまだその程度だったのだ。僕たちは言わばスタートラインに立ったばかりで、お互いがどんなタイプの人間であるかもよくつかみ切ってはいなかった」(263_264ページ)___だからといって、「失踪」という事態を軽んじていいことにはならないだろう。
要するに、作者は、なにも真剣には考えていない。考えているのは、「作家としての成功」である。佐藤正午の頭の中にあるのは、「ここまで書けば読者は感心するだろう」ということだけだ。
帯には大きな文字で、「各紙誌・TV絶賛!」とある。現に売れてたみたいだし、ま、「念願かなってよかったね」なんだけど、上記で「絶賛した」レヴュアーは、「いったい何を絶賛したのか?」は、本書最大の「謎」である。
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だいたいなー、女が男の前から姿を消す。それが犯罪に巻き込まれたのではなく、「本人の意志によるもの」なら、その男が嫌になったに決まっていると、たいていの読者は気づくと思うんだけど、どうも佐藤正午は気づいてないようなのだ(笑)。
まあさ、世の中で「売れてるもの」なんて、なんでこんなものが? ってものもたくさんあって、本書もそのひとつでしょう。
1月29日(月曜日)
『ハート・オブ・ウーマン』___ナンシー・メイヤーズ監督+メル・ギブソン(
)+ヘレン・ハント
他愛のないストーリーである。しかし、メルはそれに命を吹き込む役者である。かてて加えて、シカゴの広告業界もよく描かれている。「ナイキ」のコピーが作られる過程、そのコピーもリアルである。
「受け」にまわる女優陣がまたいい。女のココロを完璧に理解できる男を存在させた女の映画のようでありながら、その女たちが「引いた」演技をしてメルを輝かせている、真の意味でのフェミニズム映画。もちろん、
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余談であるが、どんな物語も主人公が変わっていくから面白いし、観客あるいは読者はそこのところを見たいのだ。それなのに、1/27に書いた佐藤正午作品は、最初から最後まで主人公は変わろうとしていないし、現に変わらない。つまり作者もまた、それを書く前と後で、ほとんど変わってない、むしろそれをよしとしていると見受けられる。つまりこれは、「作品」ではない。(と、まだ言ってるー(笑))