4月1日(日曜日)
『ミート・ザ・ペアレンツ』___ロバート・デ・ニーロ+ベン・スティーラー
私はこういう、親に「娘さんをください」と言いにいって、そこですったもんだあるという話があんまりすきではない。で、主にどこに目を奪われていたかというと、グィネス・パルトローの実母である女優の、ブライス・ダナーの演技である。う、うまい! いかにもの、「中流家庭の主婦」である。やはり、パルトローの演技力は母親譲りであったのか……。で、ミート・ザ・マザー(笑)。
4月3日(火曜日)
拙宅のまわりにも、いつしか春が来ていたことにようやく気づく。マンションのどーでもいいような花壇には、小さな野生のスミレが。
また近くの土手のまわりには桜の木があるが、それが満開なのはあたりまえとして、問題は、「下」の土手の部分である。なんと、野生のフリージアと、野生のスズランが……。スミレは、「やはり野におけ」として、フリージアとスズランは、誰も見る人もいないし、草茫茫の土手なので、摘んできて瓶に活けてみた。
野生のフリージアやスズランがほんとうにあるのかどうか知らないが、このスミレといい、種が風に乗って、どこかから飛んで来たのだろう。こうして、ありとあらゆる種が飛び交い、芽吹く春である。
野生のフリージアとスズランには、プルーストがよく似合う、と思ったので、さっそく、捧げさせてもらいました(メニュー写真参照)。なんか仏壇に花を御供えするような、そんな感じ(笑)?
4月5日(木曜日)
『あの頃ペニー・レインと』___キャメロン・クロウ制作・監督・脚本+パトリック・ヒュジット+フランスシス・マクドーマンド+フィリップ・セイモア・ホフマン+ケイト・ハドソン(えーーー? ゴールディー・ホーンのむすめぇー? 全然似てな〜い)
たった十五才でローリングストーン誌のライターになった少年の、ビルドゥングス(教養)映画である。まあ、それなりにリアリティーがあった。しかしなんといってもこの映画の魅力は、大学教授の厳格な母親役のフランシス・マクドーマンドと、二流のロック雑誌の編集者役の、人間カメレオン、フィリップ・セイモア・ホフマンの存在であろう。この二人の演技は、ほんとうに、いつまでも、いつまでも、いつまでも、見続けていたいという気持ちにさせられる。
4月8日(日曜日)
『ハンニバル』___リドリー・スコット監督+アンソニー・ホプキンス+ジュリアン・ムーア
んーーー……こういう背徳的なテーマの映画が、これほどまでに美しくていいのか? 15才以下は入場不可だが、もし、世界観のできあがっていないコドモがこれを見たら、人を食ってもいいんだ! なんて考えかねない。事実、なんかウマソー!ではあった(笑)。
猟奇映画をビスコンティが撮ってしまったようなもんだとか。
ジュリアン・ムーアのクラリスも、ただつっぱっていた修習生のジョディー・フォスターが人間的に成長した感じでいいし、なによりこの女優には、内側から湧いて出るような慈悲深さがある。「色」を売らない捜査官のきびきびした態度にも好感が持てる。だからこそ、レクター博士に「見込まれた」のだろう。もちろん、彼は、彼女の「弱さ」も熟知していて、その点を突いて来るのだが。この作品は、怪奇スリラーものなのかもしれないが、人物描写が奥深い。
もちろん、レクター博士の神に挑戦するかのような、一瞬の躊躇もない、「胸のすくような」(?)残虐さもよい。
かてて加えて、舞台の一部を光と影の交錯する歴史の街、フィレンツェにし、そこに、脇役として、イタリアの名花(男でもそういうのか?ではあるが)、ジャン・カルロ・ジャンニーニを配したセンスのよさにも脱帽である。
おまけに、レクターの「被害者」にして、今回の「悪者」(この映画の不思議さは、普通の倫理からすれば、レクター博士がいちばんワルなんだろうけど、毎回、「悪者」はべつにいるところである。考えようによっては、すごい倒錯した映画である。ゆえに、コドモには危険なんだろう)役の、顔の皮を剥がされた、見るも無惨な大富豪に、あのゲーリー・オールドマンが扮している。こういう役を進んで引き受け(たかどうかは知らないが)る役者というのは、まあ、エライです。
というわけで、何をとっても、満点の映画である。
4月16日(月曜日)
『山の郵便配達』___フォ・ジェンチイ監督+トン・ルゥジュン+リィウ・イェ+ジャオ・シィウリ
1980年代、中国の山岳地帯では、まだ、徒歩で郵便を集め、配る、配達夫がいた……。その仕事を、息子に引き渡すべく、同行する父と、犬……。二泊三日の行程を、ただ父と息子と犬が行って帰るだけの話。
美しい自然、そして意外な感じもするりっぱなシェパード犬にわれわれは目を奪われる。そうだ、われわれも、かつて、山があり、里がある、生活を営んでいたはずなのだが……。
4月19日(木曜日)
中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』(集英社、2001年3月10日刊)
読み進むに、困難な本である。その困難さは、
1、学問的(哲学、数学など)用語と、その内容の難しさ
2、中沢自身の文体のわけわからなさ
に尽きる。言われていることはごく単純なことである。つまり、田辺元という思想家が1930年代頃いて、彼の著作は、「現代思想」に通じるものである____。
そこでわれわれは、「現代思想」では何が問題なのか、どういう流れになっているのかをお勉強し、これに挑めばいいのである。
私自身、田辺元という思想家を知らない。で、とりあえず、一番入手しやすいと思われる著書、『懺悔道としての哲学・死の哲学』(長谷正富・解説、燈影舎、2001年1月25日刊)を、「かじって」みた。うーーーん……む、むずかしー……。しかし、この難しさは、中沢の本の難しさとはどこか違う。難しいながら、ここには実質的な手ごたえがある。
「懺悔して、して、し続ける」、「わたくし」(田辺)の哲学は、結局これしかない、と田辺は言うのである。これは、アウグスティヌスの『告白』だな、と私は思ってしまった。これを、なんとか「自家薬籠中」のものにしようとしているのだな、と。ひょんなことで私は、中央公論「世界の名著」シリーズの『アウグスティヌス』の巻を見ていたので、そう思ったのであるし、事実、その巻の解説には、「田辺元」の名前も見える。
さて、中沢の『フィロソフィア・ヤポニカ』の前半は、構造主義の代表的人類学者、レヴィ・ストロースと、田辺の共通点を証明するために費やされている。田辺の思想が、いかに構造主義的であったか、ということである。
今村仁司『現代思想の基礎理論』によれば、レヴィ・ストロースは、ソシュールの言語学より、その人類学的構想をインスパイアされたそうである。
ラカンは、そのソシュールのシニフィアン、シニフィエの図式を変更するのだが、その際、シニフィアン、シニフィエを、アウグスティヌスの概念より援用している。……つーことは、なんかどっかで、繋がってしまうものなのである___。
つまり、私が言いたいのは、べつに中沢に教えられなくても、田辺を読めば、これは、「現代思想」だな、ということはすぐにわかる、ということである。
しかし、こうして、教えられなければ、田辺元などという思想家の本など、手にとってみようとも思わなかっただろう、ということは言える。
で、この『フィロソフィア・ヤポニカ』はどんな本なのか? 「現代思想』という点から見ると、「他者」(この言葉は、本書中、たった一ケ所にしか出て来ない。しかも、軽い意味で)を欠いた、日本の思想界から見ると、「政治」を欠いた(蓮實重彦、柄谷行人、浅田彰が「政治的」であるという意味において(そういう意味では脳天気な))、「友愛の哲学」などと、自らが「物語」を作ってしまっている、「力作」である。
いみじくも「帯」に、「舞踊的感性で肉薄する」とある。まさにこれだな、と私は読み終えて思った。
これは、中沢新一という「宗教学者」が、「日本思想」という踊りを踊っている、その光景なのである(合掌)。
(まー、この「踊り」は、日本の「舞」というよりは、サンバかなんかでしょーねー)
4月20日(金曜日)
『スターリングラード』___ジャン=ジャック・アノー監督+ジュード・ロウ+ジョセフ・ファインズ+レイチェル・ワイズ+ボブ・ホスキンスandエド・ハリスas 「ナチスのスナイパー」
この映画は、ナチス・ドイツもロシア軍もない、ひたすらに、ジュード・ロウが美しければそれでいいという映画である。「毎日新聞」映画評の広瀬千尋は、スナイパー対スナイパーの「近代戦」歴史物に感嘆しておったが、はっきりいって、言語が重要な役割を果たす戦争モノで、ドイツ人もロシア人も英語をしゃべり、おまけに「通訳」役も存在する、そういう粗雑な映画を観て、そこに「歴史」を見、感動できる人はシアワセである。しかし私も、実を言うと、感動しちゃったのよ(笑)。
「歴史映画」に、ではなく、ジュード・ロウの美しさに(
)。文字がやっと書ける程度のウラルの山奥で生まれた羊飼いは、射撃を(それは彼らの生存に関わったものだったので)祖父に鍛えられ、天才的な狙撃の腕を持っていた。ゴミのような兵卒として、スターリングラードに送られるが、そこでその腕を発見される___。
泥と血に汚れたジュード・ロウが美しい。ほんとうの美男は、こうした瓦礫の中でこそ、その美しさを発揮するものだろう。
教養はないがバカではない。彼の表情からはそういうものが読み取れる。ジュード・ロウは、美しいだけではなく、知性も兼ね備えた珍しい俳優である。
(ジャン=ジャック・アノーは、きれいな男がすきなんだろーなー……、「名匠」かはともかくとして)