金色日記 Diary in Gold


6月25日(月曜日)

 『クイルズ』___フィリップ・カウフマン監督+ダグ・ライト+ジェフリー・ラッシュ+ケイト・ウィンスレット+ホアキン・フェニックス+マイケル・ケイン

 どうもセリフのやりとりが演劇っぽいと思ったら、やはり、もとは、「演劇」で、しかもその戯曲家ダグ・ライトが、脚本も書いているのだった。オフ・ブロードウェイの作品で、オビー賞の脚本賞を受賞していた。

 「クイルズ」とは、羽ペンのことで、主人公、サド公爵の「作家ぶり」を描いた作品である。その作家ぶりは(カウフマンの演出は、相変わらず「大味」であるが)、見事というほかなく、サドにいたっては、「男の純情」まで感じさせ、ほんとにサド公爵って、ワルイひとだったの?

 山形の大学のコーハイ、サトーくんが、さくらんぼを送ってくれる。なんだ、メロンじゃなかったのか、なんてゆー贅沢を言うと、さくらんぼ神様のバチが当たかもしれないから、感謝しつついただく。


6月28日(木曜日)

 水泳。雑誌『ターザン』で、きれいに泳ぐ方法みたいなのを読んで、実行してみるが、思うほどうまくいかない。記事は、いかにも、すぐ実行できるみたいに書いてあるが、あれは、クセモノだなー。コースには誰もいないから、背泳ぎでもやってみるか(笑)。


6月30日(土曜日)

 『A.I.』___スティーブン・スピルバーグ監督+ハーレイ・ジョエル・オスメント+ジュード・ロウ+フランシス・オコナー+ウィリアム・ハート

 あのキューブリックに捧げたためか、キューブリックの作品を引き継ごうとしたためか、スピルバーグ作品としての「純度」にかけるようにも思ったし、なかに、「キューブリック臭」が混じっているようでもあった。

 しかし、やはり、捨てられた少年ロボットが数千年を旅するという設定は、泣かせる。「愛」は、生身の肉体など必要としない。「愛」そのものが自立してしまうところに、この映画の新しさがある。

 『花様年華』___ウォン・カーウァイ監督+トニー・レオン+マギー・チャン

 こちらも「愛」なのだが、1960年代の香港の住宅事情(男と女は「中流」階級に属する既婚者なのに、「両家族」それぞれ、アパートの中の部屋を間借する)に圧倒されて、肝腎の「愛」に目が向かなかった(笑)。

 それにしても、広いアパートなんだろうけど、ひとさまの家の一角を借りての住まい、出入りには、絶対にその家の人の顔を見なければならない。かてて加えて、ラーメンやら餃子やらが入り交じり、「ランチャー」(商品名、かつて流行った、弁当を温かいまま持って行けるジャー)のようなものを持って歩く、高い襟の(従って首が短いと着られない)チャイナドレスに身を包んだマギー・チャンのとっかえひっかえの衣装のなかで、結局は「寝ない」大人の愛が進行するのだが、そうこうするうち、こっちが「寝て」しまった(笑)。

 でも、これは、「内省的」で「文学的」な作品だそうだ。


7月2日(月曜日)

 仏滅……のような日であった。


7月3日(火曜日)

 大安……のような日であった。

 つれづれなるままネット界をさ迷っていたら、バースさんとこに、わがサイトのリンクを発見し、氏の作ってくれたバナーを見て、「初心」を思い出した。

 私の「初心」というのは、サイト作りにあたって、どのようなサイトにしようと考えた時、「作家」としてのゴダールの態度を見習ったものにしようということであった。「返す返す、初心を忘るべからず」。つーことで、その「初心」を、「トップ」と「日本語」ページに反映した。



7月4日(水曜日)

 『テイラー・オブ・パナマ』___ジョン・プアマン監督+ピアース・ブロスナン・ジェフリー・ラッシュ

 007のピアース・ブロスナンが、007の「その後」みたいなMI-6の諜報部員を演じる。当然、観客は、007の「予備知識」のもとにそれを観る。この作品の面白さは、この配役の妙に尽きる。007の、あの「美しさ」はそのままに、人間的には、もっと泥臭く、リアリティがある。大々的なスパイ物の時代は終わり、人の生き方はもっと軽く、スピーディーになってきた。まさに21世紀の映画である。

 パナマという土地の匂いが溢れ、音楽も生きている。

 もちろん、「美しきオジサン」ブロスナンを補佐する、ジェフリー・ラッシュの名演も不可欠である。


7月6日(金曜日)

 思うところあって、Webの大改造を行った。はじめてホームページを開いた頃のような新鮮な気持ちだ。これも、「初心」か。


7月8日(日曜日)

 『ザ・コンテンダー』___ロッド・ルーリー監督・脚本+ゲイリー・オールドマン・ジョーン・アレン・ジェフ・ブリッジス+クリスチャン・スレーター

 ついに女が副大統領に? という話題はそれほど、新しくない。この映画の趣旨は、どうもそういうところにはない。確かに、女性副大統領候補が、「競争者」の妨害を躱していくハナシだが、キワモノではなく、政治家としての信念を貫くというカタチで成し遂げていく。思えば、そういう正当な政治映画で、女性が主役というものは、今までになかった。

 彼女は、男性と同じように、セックス・スキャンダルを暴かれるが、女性として、というより、人間として、りっぱに対処していく。そこが問題である。

 ゲイリー・オールドマンが、またいつものように、なんともイヤな奴を演じているが、製作総指揮を兼ねているところを見ると、大したリベラルである。

 ジェフ・ブリッジスの大統領も、豪胆ながら、器を感じさせてよい。

 しかし、アメリカの役者というのは、たとえば、ホームレスを演じたりしても、こういう政治劇になれば、ちゃんとそれなりの、貫禄なり風格を漂わせることができるというのは、すごいな。役所広司に、首相が演じられるだろうか?

 おっとー……誕生日であった。


7月9日(月曜日)

 誕生日プレゼントとして、甥のアキラ(小学五年)が、レゴでどんなものでも作るからリクエストして、と言ったので、「イリオモテヤマネコ」と言ったところ、これを↓送ってきた。

アキラ「ところで、ハルちゃん、いくつになったの?」
ワタシ「ん? 38才」
アキラ「ママより若いわけないじゃん!」

 「A.I.」を観て、泣いた(アキラ)。


7月11日(水曜日

 『タップ・ドッグス』(オーストラリア映画)___デイン・ペリー監督+アダム・ガルシア+ソフィー・リー

 ABCニュースの「ミスター・ショービズ」レヴューでは、『フットルース』と『フルモンティ』の出会い。などと書いてあった。むしろ、私は、『リトルダンサー』にそっくりのような気がした。いずれにしろ、近頃のイギリス映画にある、さびれゆく工業の街に住む労働者たちが、芸術(ダンスだったり、音楽だったり)を拠り所として生き、それをされに「発展」させるというハナシである。

 そこには、「青春の蹉跌」があり、「妨害」があり、「親子の葛藤」がある。それらを乗り越え、青年は、夢をカタチにするのである。

 この場合、その「夢」は、タップダンスであるが、そのダンスがすばらしい。まさに、自分たちの生活の中から題材を得、それを洗練させている。本来、芸術というものはそういうものだろう。

 ……と、ここまで書いてきて、思い出したのは、確か、あの『フルモンティ』(労働者たちがストリップで金を稼ぐ)の「原作」はオーストラリアにあり、それが、「盗作」騒ぎになったみたいなウワサをどこかで読んだことである。

 うーーーん……もしかして、一連のイギリス労働者モノは、オーストラリアの方が「本家」だったのかもしれない。なんか、皮肉なハナシだな。




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