1月21日(月曜日)
『息子の部屋』___ナンニ・モレッティ監督+ナンニ・モレッティ+ラウラ・モランテ
地味な映画である。このような映画が、カンヌ映画祭でスタンディングオベーションを得、パルムドール(最優秀賞)を取るとは、あちらの人はやはり、作品を見る基礎ができている。声高に何かを語るわけではない、これといってドラマチックなシーンがあるわけではない。しかし、この映画がラストへと観客を引き摺っていき、そこに見せた光景は、紋切り型を突き抜けた「作品」という世界である。
関係ないかもしれないが、ヴィクトル・エリセの『マルメロの陽光』を思い出した。ラテン系というのは、ほんとは地味な国民なのかもしれない。
1月25日(金曜日)
『ハートブレイカー』___デヴィッド・マーキン監督+シガニー・ウィーバー+ジェニファー・ラブ・ヒューイット+ジーン・ハックマン+レイ・リオッタ
親子で、セクシーな容姿を武器に、結婚詐欺。しかし娘がほんとうの恋に落ちて……。しっかし、シガニー・ウィーバーも、いくら演技とはいえ、五十になろうとするのに、よおやるよ。却って、同じ詐欺仲間の、アン・バンクロフトのばあさんの方が知的に見えた。アン・バンクロフトはいいなあ。いつでも白髪を出したままで、お茶めでクールな女を演じる。
ジーン・ハックマンは金がないのか、あんまり旨味もないようなチョーダサのジーサンを、やはり、違った意味で、ようやるよ、なのだが。
1月28日(月曜日)
金井美恵子センセイの新作、『噂の娘』(講談社、2002年、1月刊)を数ページ、読み始めるが……。これって、『失われた時を求めて』の、群馬版なのだろうか? 1950年代の商店街に生活する小学生の「私」から見た、いろいろ、その時代の風俗や人間関係を描き出す。表紙に使ってある子どもが描いたような女性の絵は、作者の姉で画家の、金井久美子氏が、やはり、1950年代に小学生であった時に描いた絵で、氏らの母親が死んだ時、未整理の箱から、たくさんのほかの絵や文章といっしょに発見されたひとつだと、「あとがき」にあった。
だからなんなのさ、であるが。
こういう「あとがき」に示されているように、どうもこの小説は、プルーストのように、評論を孕んでいるわけでもなく、言葉がどこへ行くのかわからないアナーキーな部分があるわけでもなく、ただ、計算通りの光景を描き出すために、これも、いみじくも「あとがき」に、「セットを壊した状態」とあるように、作者としては、言葉を使って、映画のようなものを構成しているつもりなのだろう。
こういうものを読んでいると、なんともイヤな感じがしてきたのは、すでに計画された図から、言葉をはみ出させないというか、これから読者が読んでいく世界は、すでにわかりきったものでしかないという死の匂いである。
思えば、私にも、思い出すべき「幼児の時間」はある。しかし、それを書き出せば、いつも、思わぬ方へと言ってしまう。たとえば、私が通っていた近所の駄菓子屋には、いつも店の奥に、手が不自由で、いつも片方の手を胸の位置で止めていて、着物と羽織を着た男の人が座っていたが、店の人がいない時には、いざるように店先に出てきて、「あううう……」と言ったが、たぶん、あの人は、店のお婆さんの息子だろうが、あの人の時間といったものは、どんなものだったのだろう、おばさんと言ったって、今から言えば、大してトシだったわけではないかもしれない、とか、自分も手を胸のあたりで止めることがあるが、そのたびに、その人のことを思い出したりするのだったが、だからといって、それを、「映画めいた」場面に構成することは、私にはとてもできない。はなからそういう趣味がない。
つまりは、自分の過去の時間への無関心というよりも、乗り越えたものが、それを見ると、穴へ入りたいと思う気持ちを起させる方が強いのかもしれない。あるいは、私の胸を締めつけてくるものは、もっとべつの、ほんとうに失われた時間、もの、であるからかもしれない。
……と、いうようなわけで、結局、金井美恵子は、作家ではなく、詩人、それも、日本の現代詩人のような言葉とのスタンスを持っていると思った。ならば、自分には関係のない作家であり、読むのをやめた。
1月29日(火曜日)
『ヴィドック』___ピトフ監督+ジェラール・ドパルドュー+イネス・サストレ
話題のデジタルカメラ、HD24pで撮影したとかいう、19世紀の汚らしいパリを舞台にした、『鉄仮面』を思わせる雰囲気の怪奇探偵映画。主演は、役者のくせに己をコントロールできないのか、デブれるだけデブったジェラール・ドパルデュー。
そのゴシック的時代の空を、高速度撮影したような映像にどんな意味があるのか? 眠りをこらえるのに必死。
2月2日(土曜日)
『オーシャンズ11』___スティーブン・ソダーバーグ+ジョージ・クルーニー+ブラッド・ピット+ジュリア・ロバーツ+アンディ・ガルシア+マット・デイモン
「ダサい映画は絶対に作らないソダーバーグが、考えうる最も贅沢なキャストで作り上げた、最高に興奮させる犯罪アクション」とチラシにあるが、今回、そのダサい映画を作ってしまった、ようである。
なぜなら緻密な犯罪モノであるはずが、結局、「愛の物語」に落ちついてしまったからだ。かてて加えて、期待のジュリア・ロバーツは添え物。どうもド庶民を演じないとよさが発揮されない。豪華キャスト陣のなかで主役を張るジョージ・クルーニーにしてからが、もったりしていて、とても切れ者には見えない。
なかで輝いていたのは、ブラッド・ピットだった。ノリが軽い、存在が軽やかで、うーーーん、21世紀は、こういう存在でありたいな、と思わせる。
2月5日(火曜日)
『地獄の黙示録・特別完全版』___フランシス・フォード・コッポラ製作・監督・脚本・音楽+マーロン・ブランド+マーティン・シーン+ロバート・デュバル+デニス・ホッパー+ハリソン・フォード
79年の「オリジナル版」の、もとのフィルムを新たに編集しなおし、カットされていた場面を付け加えた、結果として「オリジナル版」より、53分長くなって、3時間23分の作品。
「オリジナル版」が、「特別完全版」より短く仕上がり、あのような物語になったのは、外的な圧力というよりも、コッポラの個人的判断であったようだ。そして、今回また、旧作を新たにして提出しようと思ったのは、たまたま旧作をテレビで見て、もう一度、「今の時代」に合うように作りなおしてみたいと思ったからだそうだ。「今の時代」といっても、そう思いついたのは、1999年、まだ20世紀の頃であった。
新、旧、ふたつの『黙示録』を見て思うのは、この二つでは、結末が違っているので、必然的に話が違っているということである。ヴェトナムの川の奥地で行方を断ち、「脱走兵」というには、あまりにカリスマ的な存在と化したカーツ大佐(マーロン・ブランド)を暗殺する密命をおびて、数名の部下とともに、「小舟」のような巡視艇で川を上っていくウィラード大尉(マーティン・シーン)は、カーツに会い、前任者と同様に、彼に「取り込まれ」てしまったのではないか、と思われたのが前作であったが、あの、川の水の中から、塗料でカムフラージュされたウィラードの顔が、ぬっと現れるシーンは、彼がミッションを始めるシーンであり、物語は、ミッションを遂行して終る。
そうして見ると、「新作」は、ウィラード大尉=マーティン・シーンのハードボイルド物語なのである。
彼は、戦争という状況のなかで、ほかの戦争映画の登場人物と同じように、倦み、疑問を持ち、孤独に陥り、揺れていた。精神は狂気の三歩手前のあたりまでいくが、冷静を保っている。
ヴェトナムという場所で、精神に異常をきたしたような人々(これは、べつにこの作にかぎったことではなく、今では、われわれにとって、それほど衝撃的なことではない)に接しながら、結局彼は、己の「ミッション」を忘れず遂行する___。
ジャングルの場面に、横たわったマーティン・シーンの、頭の側から見た顔のアップが淡い映像として重なり、ジャングルの映像のなかで、彼が瞬きする(このスパニッシュとアイリッシュの混血の俳優の美しい目が、この映画の「ロマン」を支えてもいる)。やがてそのジャングルが燃え上がり、歌が重なる___。
This is the end, beautiful friend
This is the end, my only friend
The end of our elaborate plans
The end of everything that stands
The end
(C)1967 by DOORS MUSIC CO.
美しいシーンである。このほか、川を下っていき、突然、豆電球で飾られた橋に出くわすシーンも美しい。
結局、なにを描こうとコッポラは、ロマンチストの「文体」を変えることができない。それは、ゴダールやキューブリックとは隔絶している。「私は、いかなる芸術家であっても、戦争に関する映画を作る場合、必然として、反戦映画を作ってしまうと考えている。たいていの戦争は、反戦映画なのだ」とコッポラは言う(パンフレットより)が、にもかかわらず、コッポラは、体質として、ラディカルであることができない。
ゆえに、この映画は、「戦争映画」というよりは、美しきマーティン・シーンのハードボイルド映画、膨大な費用と人手、時間と労力をかけた超大作の「小品」である。そういうことが、今回の「特別編集版」では明確になっている。それゆえ、完成度の高い作であるとも言える。