Borbes 迷宮の喜び Plaisir de Labyrinth

気晴らし(にBorgesを訳してみる)

 か……などと今日は(99/4/22)は、思い立ちましたが、さて、いつまで続くことやら……。

 これも、「カタログ」の一つにすぎないのか?

 Folio文庫のバイリンガル版が手に入ったことをいいことに、ちょっとその気になりました。スペイン語は、イタリア語より「わかり」ます。

 使用した辞書は、白水社の『改訂版 現代スペイン語辞典』(99年1月刊)。これは、わりといい辞書で、オススメです。巻末の文法も使えます。

 では、"Ficciones"より、

 TLON, UQBAR, ORBIS TERTIUS

 Debo a la conjunction de un espejo y de una enciclopedia el descubrimiento de Uqbar. El espejo inquietaba el fondo de un corredor en una quinta de la calle Gaona, en Ramos Mejia; la enciclopedia falazmente se llama The Anglo-American Cyclopedia (New York, 1917)y es una reimpresion literal, pero tambien morosa, de la Encyclopedia Britannica de 1902.

 「トゥルーン、ウクバール、オービス・テルティウス」

 山下訳
 「ウクバールの発見は鏡と百科辞典の結合に負うている。その鏡はラモス・メヒアのガオナ街の別荘の廊下の奥を不安に陥れていた。百科辞典は、まことしやかにも、アングロ・アメリカン・サイクロペディア(ニューヨーク、1917年)と名乗り、1902年のエンサイクロペディア・ブリタニカの、文字通りの重版で、しかし同時にうんざりさせられるシロモノである」

 ここでよくわからないのは、morosa(金払いの悪い、返済が遅れがちな)という単語である。これを仏語訳(ロジェ・カイヨワ他、訳)で見てみると、fastidieuseという語が当てられている。これは、(うんざりする、退屈な)という意味なので、それを当てる。

 それにしても、仏語に変わってだけで、かなりスムーズな雰囲気になり、それだけで原語の抵抗感が失われている。

 英語版を見ると、それはさらに進む。しかし、この英語版は、どうもブエノス・アイレスで、原書が出たとき同時に訳された(Emeceとかいう出版社で。ゆえに、訳者に名前はない)ようだから、おそらくBorgesも監修していると思うし、彼は英語も母国語と同じくらいにできるので、私の想像では、まったく別のテキストであることを楽しんだのかもしれない。

 それで、私が座右の書にしていた、集英社「世界の文学」シリーズ(1978年版)の篠田一士訳を見てみると……

 篠田訳
 「わたしがウクバールを発見したのは、鏡と百科辞典との結びつきによるものである。人騒がせなその鏡は、ラモス・メヒーアのガオナ通りにある、さる別荘の廊下の奥にかかっていた。人をあざむくその百科辞典は、アングロ・アメリカン百科事典(ニューヨーク、1917年版)とよばれており、1902年版のブリタニカの、不都合ながら忠実なやき直しである」

 これは、こなれた日本語である、と思っていた、しかし、ここには、inquietar(不安にする)という言葉がない。morosaという言葉が、「不都合ながら」に置き換わったのだろうか?

 仏語版には、

 Le miroir inquietait le fond d'un couloir...

 とあり、文字通り訳せば、「鏡は廊下の奥を不安にする」である。

 では、岩波文庫版(1994年版)、鼓直訳を見てみよう、

 鼓訳
 「わたしのウクバール発見は、一枚の鏡と一冊の百科事典の結びつきのおかげである。鏡は、ラモス・メヒーアのガオーナ街のとある別荘の廊下の奥で、人をおびやかした。事典はもっともらしく『アングロ・アメリカ百科事典』(ニューヨーク、1917年版)と呼ばれていたけれど、1902年版の『ブリタニカ』の忠実だが時期を失した焼きなおしだった」

 これから言えることは、

 やはり、篠田一士は、「ユリイカの人」が言っていたみたいに、英語から訳しているようだ。とくに、「鏡」、「百科事典」、「やき直し」につく形容語は、英訳のものである。

 The unnerving mirror
 The misleading encyclopeia
 inadequate reprint

 
 そして、やはり「ユリイカの人」が言っていたように、鼓直は、スペイン語の先生だから、できるだけ正確に、訳そうとしている。

 なにが「気晴らし」か(笑)? 非常に疲れてしまいました。しかし、翻訳とは、まことに因果なものですね。

 通りのいい日本語が、オリジナルにより近い、とはかぎらない。

 やはり、スペイン語が、いちばん、Borgesなのです。わからないながら、癖というか、抵抗感があるのは、なんとなく、感じ取ることができます。

 

5/1___

 (↑のつづき)

 El hecho se produjo hara unos cincos anos. Bioy Casares habia cenado conmigo esa noche y nos demoro una vasta polemica sobre la ejecution de una novera en primera persona, cuyo narrador omitiera o desfigurara los hechos e incurriera en diversas contradicciones, que permitieran a unos pocos lectores ____a muy pocos lectores____ la adivinacion de una realidad atroz o banal. Desde el fondo remoto del corredor, el espejo nos acechaba.

 A:山下訳

 事件は5年ほど前に起こった。その夜、ビオイ・カサレスは私と夕食をともにし、われわれは一人称の小説の執筆について長々と議論した。その小説のナレーターは、事件について省略したか、わざと歪めていて、その結果いろいろな矛盾に陥っていた。その矛盾は、少数の読者に、きわめて少数であったが、恐ろしくも凡庸な真実を見抜かせた。遠く離れた廊下の奥から、鏡はわれわれをつけねらっていた。※

 ★今日は時間がないので、英訳、篠田、鼓、両訳について参照するのは、次回に。

 ★辞書と首っ引きでスペイン語を訳し、それから、仏語を参照しました。それにしても、スペイン語は、なかなかおもしろい言語です。

 

5/3___

英訳を見ると、やはりだいぶ違っています。試しに訳してみます。使用テキストは、Everyman Library(アメリカ)の"Ficciones"(93年版。56年のEmece社(ブエノス・アイレス)の英訳を62年にGrove Pressが出し、それをもとにした「普及版」)。
 ちなみに、オリジナル版初版は、Sur社の1944年。

 B:山下訳(英語版より)

 すべてのことは5年ほど前に起こった。ビオイ・カサレスはその夜私と夕食をともにした。そしてわれわれに一人称で小説を書くという壮大な計画について長々と話した。その小説のナレーターは、起こったことを省略するか、故意に変えていて、いろいろな矛盾に陥っていた。その結果、ひとにぎりの読者、ほんのひとにぎりの読者だけが、小説の背後に隠されたおそろしくも平凡な真実を読み解くことができた。廊下の遠い奥から、鏡はわれわれを見張っていた。(次の文章へは、仏西版にはない、セミコロンによって続いている)。

 C:篠田訳

 事件はかれこれ5年前に起こった。その夜ビオイ・カサーレスがわたしと夕食をともにし、一人称小説の雄大な構想について長々としゃべっていた。その小説のナレーターは事実を抜かしたり、形をかえたり、矛盾をおかしたりするので、少数の読者__ほんの一にぎりの読者だけしか、小説の背後にかくされた、恐ろしい、あるいは平凡な真実を読みとることができないだろう、ということであった。廊下のはるか奥から、その鏡はわたしたちを凝視していた。

 D:鼓訳

 話は5年ほど前にさかのぼる。その夜、ビオイ・カサレスと夕食をともにしたあと、わたしは彼を相手に長ながと議論していた。語り手が事実を省略もしくは歪曲し、さまざまな矛盾をおかすために、少数の読者しか__ごく少数の読者しか___恐るべき、あるいは平凡な現実を推測しえない、一人称形式の小説の執筆についてである。廊下の遠い奥から、鏡がわたしたちの様子をうかがっていた。

**

 AとDは、「一人称の小説」について議論するのは、「われわれ」ととれるが、Bはカサレスが、「われわれに」(わたしとカサレス以外の人間)に話した、ようである。

 Cも「(その小説について)話していた」のは、カサレスととれる。

 西、仏版は、直訳すれば、「われわれは~するのにとどまっていた」(nous nous etions attardes...)で、何かをいっしょに長いことやっていた、感じである。

 一方、英訳は、Casares had dined with me that night and talked to us ...で、カサレスが主語となり、「われわれに話した」ととれる。

 欧米語を翻訳するさいは、このようなことに拘泥すべきではないのかもしれないが、やはり、篠田氏は、例の「全集版」の「あとがき」に、「(スペイン語の)全集版(ブエノス・アイレス)を底本とした」と書いているが、英訳をもとにしているとしか思えない訳し方である。

 ことに、文中バラ色字の部分、「ということであった」というのは、訳しすぎのような感じもする。

 拙訳、青字「も」は、まちがい。テキストはすべて、or(あるいは)に当たる語を使っていた。

5/12___

 上記※の続きを、直接訳して行く。

 「鏡はなにか恐るべきものを持っているということを、私たちは発見していた(遅い夜、その発見は不可避だった)。その時、ビオイ・カサレスは、ウクバールの異端の始祖の一人が、鏡と性交は、人の数を増やすゆえに忌まわしいものである、と宣言したということを思い出した。私は彼に、その忘れがたい宣託の出所を尋ねた。彼は、アングロ・アメリカン百科辞典がウクバールに関する記事のなかでそれを載せていると答えた」(山下訳)※

 その他のテキスト、訳の参照は、次回に。

5/13___

 篠田訳「わたしたちは、(そういう発見は夜中には避けがたいものなのだが)鏡というものは、なんとなく奇怪なものを漂わせていることに気がついた。するとビオイ・カサレスが、ウクバールの教祖のひとりが言ったことを思いだした。鏡と性交は、人の数を増やすがゆえに忌わしいものだと。わたしがその記憶すべき言葉の出典をたずねると、彼はアングロ・アメリカン百科辞典のウクバールの項にのっているとこたえた」

 鼓訳「(深夜には避けられない発見だが)わたしたちは鏡には妖怪めいたものがあることに気づいた。そしてビオイ=カサレスが、鏡と交合は人間の数を増殖するがゆえにいまわしい、といったウクバールの異端の教祖の一人のことばを思いだした。この記憶に値することばの出所を尋ねると、『アングロ・アメリカ百科辞典』のウクバールの項にのっている、と彼は答えた」

 仏訳
 Nous decoucrimes (a une heure avancee de la nuit cette decouverte est inevitable) que les miroirs ont quelque chose de monstrueux. Bioy Casares se rappela alors qu'un des heresiarques d'Uqbar avait declare que les miroirs et la copulation etaient abominable, parce qu'ils multipliaient le nombre des hommes. Je lui demandai l'origine de cette memorable maxime et il me repondit que The Anglo-American Cyclopaedia la consignait dans son article sur Uqbar.

 英訳
 ; and we dicovered, with the inevitability of discoveries made late at night, that mirrors have something grotesque about them. Then Bioy Casares recalled that one of the heresiarchs of Uqbar had stated that mirrors and copulation are abominable, since they both multiply the numbers of the man. I asked him the source of that memorable sentence, and he replied that it was recorded in the Anglo-American Cyclopaedia, in its article on Uqbar.

 スペイン語オリジナル版は、割愛したが、訳したのは、もちろん、その版からである。ゆえに、山下訳赤字は、過去形の扱いがわからず、間違ってしまった。
 この部分はどの版も、それほど違いがないが、青字の部分は、両氏は、ただ、「いった」「ことば」と訳しているが、西、仏、英語版とも、ただの「いう」では納まりきらないような言葉を使っていると思う。これは、「教祖がおおぜいの人々を前にしていう、公的な発言」であることが、イメージされていると思う。
 
 紫字、仏訳の、「a une heure avancee de la nuit=夜遅くに」という表現はおもしろい。直訳すれば、「夜を一時間進んで」。

 

5/17____「その別荘には(われわれはそれを家具付きで借りていたのだが)アングロ・アメリカン百科辞典が一揃え備えつけてあった。その第46巻の終りのページの方に、われわれはウプサラに関する記述を見出した。第47巻の最初の方は、ウラル・アルタイ語であった。しかしウクバールに関することばはひとつもなかった。ビオイはやや当惑して、索引の巻を調べた」(山下訳)※

 篠田訳「たまたまその別荘は(わたしたちは家具つきで借りていた)そのセットをそろえていた。第46巻の最後のページにはウプサーラの項目があり、第47巻はウラル・アルタイ語の項ではじまっていた。しかしウクバールについては一語ものっていなかた。少々困惑して、ビオイは索引の巻を当たってみた」

 鼓訳「(じつは家具付きで借りていたのだが)別荘にもこの事典が一セット置かれていた。四十六巻の末尾にウプサラの項が、四十七巻の始めに「ウラル・アルタイ語」の項があったが、しかしウクバールにかんするものは一語もなかった。ビオイはいささか当惑して、数巻もの索引にあたった」

 ★篠田訳「たまたま」__この語は、まさに英訳からしか出て来ない。英訳は、

 It so happened that the villa (which we had rented furnished) possesed a copy of that work.

 英訳では強調構文というか、複文になっているが、西、仏は、同じ「別荘はその作品を持っていた」という表現が取られながら、単文である。

 La quinta (que habiamos alquilado amueblada) poseia un ejemplar de esa obra.(西)

 La villa (que nous avions louee meublee) possedait un exemplaire de cet ouvrage.(仏)

 あまり語学の知識がなくてもわかるように、上記の部分は、西と仏は、ほとんど逐語的に置き換え可能である。

 西から英に変換されるとき、テクストは微妙な差異を持つ。それが悪いということではなく、英訳ではどうしてこのようになるのか、おもしろいところである。

 ★鼓訳「数巻もの」__この訳は「非常に正しい」。なぜならテクストは複数(los tomos=les tomes=the volumes)になっており、この百科事典が、索引の巻だけでも何巻もあることを示しているから。しかし、私はどう訳し込んだものか、と思っていたが、このような「回答」を見ると感心する。

5/24___「Ukbar,Ucbar,Ookbar,Oukbahr...彼は考えられうるすべての綴りで調べたが無駄だった。立ち去る前に、私に、それはイラクか小アジアの一地方だと言った。私は当惑しながら同意したことを告白する。その記載されていない国と無名の異端の教祖は、ひとつの文章を正当化するために、ビオイの慎ましさが即興で作った創作だったのではないかと私は思った。ジュストゥス・ペルテの地図帳の一つの不毛の検証は、私の懐疑心を強めた」(山下訳)※

 篠田訳「彼は考えつく限りの綴りを探してみたが無駄だった──Ukbar,Ucbar,Ookbar,Oukbahr……。帰る前に、彼はそれがイラクか小アジアの一地方だと言った。わたしはこれをいささか快からずきいたことを白状しなければならない。この記録されていない国と無名の教祖とは、あの寸言を裏づけるために、ビオイの謙遜から出たフィクションだとにらんだからである。ユストゥース・ペルテスの地図を調べても見当たらなかったので、わたしの疑いはますます強まった」

 鼓訳「思いつく綴り──Ukbar,Ucbar,Ookbar,Oukbahr……──すべてをあたってみたが、徒労に終わった。辞去する前に彼は、それはイラクか小アジアの一地方である、といった。告白するが、わたしは少々むっとしながらうなずいた。その書物にない国と無名の教祖は、控えめなはずのビオイが自分のことばを裏づけるために、その場ででっちあげたものとにらんだからである。ユストゥール・ペルテス社発行の地図の一枚を調べてもだめだったことで、わたしの疑いはいっそう強くなった」

 ★青字部分__これは、直訳すれば、「ビオイの慎ましさによって作り出された創作……」となり、鼓訳は、勝手に解釈している、と思われる。Borgesの文章の特徴は、緑字の部分にも現れ、私は直訳しているが、ほかの二人は、わかりやすくこなれさせて(←こんな日本語がったか?)訳している。むろん、「翻訳に技術」からいったら、それが「常識」かもしれないが、なにぶん、「ことばの経済」のBorgesである。せっかく経済的にしたことばを、「通りにいい日本語」にするために、「解凍」してしまうのはいかがなものか? (「お客さま」はどうお考えですか?)

 ★紫字部分──「当惑」か「不快」か「むっと」か。これは、青字の部分とも関係してくる。ビオイが「慎ましさゆえ、ついたうそ」なら、それほど「不快」「怒り」は感じなく、むしろ、「当惑」するのでは……?

 これは、Borgesの「思想」「性格」「物言い」「人生に対する態度」とも関係してくる。確かに私は、この「両巨匠」に比べ、語学的知識はないかもしれません。でも、性格は、Borgesに近い……と思ってるのですが……。

 英訳、その他の言語の、詳細な検討は、次回に回します。

 

5/25____

 英訳

 In vain he tried every possible spelling - Ukbar, Ucbar, Ooqbar, Ookbar, Oukbahr. ...Before leaving, he informed me it was a region in either Iraq or Asia Minor. I must say that I acknowledged this a little uneasily. I supposed that this undocumented country and its anonymous heresiarch had been deliberately invented by Bioy out of modesty, to substantiate a phrase. A futile examination of one of the atlases of Justus Perthes strengthened my doubt.

 仏訳

 Il epuisa en vain toutes les lecons imaginables: Ukbar, Ucbar, Oocqbar, Oukbahr... Avant de s'en aller, il me dit que c'etait une region de l'Irak ou de l'Asie Mineure. J'avoue que j'acquiescai avec une certaine gene. Je conjecturai que ce pays sans papiers d'identite et cet heresiarque anonyme etaient une fiction improvisee par la modestie de Bioy pour justifier une phrase. L'examen sterile de l'un des atlas de Justus Perthes me conforta dans mon doute.

 
 西語

 Agoto en vano todas las lecciones imaginables: Ukbar, Ucbar, Ookbar, Oukbahr... antes de irse, me dijo que era una region del Irak o del Asia Menor. Confieso que asenti con alguna icomodidad. Conjeture que ese pais indocumentado y ese heresiarca anonimo eran una ficcion improvisada por la modestia de Bioy para justificar una frase. El examen esteril de uno de los atlas de Justus Perthes fortalecio mi duda.

 

★ Ukbar, Ucbar...の例であるが、英訳では五つも例を挙げている。これは、おそらく、西語=四つ、仏語=四つのうち、一種だけ、西仏独特の綴りがあり(Ookbar(西)とOocqbar(仏)、それを英訳は、公平にも(笑)、二つ取っているから、と思われる)

★ 各テキスト、青字の部分は、西、仏は、「ビオイの慎ましさから」で、英訳は、「ビオイによって、慎ましさから」と「慎ましさを失ったビオイによって」と、両方の意味に取れる。Out of...には、「動機」のから、と、withoutの両方の意味がある。

 そして、これは、なんと、「オリジナルに忠実なはずの」鼓訳に、英訳のニュアンスが見られる。

 前々から、漠然と感じていたのだが、どうも、鼓氏は、「英訳から訳しているかもしれない」篠田氏のテクストを参照しつつ訳したのではないか...ということである。

 鼓氏も、英訳を参照していた気配がある。というか、案外学生とかが先に訳したとか……。

 しかし、Ukbar...の羅列に関しては、誰も引っかかっていず(笑)、西語のテクストもままである。

 ま、両巨匠は、やはり、西語を「座右に置いて」はいたのでしょう。

 しかし、こういう作業は、どうしても、なんかあら捜し的行為になってしまいますね。それがおもしろいんですが(笑)。

★Borgesのテクストに関する私個人の感想はと言えば、英訳で、(he tried every possible) spellingと「わかりやすく説明」されたところを、 las leccionesということばを使っているところが、いかにもBorgesらしいと思います。

 余談ですが、この作業はとても(目と)神経が疲れます。ほんとうにBorgesのような風貌になってしまいそうです(笑)。どこが「気晴らし」だか……。

★拙訳「ひとつの」に関して___各テクスト対応部分をピンク字に。私としては、「ビオイは、たったひとつの文章を正当化するために慎ましさからウソをついて」と取った。彼とビオイの関係を考慮し。「誤訳」かもしれませんが。

5/27___

 「翌日、ビオイはブエノス・アイレスから私に電話してきた。ウクバールに関する記述を目前にしていて、それは例の百科事典の第26巻であると言った。教祖の名前はそこにないが、彼の教義に関する記述はある、それはこのように表現されているとくりかえしてみせたが、おそらく、文学的には劣っているものだった。彼はこのように記憶していた。『性交ト鏡ハ不吉ナモノデアル』」(山下訳)※

 篠田訳「翌日、ビオイはブエノス・アイレスから電話をかけてきた。彼はいま百科事典第46巻のウクバールの項をひろげていると言った。その教祖の名前はのっていないけれども、彼の教義に関するノートはあって、ビオイが前にくり返したのとほとんど同じ言葉で成り立っている。文学的には少々劣るけれども。彼がおぼえていたのはこうである。性交と鏡とは忌わしいものだ」

 鼓訳「翌日、ビオイはブエノス・アイレスから電話してきた。その話によれば、『百科事典』の第46巻のウクバールの項を見ているという。教祖の名前は明らかでないけれども、その教義については記述があり、それはビオイが引いたものとほぼおなじことばで成り立っていた、文学的には(どうやら)おとっているが。ビオイが思いだしていったのは、交合と鏡はいまわしい(「山下註:ふりがな」、コピュレイション・アンド・ミラーズ・アー・アボミナブル)、だった」

 ★この部分のスペイン語は、私にとってはわかりにくく、仏語を参照してしまいました。だいたいは、スペイン語でどこまで読めるか、というのを試してはいるのですが。

 ★赤字の巻数が完全に違っていて驚きです。両巨匠は一致しているので、思わず自分のマチガイではないかと、テキストを見ました。

 西語→el volumen ⅩⅩⅥ 仏語→le tome ⅩⅩⅥ (folio文庫バイリンガル版 Gallimard)

 もうひとつの西語→el volumen ⅩⅩⅥ(Alianza Editorial "Borges叢書"版 スペインの出版社)

 以上の西語テキストの底本は、結局おなじもので、1974年にEmece Editores (ブエノス・アイレス)から出たもので、これは1944年の初版をもとにしている。

 ところが、英訳(Everyman's Library版(1993年)であるが、この底本は、やはりEmeceから出た「英訳本」(1956年)である)は、

 Volume ⅩLⅥ(ローマ数字の50が見当たりません(苦笑))となっている。

 これはまだ、どちらが正しいというのは、断定できません。というのも、スペインやフランス、とくにはフランスは、誤植にあんまり神経質ではないからです。実は、folioのバイリンガル版は、のっけから、誰がみてもわかる誤植がありました。

 確かに、前の箇所では、「アングロ・アメリカン百科事典」の第46巻目あたりが、Uの項目だった、ということはありますが……。

 しかし、いま言える私の「推定」は、やはり、両巨匠が見ていたのは、「英語版」ではないかということです。英語版では、太字で表現した部分は、コロンで区切られた後に、シングル・クォーテンション・マークスで囲まれています。
 西、仏語では、そこは、コロンに続いて、英語で表現されています。: Copulation and mirrors are abominable.
 la Enciclopediaにあったままを「表現」している、と思われます。

 *

 この原文自体があいまいで、事情がよくわからないようになっています(少なくとも私には)。そのうえ、語られている事柄が、Borgesちっくにきわめてエキセントリックな内容です。ビオイの常軌を逸したふるまい、「私」の微妙な感情、テクストの差異をめぐる話のうえに、この現実のテクストの「相違」……Borgesを訳す行為は、まさに、Borges的空間に誘いこまれる経験でもあるのです。

 こうした経験を通らず、鏡だ、迷宮だ、とBorges意匠を振りまわして、それはほんとうに、Borgesを理解したことになるのでしょうか?

 いったい、いまの日本の「文学者」のどれだけが、ほんとうに、この作家を「読んだ」といえるのでしょうか?

 ……などという感想を、今日は、以上の経験を通して持ってしまった。

 細かな訳は、まだ検討する部分がたくさんあります。なにせ、両巨匠と私の訳は、「内容がまったく違っている」箇所がありますから。それは明日に……。

 

5/29____

 「百科事典のテクストは次のように記載していた。『それらのグノーシス派にとって、目に見える世界は錯覚か(より正確には)詭弁である。鏡と父性は、その世界の数を増やし、普及するゆえに不吉なものである(鏡ト父性ハ憎ムベキモノダ)』。私は彼に、真実に背くことなく、その記述が載っているところを見たいと言った。数日後、彼はその百科事典を持ってきた。それはそれを見て私は驚いた。なぜなら、エルドクンデ・デ・リッターの綿密な地図の索引は、ウクバールという名前を完全に無視していた」(山下訳)(紫字=原文イタリック体、漢字+カタカナ=英語)※

 篠田訳「百科事典にはこうある。霊的認識をもつ者にとっては、可視の宇宙は幻影か(より正確にいえば)誤謬である。鏡と父とは、その宇宙を繁殖させ、拡散させるがゆえに忌わしいものである。わたしは本気になって、その項目をみたいと言った。数日後彼はそれを持ってきた。これはわたしを驚かせた。リッターの精密な統計的索引ですら、ウクバールの名前について完全に脱落していたのだから」

 鼓訳「『百科事典』の文章ではこうである。それらグノーシス派に属する者にとっては、可視の宇宙は、幻想か(より正確には)が誤謬である。鏡と父性は忌わしい(ミラーズ・アンド・ファザーフッド・アー・アボミナブル)、宇宙を増殖し、拡散させるからである。じつをいうと、わたしはその項目をこの目でたしかめてみたいと申し入れた。二、三日して彼は『百科事典』を持参した。これには驚いた。リッター(訳注あり)の『地図学』の周到な索引も、ウクバールという地名を完全に無視していたからである」(訳注:リッター──カール・リッター(1779-1859)。フランクフルト大学の歴史学教授でもあったドイツの地理学者。)

 英訳

 ____The text of the encyclopedia read: ‘For one of those gnostics, the visible universe was an illusion or, more precisely, a sophism. Mirrors and fatherhood are abominable because they multiply it and extend it.’I said, in all sincerity, that I would like to see that article. A few days later, he brought it. This surprised me, because the scrupulous cartographic index of Ritter's Erdkunde completely failed to mention the name of Uqbar.

 Erdkunde____die Erdkunde 地理学(Geographie)(ドイツ語)____鼓訳が正しい。

 ★「鏡と父性は……」の引用は、西仏語では、わざと、英語で記述してあり、英文の赤茶字の部分は、英文では、「差別化」が行なわれていない。篠田氏は、英文のシングル・クォーテーション・マークスの部分を、太字(ゴチック)にしていることがわかる。

 また、青字部分も、全体としては、「おなじ状況」を差すものの、西仏版の、ignorar=ignorer(無視する)ということばに込められた「感情」が消え去っている。

 異端の宗派のうちのグノーシス派を、「霊的認識をもつ者」とする篠田氏の訳は、全体の文脈から言って、紛らわしいものである。

 ★前回と合わせ、この箇所がどういう状況なのか、まとめてみると……

①ビオイが電話してきた。②「ウクバールに関する記述」を目の前にしていて、「それは百科事典の第26巻である」。③異端の教祖についての記述は「認められない」。④しかし、「彼の教義はある」。⑤彼が「くりかえしていたものとほとんど同じ」形で与えられている。⑥しかし「文学的には劣る」⑦彼は、次のように覚えていた。「鏡と性交とは不吉なものである」⑧百科事典のテクストは、「それらのグノーシス派の一派にとって、目に見える宇宙は……(略)……鏡と父性は不吉なものである。なぜなら……」⑨私はそれを見たいと言い、彼は持ってきた。⑩私はそれを見て驚いた。それ(リッターの「地図学」の地図作成法的綿密さを持つ索引)は完全にウクバールという名を完全に無視していた。

 ★以上によって、どういうことが起こっているか?

1、ビオイの「捏造」の方が、百科事典の記述より、「文学的にすぐれている」(彼は「鏡と性交……」言い、事典の記述は、「鏡と父性……」...etc.)。
2、「ウクバールという名を無視していた(ことに驚きさえする)」と「表現する」ことにより、「私」がその存在を信じている(前は疑っていたのに)、ことが表明されている。つまり、ビオイのことば(=文学)を信じる。
3、第46巻か、26巻か? ─→確かに、Uの項目は、46巻あたりにあった。しかし、ここでビオイが見ているのは、いかなるアルファベットで始まる項目か、明言されていない。ただ、「tenia a la vista el articulo sobre Uqbar」(「ウクバールに関する記事を目にしている」)とだけある。そしてそれは、「en el volumen ⅹⅹⅵ de la Enciclopedia」(「百科事典の第26巻においてである」)。
4、ビオイは「索引」のことは言っていない。なぜ、「私」は索引を見るのか? 百科事典は何十巻もあり、索引だけで数巻ある。一方ビオイの持ってきたのは、「ウクバールに関する記述が載っていた」1巻である。このindices cartograficosは、全体の索引とはべつのもの、その巻にある、地図のなにかであろう。
5、ウクバールという存在が、徐々にリアリティを持ち始める。

 ★英訳は、どうも、わかりやすさを目差すがゆえに、文学味を殺ぐ傾向にある(しかし、私は篠田訳でBorgesを知り、感心もしていたのだから、これはこれで、大した「文学」ではある)。

 ★これは、ビオイと「私」の、文学的迷宮作りのゲームのようだ。

6/1____

 「ビオイが持ってきた巻は、確かに『アングロ・アメリカン百科事典』の第26巻だった。標題と背表紙にあるアルファベット順の表示(TorからUpsまで)はわれわれのものと同じだった。しかし、917ページのところが921ページになっていた。これら余分の4ページは、アルファベット順の表示について(読者に前もって知らせるような)なんの変更予告もなしに、ウクバールに関する記載を含んでいた。それから、われわれは、これらの巻の間に、ほかの違いはないと確認した。二つとも(私はそう言ったと思うのだが)エンサイクロペディア・ブリタニカ第10版の重版だった。ビオイは彼の巻を、競売にかけられていた何巻もの中から手に入れたのだった」(山下訳)

 ★これはやはり、46巻にした方がよいようである。しかし、ほんとうに、西、仏の人々の本をうっかり信じるものではありません。すでに、この段落でも、ほかの誤植がありました(定冠詞elがalになっていた)。

 ★なんとなく、この作業も「おのれの限界」を感じるというか、「飽きてきた」(笑)というか……。しかし、とりあえず、両巨匠の「回答」の参照等は明日に。

6/2___

 篠田訳「実際、ビオイがもってきたのはアングロ・アメリカン百科辞典の第四十六巻であった。扉にも背にもついているアルファベットの見出しは、わたしたちのものと同じだったが、九一七ページのかわりに九二一ページになっていた。つけ加えられた四ページは、ウクバールの項目で成り立っていた。それは、(読者がそのうち気づくだろうが)アルファベットの見出しをつけられていなかった。わたしたちはその後、二つの巻にはほかに相違点はないことを認めた。二つとも(わたしは前に言ったと思うが)ブリタニカの第十巻の再版であった。ビオイはそれを、セールかなにかで買ったのである」

 
 鼓訳「ビオイが持参した巻は、事実、『アングロ・アメリカ百科事典』の第四十六巻だった。扉と背のアルファベット順の見出し(Tor-Ups)はわたちたちのセットのものと同一だが、九一七ページではなく九二一ページあった。このよぶんな四ページに、ウクバールに関連する項目はふくまれていたのである。(読者もすでに気づいているはずで)その項目はアルファベット順の見出しにはなかった。その後、わたしたちは二巻のあいだにはほかの相違点のないことを確認した。(すでにいったと思うが)二巻とも『ブリタニカ百科事典』第十版の増刷分だった。ビオイはそのセットを。よくあるバーゲンで手に入れたのだ」

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 ★青字部分__完全に、私の誤訳です。ここでは、西語の代わりに、ほとんど同じ言葉で構成されている仏語文をあげさせてもらいますが、それはこのようになっています。

 : non prevu(comme le lecteur l'aura remarque) par l'indication alphabetique.

 le lecteur (読者)を l'editeur (編集者)と読み違えていたようです。

 ★緑字部分__「表示」はやはり「見出し」ですね。また、括弧で括られた(Tor-Ups)は、篠田訳では省略されていてなくてもいいようですが、これは、やはり、西仏語にはあって、英訳では省略されています。しかし、他の二つの括弧は、篠田氏も使用していますが、英訳にはないままで、カマで区切って文章が挿入された形を取っています。

 ★茶色字__「競売」か「セール」=「バーゲン」か?

 西語:Bioy habia adquirido su ejemplar en uno de tantos remates.

 rematesは、「安売り」の意味もあるが、(中南米では)「競売、落札」

 仏語:Bioy avait acquis son exemplaire dans une des nombreuse ventes aux encheres.

 encheresは、「競売」(「バーゲン」なら、soldeという語がある)

 英語:Bioy had acquired his copy in one of a number of book sales.

 ちなみに『リーダーズ英和 第2版』では、salesという単語の「日本語訳」は、「セール」ということばより、「競売」ということばの方が前に来ています。

 ★紫字__篠田訳「第十巻」は適当でないと思われる。また、鼓訳「増刷分」も誤解を招く。

 ☆どうも探偵めいてなんですが、篠田氏は英訳をもとに西語を参照し、鼓氏は西語をもとに、英訳+篠田訳を参照していたように思われる。

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