映画メモ



2010/09/28(火)

『十三人の刺客』 監督 三池崇史 

 紋切り型の時代劇から完全に脱し、あらたな時代劇エンターテインメント像を作り上げている。しかし、ディテールや台詞回しはむしろていねいかつ地味に積み重ねられている。

 日本映画は、『宇宙戦艦ヤマト』のような、ハリウッドSFものまねをつくっても、ちゃちさが目立つだけでとうてい及ばない。本作は、日本映画が世界に出て行くひとつの道を示したものと言える。

 『13人の刺客』というタイトルから、赤穂浪士の『47人の刺客』を思い出したが、それとはまったくべつの筋立て設定であった。こちらの方がほんとうの「刺客」であろう。江戸時代といえど、ただ漠然と描き出すのではなく、江戸末期、明治に近い時代のできごととして、まさに「ラストサムライ」たちの生き様を、リアルに描いたものと言える。

 選ばれる刺客たちの、キャスティングもよい。若い、あまり顔の知られてない俳優が並び、その若さが、エネルギーとはかなさを、江戸という閉じられた時代の闇にきらめかす。主役の役所広司の人柄を感じさせるサムライもいいし、その甥の山田孝之のマイケル・ジャクソン(笑)を思わせる風貌も抜きんでている。名もない山の民でありながら、重要な役どころとなる伊勢谷友介の伸びやかな体全体を使ったパフォーマンスも魅惑的だ。また、平幹次郎、松本幸四郎、松方弘樹など、かつての時代劇のスターたちが、脇を支えるのも、本作を安定させる。

 そしてそれだけの「正義の味方」にたったひとりで対する「悪役」、稲垣吾郎は大したものだ。役が役だけに、ファンは減るかもしれないが(笑)、そういうリスクを取るのは、役者として大成への道である。

 もうひとつ、本作がただのエンターテインメントに終わらず芸術作品となり得ているのは、物語を少しズラしてみせる、脱構築である。それゆえ、「肝心なところで映画を壊している」などという、俗なドラマにとらわれた観客の感想がまま聞かれる。脱構築とは、覚めた目で物語をとらえることでもある。三池崇史は、どうもそういうものを心得た監督と見た。


2010/10/13(水)

 『ナイト&デイ』(原題『KNIGHT AND DAY』) 監督 ジェームズ・マンゴールド

 『ソルト』のアンジェリーナ・ジョリーの役は、トム・クルーズがやることになっていたそうだが、なるほど、あの役を、女性のアンジェリーナが演じた方がおもしろくなっていた。あれを、トム・クルーズが演じたら、『ミッション・インポシブル』とそう変わらない、二番煎じのスパイものになっていただろう。そういう役を蹴って(?)、トムが、なんで、わざわざ同じようなスパイ・アクションものに出るのか? 本作を観て納得した。

 スパイものも、時代が進むに従って、新しいなにかが必要になってくる。国際的な状況も、テクノロジーも、時代が映画に追いつき、追い越していく。ボンドガールを「守る」『007』は、設定が新しくなっても、どこか感情移入できない。強い女の『ソルト』は、時代には即していたが、ソルトの「事情」や背景が暗すぎた。

 いまは、「一般人」の時代である。「一般人」が、スパイを救う──。それを、「メカに強い」「楽観的な」「一般人の女」を、キャメロン・ディアスが演じている。ただの「ゴージャスな組み合わせ」以外、なんでこのふたりが? と思うような組み合わせであったが、映画を観れば、この2人しか考えられない組み合わせである。

 「デリケートな心遣い」が魅力のスパイ、トム・クルーズと、「大胆不敵な」一般人の女性、キャメロン・ディアスが、「いま最もピンと来る」スパイものを見せてくれる。

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 「映画ライター」なるひとのブログ(livedoorのブログは、私も開設しているが、「使い勝手」はよくない(笑))を見てみたが、80%は、(プレスの資料を使った)映画の「あらすじ」で、あとの20%は、誰もが言うような紋切り型の感想──。しかも、どこかで見たような「業界ディスクール」(笑)。「映画ライター」とは、配給会社の「たいこもち」と見た(べつに頼まれてないかもしれないけど、どうも体質的にそうなってしまうようですね)。
 この方の場合、上記の映画、『ナイト&デイ』で言うなら、最後の方で、完全に、「ネタバレ」を、そうと思わず書いてしまっているんですよね(笑)。このテのの「プロ」の映画レビューを読むくらいなら、「素人」が集まっているYahoo!映画のレビューの方がユニークで読み甲斐がある。「あらすじ」が知りたいなら、映画の公式サイトで読めばいいし。


2010/10/19(火)

『シングルマン』(原題『A SINGLE MAN』)監督: トム・フォード

 ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』がいかに傑作かが再認識される映画である(笑)。

 確かにセンスはいい。しかし映画はスタイリッシュなだけでは成立しない。『悪人』のレビューにも書いたが、やはり、コリン・ファース演じる主人公は抽象的人物である。具体的な実感の感じられない人物が、いかに悲しみ、絶望しようと、観客は心を動かされない。いったい、コリン・ファースはどんな気持ちでこの役を演じたのか──。

 1960年代という時代をどうとらえているかも見えない。ただ、車の中にいる他人の犬に、窓の外から長いことほほを寄せて「バタートーストの匂いがする」なんてつぶやくところは面白い。実際にこういうオジサンがいたら、気味が悪い(笑)。……そうか、あまりに「こぎれいすぎて」、『ヴェニスに死す』のような滑稽さがないところが、本作を芸術から遠ざけているのかもしれない。

 芸術とは、自己批判があってこそはじめて成り立つ。それがなければ、ただのファッションである。


2010/11/11(木)

『桜田門外ノ変』 監督 佐藤純彌

 『十三人の刺客』に比べると、ひどく地味な映画である。しかも、カタルシスもない。カタルシスとは、見たあと、なにかほっとしたようなさわやかな気持ちになることだが、いくら待っても、そういう場面はついぞ訪れず、終わってしまう。

 それもそのはず、この映画は、はじめからそういうものを目指していない。おそらく、「歴史」という大それたものの外で、犬死にした無名の武士たちの墓碑銘を刻むことを目指しているからだ(それゆえに、「変」に加わった武士たちひとりひとり、全員、どういう死に方をしたか、享年何歳かが文字として映し出される)。

 それは主役の大沢たかおとて例外ではない。この、立ち姿が美しい俳優は、明治維新をすぐそこにひかえた江戸という煤けた時代背景に、うっすら華を添えているが、彼も多くのほかの武士たちと同じ運命をたどる。

 吉村昭の原作より、本編の方が、よりシビアな描写であると思う。

 城の石垣がいかにも作り物のように見えるとか、いろいろアラはあるが、それでも、映画の前半で早々に展開される、井伊直弼殺害の場面は、実際に立ち会っているようなリアルさがある。



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