Foucaultを読む
2008/3/21
L・ビンスワンガー、M・フーコー『夢と実存』(荻野恒一、中村昇、小須田健訳、みすず書房)
フーコー、28歳の「デビュー作」。ビンスワンガーの本論、50ページに対して、フーコーの「序論」、110ページ。文学作品を次々援用しての「華麗なる」論の展開は、もしかしたら、「序論」の域をはみ出してこちらが「主役」なのではと思わせるが、ビンスワンガーの本論を読めば、かなりできのいい「序論」でありながら、やはり、「序論」の域に留まっているのがわかる。
ここで「二人」が言おうとしていることは、一言で言えば、「夢の自立」である。夢には夢の論理がある。それを、フロイトのように「象徴」に帰してしまったり、ユングのように、「意識」と「抱き合わせ」にすることによって、夢本来の世界を隠蔽してはいけない。
フーコーは、ビンスワンガーの夢を「解剖」してみせる精緻かつ繊細な手つきに共感している。これにインスパイアされることによって、「思想家」フーコーは出発する。ビンスワンガーの重要なポイントは、「覚めた意識」である。夢の中に「自分」が存在し、夢の展開を見ているということは、覚めた意識が存在するということである。それが、「正常」な人間の夢である。一方、精神的に「病理学的な心配」がある人の夢は、自分がどこにも存在せず、自分は宇宙そのものになって浮かんでいたりする。
この「序論」は、ビンスワンガーの名高い本論が仏語訳されたとき書かれ、同じ本に収録されて出版された。ビンスワンガー自身は、仏訳にも、フーコーの論文にも満足だったということだ。それから、フーコーは、「狂気」というものを追っていく。
未邦訳のものも併せて、フーコーの「仕事」を書誌学的に追うなら、この「デビュー作」と、1961年の『狂気の歴史』の「間」に、次のようなものがある。
1954年、著書『精神病と人格』(P.U.F、「哲学入門」シリーズ)
1958年、翻訳書『構造の循環』(ワイツゼッカー著、フーコー、ロシェ共訳)
そして、
1961年、『狂気と非理性。古典主義時代の狂気の歴史』(Plon)
『カントの人類学』(学位論文の補遺、2巻本。巻1「序論」、巻2翻訳と註)(Bibliothèque de la Sorbonne)
ビンスワンガーの「夢と実存」の翻訳は、フーコー自身ではないが、以上のような書誌を辿ればわかるように、フーコーはドイツ語のテキストの丹念な読解は、フーコーの学問の基礎になっているように思われる。
フーコーが、『夢と実存』の序論の冒頭に掲げ、かつまた、文中にも頻繁に援用しているシャールの詩は、まさしく「夢の自立」を描いている。「覚めた意識」の自己が、おのれの奇妙な夢のありかたを、アフォリズムの形で写し取っているのである。
エピグラムに使用されたシャールの『Partage Formel』は、55の断片からなる散文詩である。フーコーが冒頭において、「26」は、全文が引用されているわけではなく、かなりの部分が省略されている。その全文は、次のようである。訳は、シャール全集など、すでにいくつかあるが、どれも納得がいかなかったので、うまくないながら、自分で訳してみた。これはまさしく、不条理な夢の世界である。
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