やっとこさっとこ、Bol.frからFrancis Pongeの作品集が届いた。一方、日本語版は、思潮社の『物の味方』(阿部弘一訳?)は、品切れであった。で、いま手元には、『フランシス・ポンジュ詩集』(阿部良雄編・訳 小沢書店)のみがある。これは、数種のテキストの抄訳である。
掲示板訪問者「シリウス」さんのご要望(?)に応え、仏語版を訳してみた。まず、一篇だけ。上記、小沢書店版の最初に収められている詩篇は、オリジナル版『Le
Parti des choses』では、5番目に入っている。この詩集、日本では、『物の味方』で通っているが、私は今のところ、別の訳語をあてる。
さて、シリウスさんは、どっちの阿部訳が「びっくり」と言っていたのか? 忘れてしまった。できれば、ここにない、弘一訳を、メールか、掲示板に書いてくださったらなーと思いますが、もう見てないかもね(笑)。
しかしまー、どっちでも、私はオトシマエをつける女なのよ(笑)。
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(時間がないので、仏語テキストは後ほど書きます)
フランシス・ポンジュ詩集『物事の偏見』より、
山下訳
「ミュール」
詩篇でできた活字の藪の、物事の外へも精神にも通じていない道の上に、ある果物がインクの一滴で満たされた球の固まりによって作られている。
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一房の中に黒、バラ色、カーキがある。それらはむしろ、摘むことを強く誘うというよりも、さまざまな世代の尊大な一族の劇を見せている。実に対する種の多さを思って、小鳥たちはその果物がそれほどすきではない。彼らに残されるものはほんとうに僅かだ。嘴から肛門までそれらが通過した時。
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しかし、詩人は、職業的散歩の途中で、こんなふうにそれを手本にする。「だからこのように」と彼は思う。「大量に、とてもか弱い花の辛抱強い努力が実っている。たとえ、人を寄せつけない茨の茂みに守られているとしても。ほかには大して美点がない、ミュール、まったくそれらは、ミュール(熟した)だ。この詩のように」
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阿部良雄訳
『物の味方』より
「桑の実」
物たちの外部へも精神へも通じていない一本の大道沿い、詩篇によって形づくられる活字の茂みにおいて、ある種の果実たちは、一滴のインクにみたされる球体の一聚合から出来ている。
★
房の上で黒いのも薔薇色なのもカーキなのもいっしょになって、これらの果実たちは、摘み取りたいと意欲をはげしく駆り立てるよりはむしろ、さまざまな年齢層をふくんで尊大な一家族、といった光景を提示する。
果肉に対して不釣合いに種子が大きい点からして、鳥たちはこれらの果実をあまり喜ばない、何しろ彼らがこの果実によって嘴から肛門まで通過される時、結局のところかくも僅かなものしか彼らの体内に残りはしないのだ。
★
だが詩人は、自分の職業的な散歩の途上、以上のことからまさに教訓を引き出す。だからこのようにして、と彼は独(ひと)り言(ご)つ、「茨の無愛想な錯綜によって保護されているとはいえきわめて脆弱な一輪の花の辛抱強い努力が、数多く成功するのだ。他に多くの美点があるわけではないが、──桑の実(ミュール)たちは、完全に熟して(ミュール)いるのだ。──それはまたこの詩篇が作られるのと同じようなぐあいに」と。
(2000/3/3)
オリジナル・テキスト
LES MURES
Aux buissons typographiques constitues par le poeme sur une route qui ne mene hors des choses ni a l'esprit, certains fruits sont formes d'une agglomeration de spheres qu'une goutte d'encre remplit.
*
Noirs, roses et kakis ensemble sur la grappe, ils offrent plutot le
spectacle d'une famille rogue a ses
ages divers, qu'une tentation tres vive a la cueillete.
Vue la disproptions des pepins a la pulpe les oiseaux les apprecient
peu, si peu de chose au fond leur reste quand
du bec a l'anus ils en sont traverses.
*
Mais le poete au cours de sa promenade professionnelle, en prend de
la graine a raison : << Ainsi donc, se dit-il, reussissent en grand
nombre les efforts patients d'une fleur tres fragiles quoique par un rebarbatif
enchevetrement de ronces defendue. Sans beaucoup d'aures qualites,
____ mures, parfasitement elles sont mures ____ comme aussi ce poeme est
fait.>>
最初、阿部良雄訳を見ずに訳し、あとで参照してみると、語調は違うけれど、意味はだいたい同じようである。だた1ヶ所、気になるのは、赤字の部分である。
阿部良雄訳では、ils(彼ら、それら)を、彼ら=鳥たち、ととって、桑の実に通過される、と訳している。これは、普通の物言いからするとおかしいが、詩なので、そういう表現も可能かとも思う(それにしても、enは前の文章の語を「代名詞」として含んでいるべきでは?)
拙訳は、ilsをミュール(「野イチゴの実」ととって、enを「嘴から肛門まで」ととった。
*
野生の小さなイチゴ、あるいは、桑の実でもよいが、人房の中に色とりどりの色がある、かわいらしい果実。それを表現するのに、青字のような語を唐突にも用いるのは、非常に知的でおもしろい。
また、詩に特有の「言葉の経済」(例、a la cueillete=実際に摘み取る動作を表現している)もあって美しい。
(2000/3/6)
紀伊国屋BookWebで品切れだった阿部弘一訳『物の味方』が、長崎の古書店「太郎舎」さんのオンライン店にあったので、さっそく入手した。上記の作品訳を見てみよう。
阿部弘一訳
「桑の実」
物たちの外部にも精神にも通じていない道筋の、詩が書かれている活字の茂みの中で、ある果実は、一滴のインクがつまっている球体の集団で形成されている。
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それらは、黒いもの、薔薇色のもの、そしてカーキー色のものと集まっては房をなし、収穫期には非常に生気に満ちた魅力を示す、というよりむしろ、様々な年齢を含んだ赤い色の一家族といった様相を示す。
種子と果実が折り合わないという点になると、鳥たちは、種子が嘴から肛門へと通過してゆく間に、結局は残り滓となる些細な極く微小なものとしてそれらを感知する。
★
だが、詩人は、自分の業である道をさ迷いながら、理性で種子を選びとる。そして考えるのだ。<<茨の晦渋な錯綜に護られているとはいえ、非常に脆弱な一つの花の、忍耐づよい数々の努力がこうして実を結ぶ。他の多くの資質をこそ持っていないが、──<桑の実>は完全に桑の実なのだ──この詩がつくられると同じように。>>
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この訳は、はっきり言って、あまり感心しない訳である。水色字の部分は、フランス語の意味がよくわかっていないか、意味の取り違えの部分である。
とくに、二連目の、「種子と果実が……」の文章は、日本語としても意味をなさない。apprecient>apprecier(評価する、好む)という単語を、apercevoir(……が見える)ととっているようだが、それにしても、この訳のように、「感知する」と訳すには、代名動詞のs'apercevoirでなければならず、この訳語には無理があるし、その単語をそうとったものだから、訳文全体がこじつけになっている。
単語の取り違えは、ほかにもあって、「赤い色」という言葉であるが、これは、rogue(尊大な)を、rouge(赤い)と読み違えたもので、それだけを見るなら、フランス語版の誤植(よくある)かな、とも思ったが、どうもこの訳者は、単語を都合のいいように読んでいるようである。
第3連の、「自分の業である……」という文章。最初の文は、まあ、そう訳したいならしょうがない、であるが、読点以下の文章「理性で種子を選びとる」、これは、完全に間違い。a raisonを勝手に、「理性」として、en prend de la graineを、「種子を選び取る」と単語を組み合わせて苦しい訳を作ったが、これは、これだけで、「手本にする」という熟語である。
その他、太字はすべて、そういう訳も成り立つかも知れないが、私見では、訳語として「?」なところである。
結論。この訳は、試験でいうなら、100点満点で60点の回答というところである。いくら思潮社の編集者がフランス語が読めないからといって、いいかげんな訳をしてもらっては困る。
それに何より、この訳者には、ポンジュの詩の世界が見えていない。
もし、多くの詩人や詩の愛好者たちが、これをポンジュの詩だと思い、「ポンジュ読んだ?」などという会話を交していたとしたら、お笑い種であり、ポンジュにとってもいい迷惑である。
すでにお姿は見えないようですが、このような機会を与えてくれた「シリウス」さんに感謝します。
(2000/3/8)
山下訳
籠(LE CAGEOT)
檻(cage)から独房(cachot)へと至る道の途中に、フランス語は籠(cageot)ということばを持っている、わずかな窒息状態から確実に傷んでしまうこれらの果物を運ぶように運命づけられた、透かしになった素朴な容れ物である。
その使用が終れば、簡単に壊すことができるように作られている、それは再使用することができない。同様に、それが容れている崩れやすく、色が変わりやすい食べ物ほども長く持たない。
市場へ通じる道の至るところで、まだ使われていない木の誇らしさではないが、彼は華々しく輝いて見える。まだ真新しく、そして、永久にゴミ捨て場に投げ出されたまま、不器用な恰好で、ちょっと当惑ぎみである、この品物は、つまり、もっと共感できる物たちである、──彼がそれでも、長い間重くのしかかられないことを取り決めたその運命については。
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阿部良雄訳 (1996年8月20日刊だが、一部翻訳は、1974年にも出ている)
籠
鳥籠(カジョ)から土牢(カショ)への途中にフランス語は籠(カジョ)をもつのだが、それは格子編みにされた簡単な容れ物で、ほんのちょっとでも息が詰まれば必ず病気になるような果物の運送にもっぱら用いられる。
用が済めば難なく壊せるようなぐあいに出来ていて、二度とは役に立たない。そういうわけで、その中に閉じこめられる、溶けそうだったり雲のようだったりする食料品よりもさらに保(も)ちが悪い。
中央市場(レ・アル)へ通ずる街路のあらゆる角で、そのとき籠(カジョ)は、白木独特の気取らぬ輝きを放つことになる。まだ真新しいのに、ぎごちない姿勢でもう還ってくるあてもなく清掃局の手にゆだねられることにいささか呆然としているあたり、この物体(オブジェ)は要するに最も感じの良いものの一つだ、──ただしその運命については長々と述べ立てぬ方がよい。
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阿部弘一訳 (1984年10月1日刊)
籠
フランス語には、鳥籠(カージュ)と牢獄(カショ)との中間に、籠(カジョ)というのがある。少しの間でも密閉されると、きまって傷んでしまう果物を運ぶための、格子になった簡単な小箱だ。
用が済むとすぐ壊されるようなつくりであって、二度と役には立たない。だから、中にいれる溶けやすかったり、つかみどころのない品物よりももたない。
市場に通じている道のどの角にも、それは、白木のままつつましく光っている。まだ全く新しいのに、永久にごみ捨て場に捨てられ、ぎごちない姿勢でちょっととまどっているこの物体には、要するに大へん共感をそそられる。──しかし、その運命については長々と述べない方がいい。
★
赤字部分について、両阿部訳はそっくりであるが、なぜこのような訳になるのか、私はさっぱりわからない。それを、次に検討していく。
(2000/3/26)
底本について。
山下──Francis Ponge "Le parti pris des choses"(collection poesie, Gallimard 1998)→元本1942年刊
阿部良雄──「初版(1942年刊)の改訂版(1949年刊)を用いた」
阿部弘一─「(メタモルフォーズ双書第13巻、1949年版)、Francis Ponge : Le parti pris des choses, Collection Metamorphoses , Gallimard, 1949 の全訳である」
上記から、だいたい同じ内容のものを使用していると思われる。ということは、赤字部分の仏文も、それほど違いはなさそうである。 赤字部分を含む全文を書き出すと、次のようになる。
Tout neuf encore, et legerement ahuri d'etre dans une pose maladroite
a la voirie jete sans retour cet objet est en sommes des plus sympathiques,____sur
le sort duquel il convient toutefois de ne s'appesantir longuement.
duquel は英語でいうと、of which に相当する関係代名詞である。 Il convient
de + 不定詞=……することが望ましい、……すべきである。 s'appesantir=@(surについて)くどくどと述べる。B《文》(surに)重くのしかかる。
両阿部訳だと、「長くくどくどと述べないことが望ましいところの運命について」となる。
確かに、私は、Il convient de +不定詞という構文を失念していたが、それは、すでに、deがそこに存在しているからで、そうなると、duquel(de+lequel)のdeが宙に浮く。ゆえに、私は、先行する関係代名詞のdeをIl
convientにつけ、非人称構文ではなく、「彼は(……について)取り決める」と取った。というのも、最初から、籠について、il(それ、彼)という言葉は頻出し、それで押してきているから。ここで急に、非人称のilになるのもなー……であるし。しかしまあ、どっちとも取れるか……。内容的にも、今まで、その「軽さ」を言ってきたわけだし。まあ、詩ですからねー……どうとでも取れるところもあるわけです。
(2000/3/29)