21世紀のプルースト Proust au 21e siecle


1、プルーストについて知っていなければならない、ごく基本的な事柄について

 長らく「プルースト」を中断していた。しかし、掲示板の訪問者の方(「御水乃の未知」さま)のおかげで、再開する気持ちになった。それに関しては感謝いたします。御水乃さまはプルーストが退屈で、人物の描写力も乏しく、三島以下の作家である、というご意見でありましたが、今度プルーストを再開して私が思ったのは、非常に面白い、ということでした。やはり、この作家には本気でつきあいたいという気持ちで、このファイルを作ることにしました。

 21世紀には21世紀の「読み」がある、ということで、題名を新たに、上記のようにしました。

 プルーストに向かう時、常に私の励ますのは、蓮實重彦の、柄谷行人との対談集『闘争のエチカ』(河出書房新社 1988年刊)の中の次の言葉である。

 蓮實「(略)小説というのは、僕は形式的に中断できると思う。読み方においても中断できるし、書き方においても中断できる。小説が持っていた物語に関する優位というのは、物語を真似て、終わりをいかにして書くか、書き出しの一句とか、ああいう下らないことを言ってたから、小説が衰退したと言えば言えるかもしれないけど、小説はもっとぶっきらぼうでいいわけですね。(略)小説が、何にいちばん似てるかと言うと、僕は百科事典に似ていると思う。どこのページから読みはじめてもかまわないのが小説だという意味で似ているのであり、それは物語に対する逆らい方でもあるわけだけれども、実際に面白い小説ってそうでしょう。どこを読んだっていいわけです。(略)
 たとえば夏目漱石の『猫』なんて、連載されたときは、みんな順を追って読んだかもしれないけれど、いま、はじめから律儀に読み終わって、ああ面白いと思うやつはバカだと思う。そもそもそうした読まれ方にふさわしい構成を持っていないのだからあれはちょっと見ればいいわけです。いずれにしても、断片的かつ局部的な読み方のほうが生産的なんです。プルーストの『失われた時を求めて』にしたって、あれを読了して感動したというやつはバカだと思う。何回も読んだという人もいますけれどね。あれは断片的で充分なものであって……。」(強調、筆者)

 さて、今回、私は、御水乃さまの後を追って、ある箇所を読んだのであるが、御水乃さまが、「退屈」で、「おつむがおかしいのでは?」とおっしゃる、ヴィルパリジ夫人のサロンでの会話に差しかかる場面、ユダヤ人のフロックが登場するが、彼はここで、ことさら「軽蔑」されているわけでもないと、私は思う。そのフロックについての叙述も鮮やかである。原文では、Bloch と綴られるこの若いユダヤ人は、あのエルンスト・ブロッホ(Ernest Bloch)と同じ綴りであり、また、確かに、ブロックとも読まれている(Marc Bloch)、そしてフランス語風には、「ブロッシュ」とも読める、典型的なユダヤの名前であるようだ。

 プルースト(プルースト自身も、ユダヤの血をひいてはいるが)は、このユダヤの若き友人の記述から、フランスにおけるオリエント人一般への記述へと入っていく。なかでも次のような文章はとても美しい。

 「われわれは古代絵画によって古代ギリシア人の顔立を知る、われわれはスーサの宮殿の切妻壁(ペジメント)にアッシリア人を見た。ところで、われわれは社交界でそれぞれの国民集団に属しているオリエント人に会うとき、降霊術の力で出現したかと思われる超自然的な人間の、前に立っているような気がする」(筑摩書房版、井上究一郎訳、1985年刊、「第三篇『ゲルマントのほう氈x249ページ)

 「Nous connaisson, par les peintures antiques, le visage des anciens Grecs, nous avons vu des Assyriens au frontons d'un palais de Suse. Or il nous semble, quand nous rencontrons dans le monde des Orientaux appartenant a tel ou tel groupe, etre en presence de creatures que la puissance du spiritisme aurait fait apparaitre.」(Gallimard folio版、"Le Cote de Guermantes" 182ページ)

 いや、こればかりではなく、プルーストの文章はすべて美しい。しかしこれを「物語」として読むかぎりにおいて、「退屈」であるのかもしれない。
 プルーストは、三島のように「物語」を書いたのではなく、「小説」を書いたのである。そしてそれは、何よりも「言葉そのもの」である、という、ごく基本的な事柄を確認して、この章を終えよう。(2001/2/24)


2、プルースト VS. フロイト

 同じく御水乃さまの書き込みにより、フロイトについて、喚起された。いったい、プルーストとフロイトは、どういう「関係」にあるのか? 自分なりに考えてみたい。幸いにも、御水乃さまお勧めのフロイト訳者、懸田克躬氏訳、責任編集の、中公バックス「世界の名著」版「フロイト」がある。この巻に収録されている著作は、『精神分析入門』である。その前に、フロイトの人なり、思想についての解説があり、これは、巻末の年表と相まって、どの巻も、一冊の書物に相当するくらいの内容を持っている。これを読む進み、時々巻末の年表を眺めながら、知ったのは、

 フロイトというのは、アンフェアなとんでもないオイチャンである、ということである。自分に都合の悪いことは、人は無視、出来事はなかったことに……。しかしまあ、後世に残る「思想」を考えついた、ユニークな人でもあるのだが。

 両親共にユダヤ人の、生っ粋のユダヤ人であるために、いろいろ苦労したようである。家族関係も複雑だった。そういう苦労が、歴史に残るフロイトを生んだと言ってもいいのだが、苦労人にありがちななことだが、どうも、性格が悪いようである。

 さて、フロイトは、1856年、今のチェコスロバキアに生まれた(幼少時にウィーンに移り、その後ずっとそこで過ごすが)。

 なんとプルーストは、その15年後、パリに生まれている。突然であるが、プルーストは若い頃、ベルグソンを勉強した。

 そのベルグソンは、なんと、フロイトと、たった三つしか違わず、しかもベルグソンの方が年下である。そのベルグソンの論文、『物質と記憶』には、すでに、「フロイト」という名前が見える(第2章、「イマージュと再認について__記憶力と脳」)。この時、ベルグソンは37歳であった。つまり、この時、ベルグソンは、フロイトの論文を読んでいたようだ。

 そして、この『物質と記憶』が出たのが、1896年、この年を、フロイトの年表で見ると、「『精神分析』ということばをはじめて用いる」とある。

 しかし、1917年に出た『精神分析学入門』には、ベルグソンの「ベ」の字もない。私の持っているフロイトの本は、この他には、The Modern Libraryの『The Basic Writings of Sigmund Freud』(1995年)だけである。この本には、邦訳で言うと、「日常生活の病態心理」(1901年)、「夢の解釈」(1900年)、「性の理論に関する三つの論文」(1905年)、「ウイットと無意識の関係」(1905年)、「トーテムとタブー」(1913年)、「精神分析運動史」(1914年)の六つの論文が収められている。この中で、ベルグソンという名前が出て来るのは、「ウイットと無意識の関係」の中だけである。

 ……何が言いたいのか? いやあーーー、フロイトって人は、やっぱ、そういう人なんだろうなー、ということである。

 肝心のプルーストは、どういう関係にあるのか? それは、また明日のお楽しみである。To be continued! (2001/3/2)

 ところで、わが師(と、勝手にこちらで思っているだけであるが)橋本治にも、りっぱな、フロイト論がある。『蓮と刀』(河出文庫)第二章がそれであるが、これは、これまた一冊の本に相当するほどの内容を持っている。師によれば、フロイトは死ぬまで言えなかったことがある。そのことを隠すために、膨大な「理論」が必要であったと。それは、何かと言えば、

 フロイトは自分の父親を殺したいと言えなかった。

 それはともかくとして、一応、「フロイトの歴史」を概観した。思うに、フロイトの最大の功績は、心という目に見えないものを、科学化し、臨床化したことだろう。そして、その技術として、言葉を用いたが、その言葉の用い方は、今日、「テキスト・リーディング」と呼ばれている方法であった。それは、フランスの構造主義者に受け継がれていくのであろうか? 

 精神分析学の歴史というものは、ネットの掲示板の罵りあいにも似たようなものがある。初めは弟子であったものが、離反して批判者になったり、初めから批判者として存在した人々もいて、要するに、フロイトの批判者は掃いて捨てるほどいる。しかしそのどれもこれもが、フロイトが考え出した「テキスト・リーディング」の恩恵を下敷きにしていると言っていい。橋本センセイによれば、フロイトの理論も「間違っている」そうだが、それにもまして、フロムは、「ただのパー」であり、ユングは、新しがりの「おにいさん」だそうである。それに倣って私も言わせてもらうなら、臨床を無視して、フロイトをしつこく批判したヤスパースは、「時代遅れのバカ」ということになろうか。ここで私が認識したことは、

 医者は思想家ではない、ということである。この混同が、今日の日本の思想界でも横行しているようである。

 また、フロイトの画期的なところの一つに、「性」のあからさまに取り上げたということがある。これが、キリスト教思想が浸透しているヨーロッパで嫌われた理由でもあるかもしれない。

 さて、肝心のプルーストとの「関係」である。私は、俗に言われるように、プルーストが意識の流れを書いたとは思わない。プルーストの描いたものはもっと戦略的で、文体は明晰すぎるほど明晰である。おそらくはどこかで、プルーストは、フロイトの文章を読むか、噂を聞いていたに違いない。その際、何が使えると思ったか? その「分析的」スタイルである。

 プルーストは、社交界の「オバサン」たちを、意地悪なほど観察し、「分析」する。彼は最初、この題材を評論という形にすべきか小説にすべきか迷ったという。彼が「描き」出したかったのは、患者が分析者の前で口にするようなこと。ゆえに、彼は最後に「失われた時」を「見い出す」のである。……ほんとかよー???

 余談ではあるが、アメリカでは、犬さえ精神分析にかかっているというのに、日本ではどうも根づきませんなー……。どうも、「精神病」に対する大いなる偏見と、「精神病」と「ノイローゼ」との混同、「精神」に対する恐れがあるからですかねー?

 ひょっとして、日本人には、「精神」はないのかも知れない。いや、「精神」というものが理解できてないのかもしれない。私は、金があったら、エステに通うより、分析に通いたいと思う日々もあったことを告白しておく。(しかたないから、自己分析することによって、切り抜けちゃいました。今の医者に欠けているのも、ひょっとして、この徹底した自己分析だったりして……)。

(2001/3/4)

「補記」

 上記、「フロイトは自分の父親を殺したいと言えなかった」と、橋本治センセイが書いていた、と私が書いたことについて、御水乃さまより、「間違いだ」という指摘があった。御水乃さま曰く、『夢判断』にも『日常生活の精神病理学』にも見受けられる。その他にも、探せば、たくさんあるだろうと。

 どうも私の書き方が悪かったようだ。橋本センセイがおっさっていたことは、「フロイトは自分が父親を殺したかったと言うことを隠していた」ということだった。もちろん、「父親殺し」については、さまざまな著作に見受けられるだろう。しかし、それは、「ドストエフスキー」だったり、「モーゼ」だったり、自分以外の「他人」のケースとして書いていませんか? まさか、「自分は」とは、書いてないでしょう。

 それに、であります。それら、御水乃さまの指摘する著書が出たのは、なんと、父親が死んだ後なのです。

 1896年 父親死亡
 1900年 『夢の解釈』(『夢判断』)
 1901年 『日常生活の病態心理』(『日常生活の精神病理学』)
 1928年 『ドストエフスキーと父親殺し』
 1930年 母親死亡
 1939年 『人間モーセと一神教』。本人死亡

 つまり、そういう本は、父親がこわくて、彼が死ぬまで出せなかった……。ま、そのように「わが師」はおっさっておるのでございます。私はと言えば、「ふーーーん、そっかぁー」と思っただけでございます。「フロイト論」なんてとてもとても……。しかし、フロイト理解にそう何年もかかっていては、待機中の、Gilles Deleuze/Felix Guattari "L'anti-oedipe"(Les Editions de Minuit)は、どうなってしまうのでありませう? 一方で、「マルクス」も待ち受けているというのに。あ、そういや、橋本師は、『ぼくらの資本論』も書いていたのだった。



 


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