山下晴代のプロフィール(というほどのものでもないが)


     Portrait of Y

愛知県豊橋市生まれ。子供の頃は理科がすきで、科学者になりたいと思っていたが……。高校入学のオリエンテーション時に誘われた演劇部に入ってしまい、その後の運命が狂う……。

従って、高校時代は演劇の日々である。「当然の流れ」として大学も演劇科へ……。しかし、集団芸術は結局難しく、個人でできる芸術……となると、書くこと……。

20代前半は『現代詩手帖』に投稿して、常連メンバーになり、いくつかの同人誌に誘われ、詩を書いていたが、日本の「現代詩人界」というのは、でたらめでも通ってしまうところがあり、人脈で繋がって、それで「何かしている」つもりになっている人々もおり、嫌気がさしてくる。

それとはべつに、詩という形式も、自分の求める表現形式とはちょっと違うかなという気もしてきて、しだいに文章が長くなってくる。

30才ぐらいとき、『すばる新人賞』に応募して一次選考をパスし、結局それで終わったが、その作品を覚えていてくれた編集者が、たまたま集英社に送った同人誌の作品に感想をくれ、原稿を送ってもいいと言われる。書いておくるが、最初はなんら反応なし。何度もトライするうち、掲載が決まる(今にして思えば、そういう「デビュー」ができた「古きよき時代」かも……)。

1989年12月 文芸誌『すばる』(集英社)に「男はそれをがまんできない」(90年新年号)を発表。(ちなみにこの年の文芸各誌新年号は「開高健追悼」でした。そのため、というわけでもないだろうが、全然目立たず。オーパ!)。

1990年 同誌に「パッションのべつの名前」(5月号)、「アフロディーテ」(11月号)を発表。なぜか、話題にならず。

1991年 同誌に「新リボンの騎士」(7月号)を発表。ええい! 今度こそは!と思えど、反響なし。しかし、2008年、私が通っている日仏学院のエレーヌ先生が、フランスで学生相手に、「日本の漫画」について手塚治虫の『リボンの騎士』(私が提案してあげました)を題材に講義した際、それにインスパイアされて小説を書いた作家もいますと紹介してくださったとか……。

担当編集者異動のため、邁進できると自分で勝手に思いこんでいた「作家道」が宙に浮く(しかし、結果としては、その後の修行は必要なものだったので、よかったと思っている)。

1993年10月から1996年4月まで、某有名詩人(昔の投稿仲間だった)の紹介で某地方紙に映画、演劇評とコラムなどを「書かせていただく」。

1996年から1999年 相変わらず、匿名コラムを、もうやめよう、もうやめようと思いながらずるずる続ける。

2005年頃(?)、コラムは、あちらから「(メンバー刷新するから)やめてください」と言ってくる(笑)。

2006年 もうどこかに応募するしかないのかな〜?……と思いながら、評論を書いてマイナー系某文芸誌の新人賞に応募すると1次だけ通った。

2008年 今度は、メジャー系某文芸誌の新人賞に、評論で応募(ってあそこしかないじゃん(笑))するも1次を通過……。

植木等(トシがわかるが(笑))ではないが、♪そのうちなんとか、な〜るだろ〜〜〜お(てなもんである)。





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