引越しのはなし 2008.04.29

今のマンションに移って半年になる。時の経つのは早いものだ。もう前に住んでいたところの記憶というのは薄れてきた。なにせ私は固定観念の少ない、何事にもなじみやすい柔軟な性格である。
これは冗談とかたとえ話ではない。
よくあるでしょう。酒飲んで無意識に電車に乗って帰ったら、以前住んでいた家の玄関に立っていたなんてことありませんか?
私は通勤の電車の路線は変わっていないのですが、降りる駅が変わりました。そして、この半年の間に二度ほど元住んでいた駅で降りたことがあった。さすがにドアを開ける前に気がついた。しかし半年も経つうちに帰巣本能のジャイロが修正されて、今はそのようなことはない。

私が引っ越したのは、生まれた時から数えると、10回になる。
平均すれば5年だが、実際には長い短いはある。
引っ越した状況年数間取り家族数備考
おばQ誕生半年間6畳5人雨漏りするあばらや
もちろん記憶はない
小学4年くらいまで11年6畳・4畳半5人→7人引き上げ者住宅
結婚して家を出るまで14年6畳・6畳
4畳半・4畳半
7人→5人親父が建てた家
新婚当初3年6畳・6畳2人木造平屋アパート
親が病気になって戻ってこいと言われて親が亡くなるまで3年6畳・6畳
4畳半・4畳半
5人親父が建てた家
下の子供が生まれ小学校に入るまで6年6畳・6畳
4畳半
3人→4人鉄筋5階建県営住宅
エレベーターなし
子供が小学から高校まで15年
最長記録
6畳4部屋4人→2人持家
木造二階建
訳あって次の住まいが決まるまで半月  ホームレスにはならずに済んだ
都会に出てきました2年3DK4人僥倖であった
子供たちが出て行って3年半3K2人狭いマンション
そして今半年3LDK2人 

まもなく定年で、これから動くあてもない(というか行くあてがない)ので、寿命が尽きるまで住むならば、ここが一番長く20年くらいになるかもしれない。
結婚してからは、しょちゅう引っ越していたようだが、子供の頃は引っ越しした記憶がない。父親が転勤のない職業だったので引っ越しというものに縁がなかった。
転勤がない職業というより勤め先が中小企業だったというだけだ 

私の叔父(父親の兄)が食いつめて田舎の住まいを引き払い、家族を連れて東京に出て行ったのが昭和30年(1955)であった。東京に行けば何とか仕事があるということが不思議でならなかったが、もっと不思議なことは東京に行って住むところがあるのだろうかということだった。
子供の時住んでいたところは誰がどこに住んでいるかというのが顔と名前でわかるような田舎だったから、引っ越すということは、家を建てるか、今まで誰かが住んでいた家に住むということだ。もちろん前に住んでいた人が死ぬかどこかに行かなければそこに引っ越すことはできない。
近くに専売公社の官舎があり、そこに住んでいた人は転勤になると転勤先の官舎に引っ越し、新しく越してくる人は別の町の官舎から引っ越してきたので、家の数と家族の数が一致していて謎はなかった。
空き屋がなければ引っ越せないのは理屈だ。田舎にいた人が東京に引っ越したら、東京の引っ越しする先に住んでいた人はどこに移り住むのだろうかということが不思議でならなかった。
くだらないといえばそれまでだが、子供はそんなことを不思議に思うのである。

引っ越しをすると家財道具の荷造りが大変だ。もっとも50年も前は家財道具というものは今に比べてものすごく少なかった。まず家電製品というものはほとんどない。テレビもなければ冷蔵庫もない。洗濯機もなければエアコンもない、電子レンジも、ステレオも、電気こたつも、扇風機も、掃除機もない。あったのはラジオと電気スタンドくらいだ。部屋の照明なんて持っていくはずがない。なんとなれば、裸電球が付いているだけだから、わざわざ外して梱包して・・なんてするはずがない。
布団、タンス、衣類、ちゃぶ台、食器、子供の学用品、火鉢、自転車、物干し竿、履物、雨傘くらいではなかったろうか?
引っ越しの手続きも、役場には転居届、学校の転校くらい。その他、郵便局、電力会社、新聞屋しかない。電話もなければガスもない、私が子どもの頃は水道さえもなかったのだ。運転免許を持っている人は少なかったし、パスポートなんぞ持っているわけがない。
クレジットカードができたのは1960年、まして田舎の貧乏人が持っているはずがない。国民健康保険だって1958年、職人なんて怪我と弁当は我が持ちなんて言ってた時代だ。住所変更に伴う手続きなんてほとんどない。銀行振込みなんて仕組みがあるはずがない。
おっと、重大なのがあった。米穀通帳である。これがないとオマンマが食べられない。
まあ、今に比べれば暮らしが非常に単純であったので引っ越しに伴う手続きはほとんどなかった。

引っ越しはどうするのかというと、これがまた大変だった。田舎には日通のような運送屋はあったが引っ越し専門業者はなかった。それで、父の兄の引っ越しには親戚が総出で荷造りを手伝い、親父が知り合いの商店からオート三輪を借りてきて駅まで運んだ記憶がある。駅からは国鉄の貨車で運んだのだろう。
劇画「巨人の星」に飛雄馬の姉明子が引っ越すときにオート三輪でわずかばかりの荷物を運ぶ情景があるが、そんなふうであった。
昔はなんでも業者が至れり尽くせりなんてことはなかった。家を建てるにしても、建前には親戚や職場から人を大勢集めて手伝ってもらわないと仕事ができなかった。私は何度も職場の人の建前にいって瓦とか材木をあげるのに一日手伝ったことがある。最近は木造平屋でもクレーンなど使い、職人だけでしてしまう。隣近所を集めて力仕事をしてもらうようなことはないようだ。

私が引っ越しがいいと思うのは、そのたびに不用品を捨てることである。
結婚したとき、家内はタンス一揃い、蒲団からなにからまあ嫁入り道具を持ってきた。とはいえ、そんなもの使うことはない。あれは飾りである。着物と着物を入れたタンスは家が狭く持ってくることができず、あれから30数年、家内の実家に置いたきりである。結婚式、お葬式のときに家内は実家にとりに行く。そのたびに家内の弟の嫁さんは「お姉さんもういい加減にタンスを持って行ってよ」というが、死ぬまで持ってくることはないだろう。
おっと、それ以外の持ってきたタンス、三面鏡などは度重なる引っ越しで傷つき、ガタがきてすべて捨てられた。
私は引っ越すたびに気に入らない本を捨てた。捨てて困ったこと、後悔したことはあまりない。読書は葉隠流に一度読んだ本は焼き捨てるくらいの覚悟で読むべきだろう。 
../mouse.gif パソコンの壊れたキーボード、マウス、アプリの入っていたケース、使わなくなったアプリのCDやDVD、なぜそんなものをとっといておいといたんでしょうか。
衣類も靴もズボンも着る分だけあれば余分はいらない。スーツはあるものすべて夏も冬もクローゼットにつるしておく。引っ越しを機会にいらないもの、着ないものは捨てる。何しろ結婚してから体重が増えるばかりなので、3年前より古いものは着ることができない。衣替えならぬ、衣捨てである。
15年ほど前、毎年昇段試験を受けて手に入れた囲碁の段位免状も今では不要物である。ただ、これはまだ捨てるに捨てられない。あと5年もしてその辺でへぼ碁でも打つようになれば飾っておく気になるかもしれない。
車を持つと、スペアタイヤ、ジャッキ、そのたどんどんと工具などが増えていくが、車がなければそれもいらない。

../carp.gif しかし家内は娘のひな人形と息子の五月人形は大事にとっていて、今でも時期が来ると飾る。
私に言わせると不用品なのだが、家内にとっては娘と息子のようなものなのだろう。もっとも鯉のぼりは何度か目の引っ越しで捨てた。息子が大学を出て社会人になった今、鯉のぼりをあげる勇気はないようだ。

物を持つということは豊さでもあるし、窮屈でもある。
引っ越すことは物を捨てる機会であり、自由を得るチャンスである。
そしてもっとも大きなことは、近隣の付き合いをリセットできることだ。いやいや付き合っていた人とは永遠におさらばできるし、好きな人とは付き合いを継続できる。

ところで、今のマンションではしょっちゅう引っ越しがある。
越してきたばかりなのに、また引っ越すとはそれぞれ理由があるのだろう。家内と私は、転勤だろうか? ローンが払えないのだろうか? 近所ともめたのだろうか、あるいはお金が入ってもっといい所に越していくのだろうかと話し合う。
しかし考えてみると、マンションには600世帯もいる。毎週1回出入りの引っ越しがあっても一回りするには600週かかることになり、それは11年になる。
そう考えると、驚くことでもなさそうだ。


本日の心配事
しかしちょっと引っ越し業者のトラックを見かけたことから、これだけ書くのは私の頭が妄想で詰まっているせいだろうか?




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