物語のはなし 2008.06.28

すべての小説にははじまりがあって終わりがある。大昔、超長い大河小説というものがはやった時代があるが、いくら長くても終わりのない物語はない。どんな長編小説にも大河小説にも始まりはひとつで終わりもひとつしかないし、ショートショートでも始まりは一つで終わりも一つある。
ストーリーが複数あり、エンディングも複数あるのはシミュレーションブックだけだ。
覚えていらっしゃるだろうか?
パソコンがない時代、さいころを振ったり選択肢から選んでシミュレーションブックを読んだ(プレイした?)のは20年以上前のこと。
終わりがない物語は私が知る限り、ネバーエンディングストーリーだけ。私は娘・息子が小さい時、このレーザーディスクを買って子供たちと何度も何度も見た記憶がある。あれが情操教育に効果があったのか?なかったのか?さだかではないが、私は子供たちに効果がある物語だと信じていた。25年も前の親ばかのはなしである。
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ほとんどの童話は、エンディングはハッピーエンドでめでたしめでたしとなる。王子様とお姫様、あるいは庶民の娘が結ばれて本当に幸せになれたのだろうか? 幸せな人生を送ったのだろうか?と気になる。
昔、シンデレラの映画で最後に二人が結婚しなかった映画があったが、現実問題とすればあまりにも身分が違う組み合わせは結婚しないほうがお互い幸せというのが本当のところではないだろうか?
小説のダブルオーセブンで「結婚とは二人が結び付くことではなく、二人を取り巻く家族や環境が結び付くこと」というようなフレーズがあったが、愛情だけでは結婚できない。
ダブルオーセブンは映画と小説は全くの別物である。もちろんどちらも面白い。
もちろん、物語はハッピーエンドになると確信して読めるからエンターテイメントなのだろう。

一つの物語には終わりがあるが、その続きを読みたいという人がいるし、続きを書きたいという人もいる。そしてもっとお金を儲けたいという営業上の理由もある。そんなわけでたくさんの映画や小説の続編が作られている。エアポートも、ダーティハリーも、ランボーも、ダイハードも・・
小説「赤毛のアン」は続々々・・と続く。それぞれ面白いのだが、やはり一番面白いのは第一作の「グリーンゲイブルズのアン」であることに異論はなかろう。
映画「赤毛のアン」も多々あるが、「アンの結婚」になるともうハチャメチャである。作品とかストーリーのよしあしはともかくあれは赤毛のアンではない。
その他「それからのハイジ」「それからの凡人組」おっと、これは漫画だ。続編でなくてもそれからと銘打ったものとしては「それからの武蔵」というのもある。

物語が完結せずにだらだらと続くものもある。だらだらといってもけなしているわけではない。
「有閑倶楽部」なんて初出が1981年だから、もう30年も高校生をしていることになる。私は全部読んでいる(自慢になるか!)
現実の時間が流れていれば、みなさん50歳近くで第一線でバリバリ活躍しているのだろう。
でも悠理はアクションスター、清四郎は医大の教授、野梨子は女流プロ棋士、魅録は警視庁に勤めるキャリア?なんてことではつまらないだろうね。

小説や映画であれば、悲劇にせよ喜劇にせよ結末はあり、一巻の終わりとなるが現実社会は始まりもなく終わりもない。
子供の頃、紙芝居でお話が終わると「これで一巻の終わり」とおじさんがいった。当時の紙芝居では侍とかの物語が多く、最後は悪人がやられて終わりだったので「一巻の終わり」とは死ぬことと思っていた。本当の意味は巻物の一つが終わったということらしい。
現実社会はストーリーはあってなきがごとく、ひとつのできごとの結果は次のできごとの原因となり、その結果はまた次の原因になる。
連綿と続く物語で、喜劇もあれば悲劇もあり、ハッピーエンドに限らずエンディングというのは存在しない。ハッピーエンドもない代わりトラジックエンドというのもないはずなのだが、現実の日本を見ると、コンティニュアストラジックかななんて・・・
ISO14001ではcontinual improvement といってcontinuous improvement ではない。これはずっと連続していなくてもよいが、継続して改善していけばよいということらしい。
日本の場合、continual tragedy ではなくcontinuous tragedy であることは間違いない。
2008年6月、アメリカが北朝鮮をテロ国家指定から解除するという。またどうせまたアメリカはだまされるよと、私の家内は笑う。たぶんそうなのだろう。
弱腰どころか、北朝鮮にすり寄る日本外務省は拉致問題も棚上げにして国交回復の気配である。
拉致被害者のご家族が日本政府頼りにならずと、アメリカに頼んだという意味を知っているのか?まさに害務省である。
日本政府、害務省も日本国民のために存在すると認識してほしいものだ。国民年金がどうこうというよりも、日本人の人権、安全を保証してくれなければ国家の存在意義はない。北朝鮮に誘拐された人を救い出すこともできない国家は国家ではない。

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休日、頭に浮かぶ妄想は、日本の過去半世紀は失敗と悲劇を描き続けた小説である。現実の歴史に始まりも終わりもなく、常に勝利ということはありえず、常にハッピーもない。しかし、特定アジア三国に、無実の罪に問われ続ける、虐待され続ける日本は悲しい限りである。
日本人は、もう少し気概をもった物語を書くことはできないものだろうか?


あらま様からお便りを頂きました(08.06.27)
安全保障
佐為さま あらまです
遂に、と言いますか、やっぱりアメリカは、北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除を決定しました。これで、北朝鮮による日本人の拉致問題の解決が大幅に後退した感は否めません。
それにしても、北朝鮮による日本人拉致問題、韓国・ロシアによる日本領土の占拠問題、ロシアによる日本人漁師の銃殺問題のように、日本の主権が冒されている問題に対して、同盟国 ? であるアメリカの対応は冷たいですね。
何か、日本人の拉致問題も、米朝関係に利用された感じがします。
やはり、国防を他国に頼ってばかりでは、主権は守れないということなんでしょう。
それでも日本政府は、平和憲法の維持のためには、多少の犠牲は仕方がないという考え方なんでしょうか。
あらま様 重いニュースでしたよね。
結局、国家とは何か?ということでしょう。
アメリカは善悪にかかわらず、国益を追求しそのためにはアメリカの若者の命を捨てても実行します。
それが国家だということでしょう。
日本は、力は悪だというテーゼを仕込まれてしまったために、正当な権利を貫くためにも力(暴力)を使うことを悪と定義したのです。
北朝鮮に誘拐されても、北朝鮮に返しくてださいとお願いするとか、アメリカにお口添えしてくださいとお願いするしかできなくなったのです。
そんな国家に税金を払うのは嫌ですね。
民主主義は平和を願い、そのために防衛を放棄しようと言います。
現実世界は脳内のお花畑じゃありません。
そんなことも知らないで政治家をしている人たちがたくさんいて、そんな人たちを支持する人たちがたくさんいる日本は、滅びるのが一番なのでしょうか?
いや!この国は私たちの国、甦らせないといけない。
それが私たちの使命なのでしょう。

高橋様からお便りを頂きました(08.11.21)
ご参考
「物語のはなし(2008.06.28)」
一巻(いっかん)の終わり:
《1巻からなる物語が終わる意から》物事の結末がついてしまうこと。特に、死ぬこと。また、すでに手遅れであること。「この高さで足を滑らせたら―だ」(大辞泉 提供:JapanKnowledge)
物語のはなし(2008.06.28)の「1巻の終わり」について、ネット辞書の中身の部分のみを送信してしまいました。ご存知だったのかもしれませんが、「貴兄の本文での思われていたこと」は間違ってはいなかったという趣旨です。
高橋様 コメントありがとうございます。
正直言いまして、そういうことは調べております。「巻の終わり」ですから、語源としましては巻物の終わりということです。昔の書物は、和紙であろうと羊皮紙であろうと冊子形態ではなく、巻物でした。当然、一巻きでは物語は終わりませんが、その巻物の終わりを一巻の終わりといったそうです。
それが転じて、物語のおしまい、主人公が死ぬこととなりました。
まあ、この場合は大したことではありません。



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