2008年夏 2008.08.15

短いがお盆休みである。いろいろとしたいこともあり、しなければならない用事もあるが、なにもせずに家にいることもある。家内が出かけると我が家には私だけになる。

泥棒が入るはずがないと思い、窓という窓、玄関のドアも含めて戸という戸を開け放す。外からはジージー、ミーンミーンという蝉の音がうるさいくらいに入ってくる。蝉の声と一緒に風も入ってくれれば良いのだが、風の通る道というのがありそこ以外は生暖かい空気が淀む。
私は風の道にちゃぶ台を持っていき、そこで本を読んだりレポートを書いたりする。
いくら風が通るといってもアルコール温度計は31度以上を示し、汗で紙が手につく。紙が濡れると文字がにじむ。エアコンを動かしてもよいのだが、私ひとりしかいないので贅沢というかもったいない気がする。

食べること話すことと同じく習慣というより体の一部となってしまったパソコンと違い、手で文字を書くのは大昔に返ったようだ。小学校、中学校の時代には毎年夏休みこんな生活だったなあと思いだした。

私の目の前には氷を入れて水を入れた大ジョッキがあり、飲みたくなると飲んでいる。さすがに私でもお天道様が高いうちはビールは飲まない。
昔、冷たいものが欲しい時はどうしたのだろうか?
あの頃、冷房があるわけではなし、冷蔵庫もなく、暑さをしのぐのは我慢するしかない。そして、暑いからといって何もしないわけにはいかず、夏休みの宿題はあったし親に言われていろいろな仕事もした。それどころか炎天下の表で遊んだし、小遣い稼ぎに百合の球根を掘ったり金屑を拾ったりした。
ユリの球根は大きくなった時期に掘るのが良いのだが、見つけるのが難しいので我々は花を頼りに掘った。それを市場に持って行って売る。

そう思えばと・・どんどんと妄想というか過去の思い出は蘇る。
会社の同僚がお盆休にはお昼まで寝ているんだと語った。まだエアコンが家庭に普及する前のことである。私はそれが理解できないというか想像できないことだった。
私が子供の頃住んでいた家はなんと天井がなかった。部屋の上を見上げると天井がないので屋根の裏面が見え電気の配線が見えた。屋根は低くて夏の日射はすぐに部屋の温度を上げた。結婚してから住んだ借家も天井が低く屋根とのすき間がない安普請で、夏太陽が上がるとすぐに部屋は暑くなった。
藁ぶき農家にも天井はないが屋根が高いので直射日光で室内が暑くなることはない。
夏の日、昼まで寝ていることができるということは、屋根が高く風通しが良い家に住んでいるということだった。

地球温暖化というが過去半世紀の温度上昇は0.5度くらいだ。そんなわずかな温度差は体感できるはずがない。じゃあ現在ではみなが暑い暑いというのはいったいどうしてだろう?
気温が高くなることで有名な群馬や岐阜の都市は都会の熱が流れていき、また地形的に熱がこもるからと聞く。都心が暑いのは人間活動そのものと、高いビルで東京湾からの風が来なくなったこと、水路を埋めて道路にした報いに過ぎない。
しかし一部の人以外、そういった特定の地域以外に住んでいる人は、過去半世紀以上の暑さに見舞われているはずがない。 いえ、50年前だって今と同じく十分暑かったのだ。
単に暑かったこと、苦しかったことを忘れただけなのではないだろうか?
なにしろ人間は物忘れが激しいから
boy.gif
私の子供のとき、アイスクリームがあったわけではない。なにしろ冷蔵庫がない。たまに自転車のアイスキャンデー売りが来たが、貧乏だったからまず買ってもらえない。氷が欲しければ町の製氷屋に行って買ってこなければならない。もちろん家に帰るまでに6割は溶けてしまうのは間違いない。
西部の実在のガンマン、バットマスターソンは後に新聞記者になって「この世は素晴らしい、金持ちは夏に氷が食えるし、貧乏人は冬食える」と書いたそうだが、私の子供の頃はまさにそうだった。
私たちは味噌とか塩をちょっと持って近くの農家の畑に行き、きゅうりを盗んで食べた。あるいはトマトを盗んで食べた。冷たくはなかったが当時はそれで満足した。それに満足できなくても他に何もない。
つい最近、冷蔵庫のきゅうりを一本だして左手に塩を盛って丸のままかじったが、当時のようなうまさはなかった。あのおいしさはあの環境でないとだめだ。
細野不二彦の「愛しのバットマン」という漫画で、野球の練習中にアルマイトのやかんから直接水を飲んでうまいというシーンがある。わかるなあ、その気持ち

suika1.gif スイカはひと夏に何度か家族そろって食べた。ごちそうだった。皮の白い部分以外全部食べた。今、スイカを四半分買ってきて家内と食べるのだが、あのおいしさはない。やはりひもじくて、そして家族そろって食べないとあのおいしさは感じることはできないのだろう。
結婚してからだって貧乏は似たようなもので、家内とデパートの地下でメロン一切れを買って食べたのはおいしかった。今では我が家でもメロン丸ごと買ってきて食べることができるが、家内とあの時食べたメロンのほうがおいしかったといつも語る。

子供たちが幼稚園、小学校の頃、毎週休みの日は公営のプールに連れていった。理由は簡単だ。家にエアコンがなく暑いので水遊びをさせないとかわいそうだったから。今でも子供をプールに連れていく親御さんは多いだろうが、家が暑から連れていくのではないだろうと思う。
私たちが子供の頃、家にはエアコンどころか冷蔵庫もなく、学校にプールもない時、川で泳いだり遊んだのは、暑いから少しでも涼しいところで遊ぼうとしたに過ぎない。

そんな妄想を広げていると、家内が帰宅した。
「今晩は何にするの?」と聞くと、「冷やし中華にでもしようか」という。
「うん、悪くないな」と答えながら、昔は冷やし中華にも氷なんぞ入ってなかったと思った。そして親父が冷酒をコップで飲んでいたのを思い出した。あの頃ビールを飲んでも冷えてなければうまくなかっただろう。
中国ではビールを冷やさず飲むと聞いた。もっとも日本に来た中国人は冷やしたビールのうまさを知り、帰国してもビールを冷やして飲むとも聞いた。

さて、夜寝るとき、エアコンをつけようかつけまいかと悩む。
昔だって熱帯夜はあった。昔はパンツとランニングで寝た。汗をかいても扇風機もなければもちろんエアコンもない。ひたすら我慢した。
愛とは耐えることという歌があったが、貧しさとは耐えることである。
だが豊かになり文化的生活に慣れ軟弱になった私はとりあえずエアコンにタイマーをかけて就寝した。
電気の神様、お許しください。




のんきなとうさん様からお便りを頂きました(08.08.16)
2008年 夏
スイカは、私も大好物でした。時期は忘れましたが、祖母が、夜、スイカの種を新聞紙に包んで寝ていました。朝起きると、種から芽が出ているのです。畑に大きな穴を掘って、鶏の糞やゴミ屑などを放り込みました。その上に砂をかぶせ、芽が出たスイカの種を埋めました。スイカは重たいです。それを運ぶ手伝いは子供のお手伝いとしては重労働でした。スイカ泥棒は、いましたね。毎日大きくなっていくスイカを楽しんで、さあ、明日は収穫だ、と思った翌朝、消えてしまっているのです。祖母は、「やられた! 悔しい!」と叫んでいました。
スイカは、井戸あるいはバケツにスイカと水道水を入れて冷やしました。田舎の水道水は、都会の水道水より冷たかったと思います。マンション屋上の貯水槽からの水道じゃだめですね。私は今でもガツガツと音を立ててスイカにかぶり付きます。妻は、「みっともないから音を立てて食べるのはやめて!」といいます。
スイカは毎日でも食べたいのですが、訳あってアリさんの生活をしています。これまで、キリギリスの生活をしていたことをしきりに反省しています。この夏クーラーは一度も使用せず、一日中扇風機を回していぁw)ワす。スイカにもなかなか手がだせません。私はこれでも緊縮生活を結構楽しんでいるのですが、家族には申し訳ない今日この頃です。

のんきなとうさん様 まいどありがとうございます。
私たちが子供の頃、泥棒はしましたが、一応ルールがありまして、高いものを盗んじゃいけないんです。許されるのはジャガイモ、きゅうり、トマト、大根などに限定されていました。
高価なもの、ぶどう、桃、スイカになりますと、農家の人が盗人を捕まえると親のところまで押し掛けてきました。
まあ、戦時国際法があるように、盗人にも盗人ルールがあったのです。
盗人ルールを破って本格的泥棒をした小学校の同級生はその後、刑務所を出たり入ったりして還暦を迎えました。ああはなりたくないですね

萬太郎様からお便りを頂きました(08.08.16)
ウルトラ萬太郎です。
萬太郎の駄文・・・。
お盆休みの何日か前、部下の女性が「今日はとても暑いですね」と、訴えるように言った。「暑かったらエアコンを点けてもいいよ」と言った。じつはウルトラ萬太郎は、環境ISO担当(兼)事務所のエアコン電源管理人でもあるのだ。・・・別に、そんなうっとうしい役職があるわけでもなく、萬太郎が好き好んで設置したわけでもないのだが、なんとなく萬太郎の役割になってしまったのである。
ともあれ、件の女性はエアコンのスイッチを入れた。そのとき、ふと気づいたことがある。実は萬太郎、そのときはいつもほど暑いと思わなかったのである。しかし、温度計と湿度計がセットになっている快適度数計を見ると、指数の針は前日よりもかなり高めを指していた。人並み以上に暑がりの萬太郎であるが、この日はさほど暑いと感じていなかった。思うに、この日は山積する仕事を少しでも効率よく処分しなければならず、いつもよりアドレナリンが過剰に分泌されていたからかもしれない。昔、「火もまた涼し」といった僧侶がいたらしい。凡人萬太郎は、涼しいまでの領域まではいかなかったが、精神作用で暑さを忘れるといった程度の体験をしたのである。
それにしても、井戸でスイカを冷やして食べた小学生時代が懐かしい。でも、エアコンの効いた部屋で読書のできる今、あの頃に戻りたいとは思えません。贅沢になったものだ。結婚した当初、エアコンがなくて冷蔵庫を開け、女房と二人で冷気を浴びながら「涼しいな〜」と言ったことさえ、遠い昔のことのようである。人間は、一度贅沢を覚えると軟弱になる一方のようだ。
もっとも、小学生時代の同級生と貧乏合戦(自分の貧乏自慢をし合うもの)をして何度も「参った〜」と相手に言わしめた萬太郎。天から「貧乏時代にすぐ戻れ」と言われたとして、あっという間に戻れるんじゃないかなあ、という自信はある。のだが・・・。?

萬太郎様、人間の欲望は強く、克己心は弱いのです。
石川五右衛門でもなければ火を涼しく感じることは難しそうです
人間は辛いことを経験するとそんなことは何でもないという方と、もう二度と辛い目に会いたくないようという私のような軟弱者が・・・

あらま様からお便りを頂きました(08.08.17)
2008年の夏に思うこと
佐為さま あらまです
盆休みの数日間、ちょいと郊外の別荘に行ってきました。
別荘と言っても、過疎で無人なった破屋で、住むためには改修が必要でした。
さて、その破屋の物置に、昔の木箱の冷蔵庫がありました。
昔の冷蔵庫は、木箱の上段に氷を置いて冷やしたものでした。
・・・ということは、こんなイナカにも氷屋さんが行商に来ていたのでしょうか。
ところで、佐為さんのところは、セミの鳴き声で暑さが倍増しているようですね。小生の住んでいる田舎では、今年はセミの鳴き声をあまり聴きません。
午前中は、しーんとしています。夕方、日が落ち目頃に少し鳴く程度です。
不思議ですね。こんなに緑に溢れているのに・・・。。。

あらま様 別荘族でしたか・・・恨めしい
昔の木製冷蔵庫とは・・・私は話には聞きましたが現物を見たことはありません。きっと金持ちだけが持つことができたのでしょうね。
我が家では68年頃でしょうか?冷蔵庫を買いました。その頃結婚した姉二人とも結婚当初は冷蔵庫はなく今考えるとどのように食品を保存していたのでしょうか?
私は結婚したときおもちゃのようなホテルの部屋にあるような物を買いました。バターとか製氷とかまあそれで間に合ったのですね。二ドアは子供が生まれてからのこと
ところでところ変わればと言いますが、私の住まいの周りでは蝉の鳴き声が強烈です。蝉が多いということは蝉の死骸も多く、通勤時踏まないように気をつけています。猫がじゃれついたりしています。
蝉は何年かおきに大発生するそうですから、あらま様のところは数年ずれて大発生するのではないでしょうか?


ひとりごとの目次にもどる