インターフェイスが日本を変える 2010.11.03

私は駄文しか書けないのは自覚しているが、一過性のものではなく何年も残るようなものを書きたいと思っている。なにしろこのけちなウェブサイトだって10年の歴史を持っている。初期の頃に書いた文章を現時点で振り返って読んでみても、時代遅れとか見当違いを書いていたとは思っていない。まあ、そのくらいの気概を持って書いているつもりだ。
だから、2010年11月時点の今、中国による尖閣列島侵略や、ロシアによる北方領土の永久占有化などが問題となっているが、そういう事件について論じるのを控える。もっと長期的視点というかアウトサイドのスタンスで考えたことを書く。のどかなことを、と言われるかもしれないが、それはやむをえない。

当たり前だが、私が子供の頃から選挙はあった。とはいえ、私が生まれ育ったところは田舎だったから、国政選挙なんていっても中央から有名な政治家が応援に来ることはなく、それどころか自分の住んでいる選挙区から立候補した候補者の選挙カーでさえ選挙期間中に来るのは・・来ないことのほうが多かったように思う。まあ、それくらいの田舎だった。
私の父は結構真面目な人で、選挙に行かなかったことは私の知る限りなかった。母も棄権したことはないと思う。そんな田舎の昭和30年頃の選挙といえば、候補者を選ぶ情報源は、新聞、選挙公報、そして近隣の人からの情報(勧誘というべきかもしれない)だけだ。中央政治は身近なものではなかった。候補者の演説さえ実際に聞くことがかなわないのだから、
父と母は、選挙公報を見て誰にするかを決めたように記憶している。もっとも我が家は父が絶対的権力を持っていたので、父が誰に投票するぞというと、母はハイハイと言っていた。といってもその通り投票したのかどうかは定かではない。
父は古風な考えだったので、一度たりとも共産党はもちろん社会党に投票したことがない。当時は中選挙区制だったから、自民党の立候補者の中から誰に入れるのかを選択したに過ぎない。

これが町長選挙とか町会議員の選挙となると、もう完全に様相が変わる。立候補者は共産党以外はみな無所属であり、党派とか主義主張というより、地元の利益代表であり町内代表である。親類縁者、職場、隣近所から「誰々をお願いします」という訪問者が朝から晩まで・・入れ替わり立ち代り
もちろん父も選挙の都度、住んでいる町内から立候補した人の応援を一生懸命していた。
買収すると当時でも逮捕されたりしたが、戸別訪問などが問題になったことはなかった。その程度のことは当たり前だったのだろう。
公職選挙法
第百三十八条 第一項 何人も、選挙に関し、投票を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて戸別訪問をすることができない。

第二百三十九条
次の各号の一に該当する者は、一年以下の禁錮又は三十万円以下の罰金に処する。
三  第百三十八条の規定に違反して戸別訪問をした者
まあ、当時は選挙とは地域の楽しいイベントだったのだろうと思う。盆踊りと秋祭りと選挙の違いなどなかったのだろう。だって候補者のどちらが勝っても、道路とか橋がどっちの町内に便利とか、新しい小学校がどっちに近いかという程度の差だったのだから。とすると、騒ぐだけの秋祭りではなく、勝ち負けのある町内会対抗の運動会のようなものだったのかもしれない。

私が就職したのは1960年代末、当時は革新と保守が対立していましたね。ベトナム戦争たけなわで、成田闘争も激しい時期でした。
あのとき、成田闘争に参加した人たちは、今の成田空港を見て何を感じているのだろうか。ハブ空港になりそこねた成田空港と日本の現状について責任を感じているのだろうか?
社会党は沖縄を返せと大声で叫んでいました。沖縄を返せというより、沖縄をベトナム戦争の基地に使うなといいたかったのでしょう。なにせ社会党はアンチアメリカ、アンチ民主主義でしたから。沖縄が帰ってきても社会党は沖縄のために何もしませんでした。

当時は選挙になると、私は組合の上部団体が支援する見たことも聞いたこともない立候補者の応援をしてました。といっても会場の準備とか片付けとかそんなことでしたけど。
個人的には父の教育で保守系だった私は、組合が推す候補者などは無縁です。職場から何人出せという組合の指示があれば、職場の先輩に対する気遣いというか義理で職場代表として行ったに過ぎません。アイドルのショーの準備や交通整理をする人が、そのアイドルが好きでないこともあるでしょう。まあそんなものです。
当時の選挙で候補者選びはテレビですね。テレビの画面で候補者が所信を述べるのを、父や母はじっと見ていたものです。
「どうも話し方がへただなあ」とか「棒読みだから気に入らない」なんて程度で父は候補者を選んでいました。といってもいずれ保守系の中での選択でしたから、まあそんなものでも良かったのでしょう。
当時になると町村合併で田舎の首長の選挙といっても、隣近所というわけにはいかず規模が大きく縁遠くなり、父としては盆踊りがひとつなくなったようで残念だったことでしょう。

その後まもなく父は亡くなり、選挙は私だけの関心事になった。家内は「どうせ私の一票なんて影響ないって」といって、ほとんど棄権である。危険なことだ。
宗教団体に入っている家内のお友達から毎度のように投票依頼の電話が来たが、家内はそんな依頼をハハハと笑い飛ばしていた。
家内は正直というか、うそを言わない性格で、腹の中と話す言葉は完全に一致している。投票する気がないのに「わかりました」などとは決して言わない。
私が選挙で候補者を選ぶのは基本的に保守系であること、どのような考えをしているかを報道や雑誌を見て決めていた。1990年代半ばインターネットが現れるまではそんなものだった。

1995年頃から我々がインターネットを使えるようになると、選挙だけでなく政治に関する情報は一挙に数十倍あるいは数百倍にもなった。誤解のないように、選挙違反になるようなことではない、候補者の行動や発言が・・虚実取り混ぜてだが・・私たちが知ることができるようになった。
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民主党の仙谷が
「日本が中国の属国化は今に始まったことではない」
と語ったなどということは、アットいう間に日本中に広まるのである。(2010/10/18)
私は日本が中国の属国になるかならないかは分からないが、そうならないようにするのが日本の政治家であろうと考える。仙谷は日本の政治家ではなく、中国の政治家なのだろう。

しかし既存のメディア、テレビ、新聞はインターネットを毛嫌いした。いや、それは当然だろう。なにせ己の存在を脅かすものはたとえ子供であろうと抹殺するのは人間のならいである。
インターネット時代になっても、家内はあまり選挙に関心は持たなかった。まずキーボードが使えない。娘が電子辞書を買ってくれたことがあるが、キーボードの並びがQWERTのものではなく、あいうえお順のものを選んだくらいだ。
家内にとってインターネットとは、私がエッチサイトを見たり、娘がヴィトンのカタログを見たり、息子がオンラインゲームをするものとみなしていたようである。
ところが最近変わってきた。家内が友達からUチューブで面白いのがあると聞くと、私がパソコンを叩いているところに来て、それを探してくれということが多くなった。家内が大好きな石川 遼の結果がテレビが待ちきれなくてインターネットで探せということもある。
そこで思うのだが、パソコンのインターフェイスがもっと簡単に年配者や女性に使えるようになれば、あるいはテレビでインターネットを見る場合でも同じであるが、インターフェイスが直感的で簡単なものになれば一般人の情報へのアクセスはものすごいものになるのではないだろうか。
みのもんた関口 宏、ワイドショーなどの不正確で偏った報道などではない、生の情報が大量に入ってくれば、あっという間に日本の民度は向上するのではないだろうか。
政治を変えるのは、政治家ではなく、家電製品、それもユーザーインターフェイス開発に依存しているのだろう。
技術はどんどん進む、日本の将来は明るいと思う。
中国寄りの政党や政治家が日本を後戻りできない危険水域まで持っていく前にそうなってほしいと願う。

この駄文を5年後、10年後に読んでどう思うだろうか?
もっとも、その時は仙谷がいうように日本は中国の属国になっていて、日本人は今のチベットのように何かあるたびに大量殺戮されているかもしれない。民主党の罪は重いぞ。


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