伝えるのは遺伝子ではなく心 2010.12.18

毎度ばかばかしいお話でございます。ア、わざわざ断らなくてもいいですって? すみませんねえ〜
../2008/rakugoka.gif では、本日のばかばかしいお話の、はじまり、はじまり

誰にでも、心ってえものがあります。
心ってなんだっておっしゃいますか?
自分とはなんだろうかと考えていると、そう考えている自分を見ている自分がいるようで、その自分を心というのでしょうか。
昔の人がいったそうです。「我思う、ゆえに我あり」って、そんなことを思い出します。
でも心ってなんでしょうか? 夏目漱石ではありませんよ。心って物ではないようですが、物でなければ心だといっては、元に戻ってしまいます。物ではなければ人でございましょうか?
法律では人以外、すべて物、犬も猫も物です。

自分とは何か?と思うと不思議というかどうも納得できないことでございます。夜布団に入って寝付かれない時、「俺っていったいなんだろう?」なんて考えが沸き起こります。
一度そんなことを考えはじめますと、思念というか心というか、いったいそれはなんなのだろうかと、ますます眠れなくなります。そんなことにこだわるのは自我を持ちはじめた思春期の子供だけだとおっしゃるかもしれません。しかし私は還暦を過ぎましたが、未だにこの自分というか心というものが何者なのか理解しておりません。
みなさんはどうなのでしょうか?
そんなことは私には理解できないほどの深遠なことで、理解した時はこの世におさらばする時なのかもしれません。
と書くだけではまったく意味がありませんので、本日は私の頭に浮かんだ妄想をつづります。
あっ、いつも私の頭に浮かんだ妄想を書いているのですが 

心って一人ひとりがそれぞれひとつ持っているわけですよね。アーサーCクラークの小説「太陽系最後の日」に複数の体がひとつの心を持っている、いやひとつの心が複数の体を持っている生物が出てきますが、まあ私の知る限り現実にはそういう生き物は存在していないようです。
思考実験ですが、
ひとつの心が複数の体を持っているとして、その個体はまっとうなフィードバック機構が働くのだろうか?という疑問を持ちます。

集団的知性といわれる蜂や蟻だって、ひとつひとつの個体にはそれぞれ心というか意思はあると思います。まさか女王蜂とか女王蟻の心が一族のすべての一挙手一投足を支配していることはないでしょう。
人間でもたまに体の一部がつながったベトちゃんドクちゃんのような結合双生児が生まれることがありますが、その場合でも脳の数だけ心があると思います。手塚 治のブラックジャックにはひとつの体に二つの脳がある奇形児のお話がありましたが、そのケースでも二つの心がありました。

では一人ひとりの心は独立しているのかといえば、そうではないのではないかというのが本日の主題です。
人間社会で誰かが発明とか発見をしたり、あるいは新しい思想を唱えれば、それは多くの人の知るところとなります。そして一人の人が発見した情報あるいは考えたアイデアはそれを知った人々に共有され、全員の知識、知恵となり、多くの頭脳が更にその考えを推し進めていきます。そう考えると、人間は一人ひとりがそれぞれの心を持っていますが、全体としての心があるという考えもできるかと思います。それを集団的知性と呼んでも、文化と呼んでも、集合知と呼んでもかまいませんが。
人間は社会的な生き物であるとも言われます。人間は一人でも夫婦だけでも生物として生きていくことはできるけど、文化を作り出しそれを引き継いでいくということはできないということでしょう。
そんなことは誰でも知っている当たり前のことですが、全体の心というものを考えると、それは人類が社会的生物として生きている限り、死滅することなく成長していくと考えられます。

人間は何のために生きているのかということは、古代から多くの哲学者が考えてきました。
最近の流行というか主流は、利己的遺伝子説というものらしい。人もそれ以外の生物も、そこに寄生している遺伝子を伝える乗り物に過ぎないという考えであります。でも、私は私という人間ではなく、私に寄生している遺伝子の操り人形であったなんて考えるのはあまり楽しくありません。
確かに利己的遺伝子説のいうように、個々の生物は死ぬけれどその中にある遺伝子は死ぬことなく子供に孫に乗り移って行くわけです。しかし、そう考えますと、人間が一生懸命生きているのがなんだかむなしくなりませんか。利己的遺伝子論によると、人間を含む生物は単なる乗り物であって、私たちの心は遺伝子の乗り物の生存する確率を高くするためのツールという位置づけになってしまいます。
そうじゃなくて、人間が生きているあかし、あるいは一生懸命生きれば、あるいは一生懸命考えたことは、集合体としての人間の心は成長していくのだと考えることはできないでしょうか?
つまり、人間は一人ひとりが生物ではなく、人間という社会あるいは文化がひとつの生き物と考えることもできると思うのです。
そう思うと、我々は人間全体の心を後世に伝えるために生きているといえるわけです。更に、心はタンパクでできた人間に固有のものではありませんから、自我を持つコンピュータが現れればそういう電子生物とも思考を共有して心を伝えていくことができるのではないでしょうか。
それに対して遺伝子は電子生物を乗り物にすることはできません。
ひとりひとりの人間は乗り物に過ぎないかもしれないが、ひとりひとりの心は大きな心を構成して、その集合体は伝えることに意味があると思えば生きがいってものも大勢で共有できるのではないかなんて思うのです。
私たちは利己的遺伝子の乗り物ではなく、人類の偉大な思念の一部でありそれを伝えていくために生きているのです。

毎度、ばかばかしいことばかり語ってきましたが今年もこれでおしまいです。
来年こそ、一歩前進しようと誓います。そして社会に何か少しでも寄与したいと願います。


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