老い 2011.04.30

私は若いつもりだが、いや若いつもりだったが、還暦を過ぎた今では年寄りであることは間違いない事実だ。
年月は誰に対しても決して見逃しをしてくれず、年の瀬になっても執行猶予などというボーナスは出してくれない。私も年年歳歳、老いているのは隠しようない現実である。
私も自分が歳をとったと感じたことはたくさんある。
まず目だ。私は生まれつき近眼で、小学校に入る前からよく目が見えなかった。それで中学の時からめがねをかけている。近眼は生まれつきでしょうがないが、老眼は生まれつきではなく歳をとるとなる。
数年前から、私はパソコンのモニターを見るのが苦痛になってきた。近眼のめがねでは焦点が合わず、裸眼では近眼のせいでよく見えない。つまり中途半端なのである。それでパソコン用というべき老眼鏡を作った。老眼鏡と言っても弱い凹レンズである。それをかけるとモニターを見る分には具合は良いのだが、ちょっと立ち上がって本棚に行こうとすると足元が見えない、本を手に取り調べようとすると焦点が合わないと、困ることおびただしい。といっても自分の目の調節機能が衰えているのだから、これまたしょうがない。
私と同年輩の多くの方は、二重焦点という遠近両用めがねをかけている。聞くとかけはじめたときはめがねの中間あたりではゆがんで見えるので落ち着かないが慣れるしかないという。どんな方法も完璧なものはなさそうだ。

それと足腰が弱ってきている。都会に出て来て10年になるが、都会は田舎より歩くことが多い。田舎では200メートル先のスーパーに行くにも車を使うのは当たり前だ。10分も歩くなんてことは想像もつかない。ところが都会では自分の車で移動するということはまずない。金持ちも貧乏人も、どこに行くにも電車である。最近は駅の上り下りはエスカレーターが多いが、横の移動は歩くことが原則だ。空港とか東京駅の京葉線ホームとの間には動く歩道があるが、それは例外だ。
東日本大震災以降は、駅のエスカレーターも休止しているところが多い。
都会に出てきて住んだところは4箇所になるが、一番遠いところで歩いて6分、近いところでは改札からホームより、家から改札口までのほうが短かった。とにかく歩くことに抵抗がある。今振り返ると、駅から遠いところに住んでいたら、家賃が月1万5千円安いとしても今までの10年間で180万浮いた計算になる。おしいことをしたものだ・・とは思わない。とにかく歩きたくない。
意外に歩くのは空港である。空港の乗り場は大きな飛行機に合わせて作るから、間隔が100メートルくらいあり、羽田などでは端から端まででは1.5キロくらいあるのではないだろうか? 九州などから来る飛行機は、64番ゲートとか65番ゲートなど端のほうに停まるので、飛行機から降りて最終リムジンバスに乗ろうと長い通路を走るのも、年とともに辛くなってきている。

体力が落ちてはいけないと、けなげにも私はエレベーターやエスカレーターをなるべく使わず階段を登るよう心がけている。しかしこれも過去形になりつつある。10年前、いや5年前でも10階くらい登るのは苦にならなかったが、最近は10階登ると息切れがする。悲しいが今一気に登れるのは14階が限度かと思っている。というのは先日15階まで登ろうとして、14階でギブアップして立ち止まって休憩してしまった。
ルーの法則というのがあるが、あまり歩くことは良くないんじゃないかという気がする。田舎のようにあまり歩かないほうが歳をとらないんじゃないだろうか? いや、体力の衰えがこないのではないだろうか?

運動神経も低下していることは疑う余地もなく、否定しようもない。
ずっと昔若い時に読んだエーリッヒ・ケストナーの「雪の中の三人男」という小説の中で、金持ちの主人公がスケートで転び、歳をとったと実感するシーンがある。私も若いときはスケートが得意だった。得意と言っても、まさか安藤美姫のようにオリンピックに出るとか、それどころか大会にでるようなしろものではない。スケートリンクでスピンをして見せて仲間を驚かせるくらいが関の山である。
いや関の山であった。
しかし50歳前のこと職場の連中とスケートリンクに行った。20年ぶりである。かっこいいところを見せようと、スピンしようとしたら、即こけて手首を骨折した。そのときは最近・・20年間を最近といえるかどうかは疑義があるが・・スケートをしていないから、へたになったのだろうと自分に言い聞かせた。でもあれこそ老いの始まりだったと今は思う。
老いを感じたのは、なにごとかをできなくなったときではなく、ずっと後になってあれがそうだったのかと感じるようだ。

容姿やアクションが売り物の、映画俳優は歳をとるとどうするのか?
いくつかのパターンがあるようだ。
ひとつは容姿の衰えを感じたらスパッと引退してしまう方々がいる。そうすれば、スクリーンには永遠に若い姿が残る。マリリン・モンローやジェームズ・ディーン、赤木圭一郎は文字通りこの世を去ってしまったので、永遠の若さを手に入れた。
年とともに老いていく実像に合わせて、その年代の役柄を演じ続ける方もいる。宇津井健やクリントイーストウッドなどはこのタイプなのだろう。
はじめから年齢不詳の人物という方もいる。田中邦衛は「若大将」に出ていた時と「北の国から」のときと顔が同じだ(独断が入っております)
歳をとっても若くしか見えない方もいる。あるいは若く見せているのだろう。加山雄三とか高橋英樹なんてそんなタイプだ。
しかし、老いても若い役柄を演じるのは悲しい。私の大好きなオードリーが演じた「いつも二人で」は大学生から年配までのお話だが、大学生の役は見ていて苦しい。あのときオードリーは38歳、どうみてもちと無理だね。
ずっと後年、オードリーはユニセフなどで活躍する。そのときの写真を見たことがあるが、もう姿は年寄りそのものだったが、私は「いつも二人で」より美人でチャーミングだと思った。
吉永小百合はいつまでも若さで勝負!のようで、毎朝JRの駅で見かけるが、彼女が老いた容姿で勝負できなければオードリーの足元にも及ばないことは間違いない。
お断り
私は吉永小百合は大嫌いだ

不老不死と言われるが、最近ネットで不老と不死はまったく異なるものだと書いてあるのを見た。人間の細胞は分裂できる回数が決まっているので、不老すなわち若さを保つためには新陳代謝を活発にしなければならず、それは不死とは逆方向になるという。

まあ、還暦を既に過ぎている身なので、100メートルを14秒で走ろうとか、懸垂を30回しようなんて大それたことは望まない。せいぜい20キロを3時間半で歩ければ満足だ。それを維持できるようにがんばろう。

本日の感慨
書くテーマが、定年前から定年後、そしてついに老いか
わしも歳をとったものだ
そのうち死後の世界になるのだろうか?



ひとりごとの目次にもどる