引越しの話

11.05.22
今住んでいるマンションに越してきて3年半になった。普通は記念日とか過去を振り返るには1年めとか2年めという日をとりあげるだろうが、何年半という日に何かを感じるということはないだろう。私の場合はちょっとあるのだ。


日本で借家契約というのは2年が普通だ。そして契約を更新するときに、はじめに払う権利金と同じくまた更新料を払うのが多い。
もっとも借家の家賃のしくみは、土地土地によって大きく異なるそうだ。福島にいたとき知り合いの不動産屋から、自分たちは賃貸のプロだがよその土地の家賃の仕組みがどうなっているかは知らないという話を聞いたことがある。

過去私は田舎でも都会でも借家住まいを長年していた。借家に住んで契約期間が過ぎて更新したこともあるが、更新のたびにお金を払うのもバカらしい。同じくお金を払うなら、引っ越して新居(?)に移り住んだほうが気分一新にもなるじゃないか。
江戸時代、江戸の町に住んでいた庶民は自分の家など持っておらず、みな長屋に住んでいてしょっちゅう引越しをしていたと聞いた。
葛飾北斎は90歳の生涯で引越しを93回したという。
借家住まいの特権は気楽に引越しできることだ。 もちろん引越しをすれば荷造りや荷解きの手間が大変だし、引越し代もかかる。更に引越しの手続き、新聞、ガス、電気、水道、郵便、車の車庫証明、子供が大きくなると学校関係、近所付き合いなどたくさんの面倒なことを処理しなければならない。だから契約が切れる2年ごとに引越しをしていると、そういったことが煩わしいし、気分が落ち着かない。間を取って契約更新を1回して、2回目の更新をせずに3年半で引っ越すくらいがちょうど良いかもしれない。
思うだけでなく私は実践してきた。そんなわけで一箇所に4年以上住んだのは持ち家の時だけで、借家はすべて3年半以下である。もちろん3年半でなく、契約の期限一杯の4年まで住んで次を探してもよいが、何かあっても余分にお金を払うことがないように多少余裕をみていたわけだ。
そんな私だから、今のマンションに住んで3年半が経過したということは、一箇所に住んだ期間としては長期の部類に入ったということになる。

私が生きてきた60数年の間にどのくらい移り住んだのか。そんなことを思い返してみた。
一体私は何箇所に住んだのだろうと指折り数えると、11箇所になった。
そんなことを思い返すと思い出がどんどん湧き出してくる。いや、そういうことを思い返すということ自体私が歳をとったということだろう。
まあ、本日はそんな思い出を少々

召集されていた父は戦争が終わったとき、兵隊に行く前の仕事であった横須賀の海軍工廠に帰れるはずはなく、生まれた町に戻ってきた。
海軍工廠とは海軍の持っている造船所で軍艦を作るところである。今は横須賀のアメリカ海軍基地になってしまった。海上自衛隊はそのアメリカ軍基地の脇にこじんまりとしている。どっちが大家だと言いたい!
帰ってはきたものの、次男だから農業をする土地もない。田舎町の中小企業に職を見つけて働いていた。戦争の時に運転免許を取っていたのが役に立ったときく。
住んでいたところは田舎町の更に町外れの長屋で、長屋の屋根は瓦でもなく、トタンでもなく、なんと杉の皮を葺いたものであった。今の人は杉皮なんていっても分からないだろう。杉の木の幹の皮を薄くむいて30センチかける50センチくらいに四角に切ったものを瓦のように敷き詰めていく。まさに雨露をしのぐ程度のもので、長雨が降れば雨漏りがする。当時の田舎の長屋はそんな屋根が普通だった。
わらぶきと聞くと粗末な家というイメージが浮かぶかもしれないが、実はわらぶき屋根というのは杉の皮よりは数段上のグレードなのだ。
その長屋で私の二番目の姉が産まれ、私が生まれた。一番上の姉は戦争中の産れだ。
私はそこには数ヶ月しか住んでいない。もちろん記憶があるはずはない。

父はその長屋があまりにも狭いので、引揚者用の長屋を見つけて引っ越したそうだ。そこは6畳と4畳半の二間があった。今の人が聞いたら呆れるだろうが、当時は家族数人が住むには十分と考えられていた広さである。
その長屋ももちろん屋根は杉の皮であった。水道は一戸一戸にはなく、長屋の棟ごとに1箇所あった。そこには10年くらい住んでいたことになる。はじめは賃貸であったが、その後大家が住民に売り払ったので、それぞれが思い思いに改造をするようになり、長屋はいつしか棟は続いてはいたが内装も外装も間取りも変化していった。もちろんどの家も水道をつけた。
父はまっさきに屋根をトタン葺きにした。それが自慢だった。これで長雨が降っても雨漏りがしないようになった。すばらしいことだと、子供ながらに私も思った。私に妹が生まれた。
やがて父親の兄が田舎で農業をするのに見切りをつけて東京に出て行くことになった。昭和30年頃だ。祖母は東京に行くのはいやだといい、我が家に来た。6畳と4畳半に7人が暮らしたわけだ。上の姉は中学生になっていたしいくらなんでも狭い。

ということで父は自分の家を建てることにした。田舎であったが中小企業のサラリーマンであった父にとって家を建てることは、人生の一大事業であったことはいうまでもない。当然ながら新居は更に田舎町の中心から離れているところに建てられた。家を建てたといっても、その家は今の基準で言えば広いとはいえない。6畳二間と4畳半二間である。そこに7人暮らしは今なら狭いと感じるだろう。しかし当時は十二分の広さだった。
父はやっと自分の家が持てたということがとてもうれしく誇らしかった。それは私が子供心にも良くわかった。そして父は自分が死んだ後も、私がずっと住むだろうと思っていたわけだ。まあ古い人間というか古い価値観といってしまえばそれまでだが、父は戦争に行ったりいろいろと苦労をして人生の後半はのどかに過ごしたいと願うことをとやかく言うこともなかろう。やがて祖母は亡くなり、上の姉も下の姉も結婚して出て行った。
やがて私も結婚することになり、当分の間別居させてもらうことにして勤め先の近くのアパートに住むことになった。それから私の借家住まいの歴史が始まる。

私の歴史を一覧表にすると次のようになる。
住まい期間暮らしの状況
木造長屋
1K
数ヶ月
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屋根は杉の皮、水道なし、暖房は火鉢
木造長屋
2K
10年
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屋根は杉の皮→トタン葺き・共同水道・炊事はマキ・汲み取り便所・暖房は木炭コタツと火鉢
木造1戸建
4K
14年
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屋根はトタン葺き・水道・炊事はマキ→プロパンガス・汲み取り便所・暖房は木炭コタツ→電気コタツ・電話あり
木造アパート
2K
3年少し
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炊事は都市ガス・汲み取り便所・暖房は石油ストーブ・電話なし
当時電話を引くのは非常に困難で申し込んでも何年もかかった
車はカリーナの中古に乗っていた
木造1戸建て
4K
2年
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事情があって親の家に戻ってきた
車はシビックの新車を買った
鉄筋アパート
3K
6年
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ここは県営住宅で家賃は安かったが、所得制限があり高給取りは住めなかった。
水道・都市ガス・便所は浄化槽・電話あり
車はカローラの中古だった
木造1戸建て
4DK
14年
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子供が大きくなって自分の家を買った。大事業だった。
水道・浄化槽・都市ガス・車はカローラの新車を買った
インターネットは電話のモデム
木造1戸建て
2K
数ヶ月
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突然の引越しで都会に出てきて右も左も分からず、とりあえず住んだというのが実情
水道・都市ガス・下水・車は都会では不要で捨てた
インターネットなし
鉄筋マンション
3DK
2年
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再び家族4人で住む。狭いところで、不動産屋と大家は、ここに大人4人が住むのかと驚いた
インターネットはADSLになる
鉄筋マンション
3K
3年半
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娘と息子が巣立ち再び夫婦だけになる
インターネットは光になる
鉄筋マンション
3LDK
3年半 継続中
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オール電化である。しかしこの選択が、丁と出るか半と出るか、裏目になりそうな予感がする・・
足腰が弱くなると車がほしくなるのだろうか?

振り返ってみれば、私の60年の人生にもけっこう起伏があるものだ。
なにもなければ私はあと20年は生きるだろう。そうすると引越しをあと二三回するのだろうか? 私がそんなことを言うと、家内はトンデモナイという。引越しするとき食器や衣類の荷造りをするのは私ですからね、もうそんなことをしませんよという。


おお!さっそくYosh師匠から突込みを頂きました(11.05.22)
今まで住んだ箇所。
とうた様、
一体私は何箇所に住んだのだろうと指折り数えると、11箇所になった。

私は26箇所です。
長期滞在(20ヶ月少し)したホテルを加へれば其れに加へられます。

Yosh師匠毎度ありがとうございます。
うーん、師匠も私とたいして歳が変わりませんから、平均2年で引越しされたということになりますか?
私など、まだまだ未熟であると感じ入ります。
師匠はぜひとも葛飾北斎を超えるようがんばってください。


ヨドガワ様からお便りを頂きました(11.05.23)
住まいについて
大阪のヨドガワです。ご無沙汰しております。
引っ越しのお話を読ませていただきました。佐為様のお住まいの変遷はまさに私たち日本人の生活の歴史のようです。興味深く、またしみじみと致しました。
私は現在の住まい(賃貸ですが)で9回目です。
3才までは長屋でありました。両親も若く、ご近所の方々もやはり若い方々が多かったと思います。当然電話も亡く、お隣の家がテレビを買うと近所の人達がみんなで押しかけて見せて貰ったことを覚えています。
みんな貧しかったのですが、近所づきあいは楽しく賑やかでした。
法で定めるのではない、お互いに助け合う気持ちがあったと思います。
一生懸命働き一生懸命生きた、単なるノスタルジーでしょうか。
要求することばかり教える昨今のご時世には、もうあのような暮らし(自立的相互扶助)は望めないのでしょうか。ちょっと残念であります。
でもちょっとだけイイ気分、国旗掲揚→起立という当たり前のことと当たり前に大阪は取り組んで行くそうです。

ヨドガワ様 毎度ありがとうございます。
昔の思い出は美化されやすく、本当にそうだったかどうか、なんともいえないところはあります。
三丁目の夕日の世界に戻れば、どぶ川とか、ゴミの処理、汲み取り便所など夢が打ち砕かれそうで・・
国旗掲揚のときに起立するのは当然ですよね、
私が小学校から高校まで、立ち上がらなかった先生はいませんでした。日教組バリバリもちゃんと立ち上がり気をつけしてましたが・・

あらま様からお便りを頂きました(11.05.23)
おばQ さま あらまです
たくさん引越しをされていますね。
そう言えば、流しの劇団の人たちも、引越しが仕事だと言っていました。
ところで、小生の場合は、3回です。
いずれも、区画整理で追い出されました。
それにしても、ヒドイ話だとは思いませんか ?
普通、区画整理で移動をさせられたら、次に住む場所は区画整理のない場所ですよね。
なのに、3回も引越しです。
いえ、新しい家が建つまでは、アパートなどに暮らしていましたから、正確に言えば 5回引越ししました。
市の無計画には呆れています。

あらま様 まいどありがとうございます。
それって、いろいろな意味ですごいですよね、
きっと市の政権交代の巻き添えをくったのではないでしょうか?
田舎ですと、よくありました。小学校を統合して新設する時、二つの集落が綱引きして、いったんはこちらに決まったけど、首長が代わると・・なんて
ともかく、お疲れさんでした。


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