私は既に死んでいる

11.08.12
私も既に還暦を過ぎ、余日というのか余生というのか老後というのか、客観的に見れば無用な人生を過ごしている。なぜ無用というのかといえば、生物の目的は子孫を残すことであり、それを達成してしまえば生きる必要のない無用の命なのである。そのために、すべての生物は神様が子孫を残すという目的を効率よく果たすように設計してある。いや、神様を信じない人のためには、目的を果たす以上の無駄は許容されていないと言おう。

人間の一世代は普通30年といわれており、これは昔も今も変わらない。更に遡って縄文時代くらいになると一世代が20数年だったのだろうが、それ以下にはなるはずがない。
英語で世代をgenerationというが、これは30年という意味ももつ。
というのは人間が生まれて生殖できるようになるには、女性でも男性でも15年くらいかかる。具体例として「15で、ねえやは嫁に行き〜♪」とあります。もちろん戦国時代なら7歳とか6歳で政略結婚というのはありましたが、まさか子供はできなかったでしょう。今は二次性徴が早くなっているというけどそれは栄養過多とかによるもので、そういう外乱がなければやはり15歳くらいかと思います。そして生まれた子供が独り立ちするには最低7歳くらいまでは親の保護が必要で、15足す7で20数年が必要となり、結婚して翌年子供が生まれても子供が一人で生きていけるようになるまで親は死ぬわけには行かない。これが最低一世代となります。一世代は生き抜かないと次の世代につなげない。

今、窓の外でセミが鳴いている。セミの命は1週間とか言われるけど、もちろんそれは成虫の寿命であり、幼虫の期間は何年も地中で過ごし、短命どころか昆虫類でも上位に入る長寿命だという。同じく、うすばかげろうの寿命は数時間というけど、これも幼虫から数えれば昆虫としては普通だ。この場合は、一世代と平均寿命の関係は人間と違い、成虫になって卵を産むまで生き抜けば次の世代につなげることができる。
ウェブをさまようと面白い意見を見つける。人間の平均寿命というのは個体が生きた年数の平均だから、それと同じく他の生物でも生まれた個体全部の平均寿命をとれば、どの生物でもみなほとんどゼロに近いというのだ。確かにそうなのだろう。
くらげやサンゴなどは無数といえる卵を産むが、そのほとんどは他の生物に食べられて成体になるのは親と同じく1個あれば大成功なのだろう。そしてくらげの寿命は1年以下で卵の数から考えると、もう秒単位であることは間違いない。高等動物でも似たようなもので、マンボウは何億という卵を産むらしいけど、仮に寿命が20年で成体まで成長するものが数匹とすると平均寿命は数十秒単位になる。
くらげや魚はちょっとというなら、鳥はどうだろう? 何年か前皇居外苑で野鳥観察の会に参加したことがあるが、解説者は野生の鳥で、卵から孵ったヒナで年を越すことができるのは1割はいないと言ってました。
いや、野生の鳥だけでなく、人間もそんなに変わりはなかった。吉宗時代も生まれた子供が年を越すことができるのは半分くらいだったとかで、江戸の人口は1歳以上の人間の数だったそうです。誕生日前の乳児はまだ人間じゃないということなのでしょう。

と、あちこちさまようのは私が老人だからだろうか? いや、元々が非論理的なためであろう。
私の中学校の同級生は49人いた。少子化の今は想像できないだろうが、小学校は一クラス55人、中学校は49人、高校は50人であった。教室の大きさは今も昔も変わらないから、狭いところにぎっしりといたわけだ。
2年前に還暦になったとき中学校の同級会をしたと、その半年後くらいに同級会の幹事から手紙が来た。出席者名簿がついていて、昔のクラスの名簿に現在の状況が書いてあったが、私の欄は行方不明となっていた。だから招待状が来なかったのだ。今でもクラスの何人かとは年賀状をやり取りしているのに、私を行方不明とするなんて、ひどい奴らだ。まあ、呼ばれてもはるか東北まで行く旅費も大変だから招待されなくて良かったか。
驚いたのは49人の中で5人が死亡となっている。行方不明は私を含めて7人いる。生存が確実なのは、49人中たった37人、4分の3である。行方不明のうち一人二人はお亡くなりになっているのだろう。60年前に生まれて、定年後の余生を持つことができたのは9割ということだ。考えてみると、私は幸運な方なのだ。

私は身体頑丈なほうではなかった。特段の病気があったわけではないが、体は細い、筋肉はない、運動はトロイと良いところがありません。運動会では常にヒーローを輝かせる脇役を演じておりました。
私は極端に言えば栄養失調、いや栄養不足であったということは事実だと思う。栄養のあるものを、食べたいだけ食べることができれば、身長もあと5センチくらいは伸びただろうし、体も頑丈になったと思う。私は結婚前は58キロを超えることはなかった。母親が与える食事ではそれが限界だったのだろう。結婚してあっというまに62キロになった。それは食べすぎとか太りすぎというのではないだろう。その証拠に62歳の今も63キロを維持しているから。要するに私の健康体重は62〜63キロなのだろうと思う。
なかなか、私が既に死んでいるところまでたどり着かない。
内輪話であるが、私は結論を思いつくと文章を書き始める。話のきっかけは考えるが、途中経過はキーボードを叩いて頭に浮かぶ妄想によってどんどん変わる。困るのは結論にたどり着かないこともあることだ。

ともかく身体頑健でない私が生物の本来の寿命をはるかに超えて、余生にたどり着いたということは偶然とはいわずとも、皆さんのおかげである。みなさんといっては変なら、医療やその他の外部のサポートによるものだ。
私が死んだかもしれないと思いあたることは何度もある。
高校3年のとき盲腸になった。今では盲腸になっても開腹手術はせずに、薬で治してしまうそうだ。1960年代半ばでは入院して腹を切り、1週間で退院した。当時は驚異的な短期間であった。
昔から盲腸炎はあり、薬もなく手術もできなかった時代の死亡率は半数くらいらしい。なぜ死なない人がいるかというと体力があってばい菌に打ち勝てば生き残れるのだろう。私もともかく手術ができず抗生物質もない時代であれば半分の確率で死んでいたことにある。いや、虚弱体質の私が幸運な半分に入ったはずがない。死亡した半数に入ったのは間違いない。よって死亡1回。

以前書いたが、二十歳くらいのとき、静岡の日本平というところに自転車で行って降りるとき下り坂でカーブを曲がれず道から飛び出した。空中で自転車ごと1回転したのが分かった。死ななかったのが不思議だ。
私は骨折をよくした。幸いここ10年は骨折をしていない。実生活で人のために骨を折るようなことをしていないせいだろうか?
バイクに乗って骨折したことは3回くらいある。そのほかにアイススケートで左手首骨折、日常生活でも、右ひじ骨折、引越しで左指骨折、その他数えたらもっとあるだろう。幸い折れた骨が外に飛び出したり、命に関わるようなことはなかったが、適切な処置とリハビリがなかったら今頃はかんぺきに体が不自由な障害者になっていたに違いない。
20年位前のこと、会社で仕事中に怪我をした。細かいことはいえないが、かなりひどかった。手術も何もしなければ、死亡した確率はコンマ3くらいはあったのだろうか?
50過ぎたときに定期健康診断で見つかった大腸ポリープをとった。えらく大きくこれはガンかなと自分でも思った。医者はガンじゃないといってくれたがあやしいものだ。これも内視鏡手術でとったからよかったが、そうでなければ今頃は生きていなかったと思う。よって死亡1回。
昨年はばい菌が体に入り、高熱とハレで意識不明、家内が救急車呼んでくれた。行った先が総合病院であったのは幸いだった。病院で治療を受けなければ確実に死んでいた。これも一回死亡だ。
そんなことを考え合わせると、私は死んだかもしれない病気や怪我は何度もしており、現代医学がなければ既に死んでいた。

医療の発達だけでなく、皆様のおかげで私は今生きている。昔なら考えれられないような年齢まで到達したということは、これから世の中にお返ししなければならないということだと思っている。
いや、そうではないのだろう。神が私に何かをさせるために、私を今まで生かしてくれたのだろう。

老人の誓い
歳をとったせいかお盆とかお彼岸になると、死んだ人のことを思ったり、自分がいかに死ぬべきかと考えるようになった。60を過ぎて生を受けているのは、神が私に何かをしろと命じているはずだ。それを見つけて応えねばならないと思う。
お盆になったが田舎のお墓に行くのはできないので、その代わりに靖国にオヤジの冥福を祈りに行こうと思う。親父は戦死せずに戦後を生きたが、靖国に祭られる価値はあると思う。



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