凛として愛 (りんとしてあい)

12.05.08
これは映画である。映画と言っても、ドラマではないし、そもそもストーリィといえるものはない。内容は、明治から現代までのさまざまな出来事を、それぞれをちょっとずつつないだというようなものだ。イメージビデオといっては誤解を招くかもしれないが、日本という国家のイメージビデオではないのだろうか。私はユーチューブでつまみ食い的に見ていたが、全体を通しで見たことはなかった。
だいぶ前に、ぶるむん姫様からDVDを拝受した。姫様には申し訳ないが、DVDは長い間ほうってあった。会社を退職して本棚の片づけをしていて気が付いて、じっくりと観た。
ぶるむん姫
ぶるむん姫様の肖像
正式称号はプリンセス・日本奪還・ブルームーンであらせられる。
セイラームーンではない。

感想は・・・なんともいいようがない。いや、実を言って感動はしなかった。映画が悪いというわけでもなく、内容に同感しなかったわけでもない。しかし、私にとっては何の意味もないというか、改めて述べるまでもない、そんな感じだ。
誤解のないように補足説明すると、車で走っていて隣の車線の車がこちらより速かったり、遅かったりすると、自分が走っていると感じるわけだが、全く同じ速さなら走っていると相対的には不動であり走っていると感じないだろう。そんな風だということだ。
つまり、「凛として愛」が描いていることは、すでに私が知っていることであり、そのモチーフには同感するとか反発するとかではなく、当たり前のことじゃないのか、改めて大声を出して主張するようなことでもないと思ったということだ。

しかし今の日本は、それを主張することに意味がないということでないということが、問題なのである。現在の日本の問題は当たり前の価値観を、当たり前と感じないことなのだ。
靖国神社 といっても、それは「凛として愛」のできの問題ではなく、「凛として愛」の価値の問題でもない。日本の社会というか世の中が、あるべきところから大きくずれているということであり、それをたださんとしようとしているのが、この「凛として愛」なのだ。
しかし要するに、私にとってはこの映画は意味がないことに変わりはない。
ぶるむん姫様、お許しください。

世の中があるべきところから大きくずれているという問題は、日本人が日本の歴史を知らないということにある。「日本史なら高校で習った」とか、「大学入試は日本史をとったよ」と語る人も多いかもしれない。しかし、その日本史は現代史まで習いましたか? 正しい歴史観なのでしょうか?
そこが問題でしょうね、
私は戦後間もなく生まれ、小学校は1950年代後半、中学校は1960年代初めだった。当時の先生は戦争に兵隊として行っていた人が大半で、新制大学を卒業した若い先生は格下扱いでばかにされていた。
今時は、新制大学といっても意味が通じないだろう。
兵や下士官ではなく、中には小隊長だったという先生もいた。そんな人が当時まだ40歳くらいだった。

今と違い当時の先生は、戦争を頭でなく自分の体験で理解していた。先生の中には共産党も日教組もいたが、単に戦争反対というプロパガンダではなく自らの経験で戦闘を認識していたことは大きいと思う。
もっとも、今考えるとトンデモナイ先生も多かった。日教組もそうでない先生も、子供たちが悪さしたり、単にうるさいという理由でビンタしたり、殴ったりしていた。私はずっと下駄で通学していたが、4年生になって念願かなってズック靴を買ってもらった。それを履いて学校に行ったら、あっという間に盗まれた。悲しくて泣いていたら、担任の先生がうるさいと言って私をビンタした。悪いことをしたのではなく、盗まれて悲しいと泣いていたら先生にビンタされたなんて、今の時代ならその先生は即刻懲戒解雇だろうね。
そんなふうに今の時代とは大違いだった。今の先生を草食動物とすると、当時の先生は肉食動物どころか肉食恐竜のようなものだった。
ともかく「デモクラシーよりイモクラシー」とか「終戦記念日というのはうそで、本当は敗戦記念日じゃないか」というようなことを語る先生はいたが、日章旗を上げるなと言う先生はいなかったし、靖国神社を冒涜するようなことを語る人はいなかった。先生の同年輩の人で靖国に祀られている人は多かったし、もしかしたら靖国に祀られた友人もいたのかもしれない。中学校の時「きけわだつみのこえ」を薦める先生がいたが、その先生が共産党とかサヨクとしてではなく、もしかしたら自分もその中にいただろうという思いがあったと推察する。
とにかく当時は、私に当たり前と思われる価値観が大多数の人に共有されていたということは間違いない。
あるいは逆で、当時の価値観を私が当たり前と刷り込まれたとも言える。

現在は当時に比べておかしな先生が多い。国歌を歌いたくないという人が中国や北朝鮮だったらどうなるのか、考えてみてよね、
地方公務員法
第三十一条  職員は、条例の定めるところにより、服務の宣誓をしなければならない。
第三十二条  職員は、その職務を遂行するに当つて、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。

法を守らない人が地方公務員になれることができるはずがない。きっと国歌を歌わない先生はもぐりではないのだろうか?

学校ばかりではない。大手新聞は反日、サヨクに汚染されている。以前は読売はまっとうと思っていたが、最近というかナベツネと若宮がタッグを組んでからは左翼思想に染まってしまった。推測だが、新聞というビジネスが退潮傾向にあり、貧して鈍したのではないだろうか?
ジャーナリズムのために新聞を発行するのか、お金儲けのために新聞を発行するのかの違いなのだろう。
もっと新聞業界が苦しくなって、完璧にサヨクに堕ちるのか、正常に戻るのか、どうだろうか? おっとそれよりも新聞が消滅するのが早いかもしれない。
テレビもK-POPとか韓流だけでなく、自虐史観満載だ。最近はテレビも経営的にだいぶ苦しいようだ。韓流というのもその関係なのだろう。中国のお金が入れば(既に注入されているのかもしれない)今以上、中国マンセーになるのだろう。
バラエティ番組などに出てくる芸能人はみなサヨク、自虐史観で染まっている。それがワイドショーでデンパを発信し、せんべいを食べてみている主婦はまっかっか
どうしたらいいのだろうか?

インターネットも正論ばかりではない。デンパを出しているサイトやブログはたくさんある。MIXIには反靖国神社コミュニティなんてのがある。サヨクの勢力はあなどれないのだ。
そういう人たちに対するものとして「凛として愛」はパンチが弱いと思う。とはいえ、この程度の映画でも、どこでも上映しないというのだからサヨクの勢力には恐れ入る。

この5月の連休に国旗を揚げた家はどれくらいあるのだろうか?
私の住んでいる600戸のマンションで、国旗を揚げたのは我が家だけだったようだ。
ヒノマル
といっても我が家も玄関のドアに100円ショップのヒノマルを取り付けただけだ。
以前、靖国神社で買い求めたちゃんとした国旗を掲げたことがあるが、即座に家内が人様の邪魔になると片付けてしまった。

ところでこの映画の中に、剣道のシーンがある。あれは武道こそが日本の心を体現しているというメッセージを送ろうとしているのだろうか?
しかし、それはちょっとというか大きく違うだろう。
剣道六段を自慢していた橋本龍太郎は媚中であった。野球のイチローはWBCで武士道を見せてくれた。武道と日本の心は関係ない。
しかし日本の心というのもおかしいなあ、
別に日本の心ではなく、世界のどこでも普遍的な真理ではないのだろうか?
真理を捻じ曲げているのはサヨクの論理、特定アジア崇拝の論理にすぎないように思う。
この映画を観た成果は、それを再確認したことだろう。
こんな時代というか、自虐史観満載の偏向教育、偏向報道に、私一人の力ではなんともならないが、反サヨクの活動に積極的に参加していきたいと思う。


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