体罰

13.02.13
2013年の2月現在、柔道の日本代表選手への体罰に端を発して、体罰是非の議論で日本中、大騒ぎである。中国が武力侵攻してくるなんて国家の重大問題よりも、北朝鮮の核実験よりも、話題になっているという不思議?
体罰の是非を語る議論をテレビや新聞で見かけるが、私には自分をその立場に置いていない空虚なお話のように聞こえる。まあ当事者ではない評論家が語っているのだからしかたがないのだろう。よって私もその議論に参加したい。
体罰と言っても、ケースもいろいろあり、発言する立場もいろいろある。ここでは私が生まれてから今までの体験を基に語る。いや体験を語る。

なお、女子柔道で行われた体罰の内容とは などなんだそうです。

私の感覚では体罰に値しないようなものもありますが、まあ受け止め方というか感受性には個人差があるのでしょう。
私は体罰は一概に論じることはできないと思う。いろいろなケースがあり、状況によって判断されるべきだと考えます。
私は子供の時、正確に言えば18歳までの期間、家庭でも学校でもしょっちゅう体罰を受けた。昭和40年頃まで体罰は家庭でも学校でも社会でも、問題とならない時代であった。悪いことをしたら叩かれるのが当たり前だった。いや、正確に言えば悪いことをしなくても体罰は当たり前という時代だった。そういうのはいじめとか虐待であって、体罰じゃないかもしれません。更に、学校で先生に体罰を受けて、家に帰ってからそのことを話せば、それを聞いた親父が「お前は悪いやつだ」と言って親父に叩かれるというのも普通のことだった。
一事不再理という言葉は、教育においてはないのだろうか?
一つ悪いことをすると、教師と親の罰があるというのが現実らしい。まさに一粒で二度おいしい?

もちろん体罰といってもゲンコで殴る、平手でビンタする、棒で叩く、竹刀で叩く、柔道の技で投げる、校庭を走ってこいというもの、飯抜き、立っていろというのもあり、多様であった。
生物多様性は危機にあっても、体罰多様性はその心配はないようだ。
では私の思い出からいくつかのケースを上げる。すべて私の体験したウソ偽りのない実例である。
おっと、これだけしかないのかとは言わないでほしい。おびただしく受けた体罰の中のほんの一部にすぎない。

なお私が子供の頃と、現在とは状況が大きく違うことをご理解いただかないとなりません。
私の子供の頃、スーパーもコンビニもありません。商店で買い物するのは店に商品が並んでいるのを客が手に取ってレジに持っていくのではなく、買い物客は店の人に「あれください」というと、店の人が棚とかショーケースから物を取り出してお金と引き換えに渡すわけです。だから万引きというものは皆無ではありませんが、非常に少なかった。すぐ手に取れる状況ではないから、盗むぞという断固たる意思がなければ盗めるものではない。出来心では万引きは起きえなかったのである。
鉛筆のような文房具であろうとお菓子であろうとガラスのショーケースに入っていて、客が自由に手に取ることはできなかった。LPレコードなんて貴重品でしたからショーケースに鍵がかかっていた。自由に手に取って選ぶなんてできず、触りたかったら店の人に頼んで出してもらい、店の人の目の前でながめるのが関の山。
だから、私たちが盗むというのは、畑のキュウリやトマト程度であった。
火遊びしようにも、ライターもなければマッチもない。我が家には徳用型マッチといって何百本も入った大きなもの1個しかありません。持ち出せば母親が料理もできず、親父もタバコが吸えなくなりますからすぐにばれます。だから簡単にはできません。
泥棒するにもまずどこの家庭に大金がありません。みーんな貧乏ですから。
他の学校の生徒とけんかするにも、バスも電車もありません。当時の自転車は自家用車と同じで、一家に一台しかなくオヤジが会社に乗っていくのが普通ですから、わざわざ何キロも歩いてけんかに行くこともありません。
当時は小中学校は数少なく通学は歩いて1時間は普通でした。ですからよその学校となるとそうとう離れていました。
ということで、悪いことをしようとしても、たかがしれていたのです。
おお、そうすると犯罪を防止するのはみなが貧乏になれば良いのでしょうか?
いや、貧乏ではなく、物がなければ犯罪が起きないということでしょうか。

ケース1
ビンタ 小学校低学年の頃、干し柿だったと思うが兄弟で分け合った。妹がもっと欲しいと言ったが等分に分けたわけだから私は気にせず自分の分を食べた。その夜のこと、妹がおやじにそのことを言うと、親父は私をビンタして「妹がほしいと言ったらくれてやれ」と言った。
果たしてこれは体罰なのだろうか? 単なる八つ当たりなのだろうか?
当時は貧乏だったからしょうがないのかもしれない。あるいは年長者は年少者をいたわれということになるのだろうか?
いや、そんな消極的なことではなく、世の中の不条理に負けず生きていけるように気合を入れてくれたのだろう。実際問題、世の中はきれいごとだけではないし、先輩、上司は無理難題を平気で押し通す。多少は不条理があってもしょうがないということを体で理解しなければならないこともあると私は思う。ともかく私はこの一件に関して親父を恨んではいない。

ビンタ ケース2
小学校のとき、学校で「ドリル」というものを販売した。なんでも教科書だけでは足りないからそれを補う練習問題が載っているものだそうだ。多くの子が購入を申し込んだ。家に帰ってその話をすると、我が家では余裕がないから買えないと言われた。子供ながらそれは理解した。
それから1年2年経って、妹がドリルを買ってもらった。私は親父になんで私には買ってくれずに妹には買ってくれたのかと聞いたら、「うるさい」とビンタされた。
あれはなんだったのだろう?
単に私の時は非常に貧乏で、妹のときには少しだけ貧乏だったのだろうか?
私より妹がかわいかったのか? それとも単なる気まぐれか?

ケース3
私の家は貧乏で、小学校に入学してからずっとはだしに下駄で通学していた。もっとも当時は下駄で通学している子供は多くはなかったが珍しくもなかった。学校では上履きにスリッパを履いていた。
親父は下駄の歯が減るからと歯の部分に釘を打った。ときとして釘の先がゲタを突き抜けることもあり、突き出た釘の先が足の平に当たり痛かった。
ちなみに「はだしのゲン」なんてマンガがあるが、わざわざ「はだし」と断るようなものじゃなかった。昭和30年半ばまで、体育の時間はみんなはだしで走ったりドッジボールをした。だって下駄で通学しているのだから。ズックを履いている連中も靴下ははいてなかった。
当時は体育館なんてのはない。雨が降れば教室の机を寄せて中で体操をした。私が5年生の時、隣接している中学校と兼用の体育館兼講堂ができて、大したもんだと感心した。
3年生のとき念願かなってズック靴を買ってもらった。それを履いて学校に行き下駄箱に入れておいたら、その日の午前中にあっという間に盗まれた。担任の先生に靴を盗まれたと話したが、見つかるわけもない。悲しくて授業中にシクシク泣いていたら、その先生がうるさいと言って私をビンタした。強烈なビンタで、私は椅子から転げ落ちたことを覚えている。
ビンタ 悪いことをしたのではなく、盗まれて悲しいと泣いていたら先生にビンタされたなんて、今の時代ならあれも体罰で新聞記事になるのだろうか?
いやこれは単に泣いてうるさいからビンタしたのであって、悪いことをした子供への体罰ではないから、新聞記事にはならないのだろうか?
この先生はまだ存命だ。お名前は今も忘れないし、今でも恨んでいる。
家に帰ってその話をすると、親父は先生がビンタしたことにはコメントせず、私がのろまで盗まれたんだと私をビンタした。当時の親父にとっては大きな出費だったのだろう。先生の場合と違い、せっかく買ってやったものをなくしたという怒りがあったのだろうから、親父の気持ちもわからぬでもない。しかし私を叩いたところで、靴が戻ってくるわけでもない。

ケース4
小学校の時、忘れ物をすると近くの子であれば家に取りに帰れと言われ、遠くの子であれば立っていろというのが相場だった。私の場合は家まで片道1時間近くかかったから立っていることになる。そんなことは何度もあった。
ただ教室の外に立たせると先生の話を聞く権利を奪うとの理由で、教室の後ろに立たされた。自分の席で立っていると後ろの子供の邪魔になるからだろう。
この程度のことは今でもあるのだろうか?
宿題を忘れたり、教科書を忘れたりして立たされるのは、自分が悪かったと認識していたから、罰として立つことに何の疑問もなかった。
はさみ ただ一度、家からはさみを持って来いというのがあった。細かい記憶はないが理科でテコの原理か何かのときだった。ところが我が家にはダルマはさみ(糸きりはさみ)しかない。裁ちばさみとか事務用のはさみのようにツーピースをピンで回転するように止めた、てこの原理を学べるはさみがないのだ。しかし持ってこないのは忘れ物をしたことになる。
家が貧乏ではさみがありませんとは恥ずかしくて言えなかった。その時は立っていて、悲しかった。

ケース5
中学校のとき、授業中おしゃべりをしていると先生がツカツカと歩いて来て、肩をつかんで引き倒した。本人は床にころがるし椅子も大きな音をたてて倒れた。手足をあちこちすりむいて血が出た。隣の子供の机などに頭をぶつけなかったのが幸いだ。それでも自分が悪いことをしていたからという認識があったから、私は先生を恨んだりはしなかった。
当然、私ばかりではなくそんな目にあった子供はしょっちゅういた。もっとも女の子もおしゃべりしていたが、そのようなことは女の子にはしなかった。
そういうことをした先生は一人二人ではなかった。当時男の先生は兵隊に行った人が多かったこともあるだろう。女の先生ではさすがにいなかった。
よくマンガでおしゃべりをしていると、チョークとか黒板消しが飛んでくる描写があるが、私はそんな穏やかな事例を経験したことはない。先生もチョークを投げたり怒鳴るより、手を出した方が効果的だと思っていたのだろう。あるいは物を投げるコントロールに自信がなかったのかもしれない。

ケース6
私ではないが、中学校時代の思い出。
同級生がなにか悪さをしたときのこと。当時の学校は汲み取り便所で、近くの農家の人が頼まれると汲み取りに来ていた。たまたま満杯だったがそのとき農家の人が用事か何かで汲み取りに来てくれなかったので、先生がその生徒に汲み取りをさせて農家まで運ばせた。たかだか200メートルか300メートルであるが、
桶をかついて歩くのは、上手にしないと揺れて中身がこぼれたりはじいたりする。そりゃ臭いし、服や手足に付けば汚い。その生徒は顔をしかめてやったものだ。
しかしその後、その生徒は学級のヒーローになった。他の者ができないことをしたから尊敬に値したのだ。
今なら汲み取りをさせた先生は、どんな沙汰になるのだろう。

ケース7
中学校のとき中体連というのがある。球技とか陸上とかいろいろな種目があって、それぞれ近隣の学校で競技をする。選手でない子供たちは、先生からお前はどこに応援に行けと割り当てられる。近くの学校が割り当てられればいいが、隣町の学校に行けと言われることもあり、そうなると片道10キロはある。もちろん歩いて行くわけだ。
当時は誰もハンカチなんて持っていない。手拭いが普通だった。その頃はなにかにつけて商店が手拭いを配ったりしていたからどの家にも手拭いはあった。
手拭いを首にかけるとみっともないからするな、腰につるすのは良いという学校のルールだった。だけど炎天下何キロも歩いて行けば汗をかくし、汗は首から下に流れる。それで生徒が手拭いを首にかけるのは自然の成り行きだ。ところが一緒に歩いて行く先生がそれを見つけると、手拭いをひったくりそれで生徒の顔を殴ったものだ。乾いた手拭いなら軽いから痛くもなんともないが、汗でぐっしょり濡れていると重くてそうとう痛い。
あれって、ルールを守らないことに対する懲戒なのでしょうか? あるいは正そうとする矯正なのでしょうか?
ところで汗をかいて首から汗が流れ落ちてどうしようもないとき、子供たちはどうすればよいのでしょうか?
おお、心頭滅却すればという精神力ですか、

ケース8
高校時代のこと。体育の時間に公道を延々と何キロも走らされた。たぶん10キロくらいは走ったと思う。当時は学校の施設もろくなものはないし、走る車も少なかったから、体育と言えば学校の外をただ走ることが多かった。
私は生まれつき運動オンチで走るのも遅い。普通の生徒なら1時間もあれば戻って来るのだが私の場合は定刻までに帰り着かなかったことが多い。そうすると先生は「校庭何週しろ!」と怒鳴り、他の生徒が教室に入って昼飯を食べているのに、またひたすら走るはめになった。駆けっこが遅く苦手な生徒を更に走らせるのだから、ある意味これはいじめだ。
もちろん私一人ということはなく、途中でわき道にそれたり折り返しまで行かずにサボった仲間が何人も一緒に走った。
折り返し地点には先生が自転車で先に行っていて、来た生徒の手の平にマジックで印を書いたので、折り返しまで走らないとばれてしまった。
ところでサボった人が罰を受けるというのは妥当と思えるが、能力がない人がそれ故に罰を受けるということは法理論からして妥当なのだろうか?
いや先生は少しでも早く走れるようにしようという暖かい親心だったのだろう。
なお我が娘も私に似て運動オンチである。娘が大学の時、体育でキャンパスを一回り走らされたそうだが、一定時間内に戻ってこないと「もう1周」という罰があったそうだ。ところが先生は我が娘が運動オンチなのを知っていて「あなたは走らなくて良い」と言ってくれたそうな。ただ娘はそう言われるのが逆に差別された気になったという。

ケース9
社会人になってから体罰を受けたことがあるかとなると、そのような記憶はない。
ただ現場だったから、バカ、アホ、ノロマ、もう帰れなんて言われるのは日常茶飯事だった。それも笑顔とか冗談半分ではなく、真顔でというか恐ろしい形相で言われた。
そして仕事の出来がまずかったり遅れた場合、お前のミスだから残業代なしでやれと言われることも普通のことであった。
そんな職場で働いていた者から見ると、柔道選手のあげた体罰の中に「このブタ!」と言われたとあるが、それだけをとらえると私の感覚ではいじめどころか嫌味にもあたらない。もちろんその他もろもろはあったのだろうけど、
52歳の時職場を変わった。新しい職場で驚いたことは、部下がミスをしたり成果を出せなかった場合でも、上司が罵詈雑言を怒鳴ったりもせず、机を叩いたり蹴飛ばしたりしないことであった。いやに紳士的な職場があるものだと驚いた思い出がある。ともかく、何かミスったときでも、怒鳴られたり暴力を受けないということは心安らいだものだ。

ケース10
私が親になって、子供に体罰を与えたことはあまり、いやほとんどない。
その理由のひとつには、殴られると痛いから子供にはそんな思いをさせたくないと思ったことがあるが、もうひとつはビンタも下手をすると怪我をさせたり失明させたりすることもある。ビンタをするにも技能が必要で、怒りにまかせて殴るなんてのはもってのほかだ。それでビンタの技能がない私は子供を殴らないことにした。
息子が小学校の頃、いうことを聞かないので座布団を投げつけたことがある。30になった息子は、今でもなにかあるとしょっちゅう座布団を投げつけられたというが、私の記憶では一度だけのはずだ。
巨人の星のちゃぶ台返しも一度しかなかったはずだが、星一徹がしょっちゅうちゃぶ台返しをしていたように記憶している人が多いだろう。

私は悪いことをしたら罰を受けるのは当然だと思う。なにごとも信賞必罰、因果応報がなければ、この世に正義は成り立たない。だから暴力は即悪ではない。エホバだってソドムとゴモラを滅ぼしたし、無差別テロを抑えるには力がなければならない。平和憲法は平和な時だけしか役に立たないのだ。
要するに、まず対象者が悪いことをしたのかどうかということがあり、次に体罰が怒りにまかせての行為ではなく、そして体罰の程度が悪い行いに見合っているかどうかということではないのだろうか。
個人的見解であるが、次のようなフローを考えてみた。



先に挙げた事例はこのフローのどこにあたるだろうか?
区分悪いことをした悪いことをしていない
体罰の可否禁止措置体罰の程度
見直し
妥当な範囲妥協の範囲即刻禁止
該当するケースケース4ケース5
ケース6
ケース7
ケース9
ケース10
ケース1
ケース2
ケース8
ケース3
 *ケース4は解釈が微妙だが?

本日のまとめ
いじめもそうだし、体罰も皆無にするなんてありえない。そしていくら話して聞かせてもいうことを聞かない子供はいる。犯罪を犯した成人に対して最終的に死刑を含む刑罰をもって当たるのと同じく、学校教育や家庭教育において、従わせるという絶対権力は絶対に必要なのだ。それは暴力以外にあるのか私は知らない。
自衛隊は暴力機構だからなくすべきだと語る憲法学者や政治家もいる。しかし敵対する国々が軍隊を持っていて、日本を侵攻しようとしている現実をみれば、そんなお花畑の夢物語を語っていられない。
少年が未成年ということで刑罰を逃れるということは、とりもなおさず年長者、親権者のいうことを聞かなければならないということである。それは少年の人権とかとは関係ない。むしろ少年の人権を守るために少年を厳しく鍛えることが必要なのだ。
じゃあ、成人に対するいじめ、体罰は? となるだろうが、それは体罰を受ける成人が判断することになる。それは当たり前じゃないか。
未成年に対する体罰はありえるが、成人に対する体罰はない。
その代り、成人に対しては法に反した場合は刑罰を与えることになる。
単純な話だ。

 犯罪を犯すと体罰
少年少年法で保護される親権者、教師は行使できる
成人刑法で裁かれるありえない

以上、長年体罰を受けてきた側から考えた体罰論であります。
忘れてはならないことは、人間社会には不条理はつきものである。罵詈雑言くらいで驚いていてはこの世を生きてはいけない。そしてまた我慢できるレベル、切れるレベルを少しでも上げるということが人としての務めだろう。
人権とか理想論を振り回しても全く意味はない。
私はそう考える。

「体罰は絶対にいけない」なんて発言する人をみると、「憲法9条があるから戦争にならない」と語る人と ダブります ダブッて見えます。
私の論に対しては、言葉狩りとか言葉の暴力でなく、論理的、理性的な批判を期待しております。


名古屋鶏様からお便りを頂きました(2013/2/12)
鶏も体罰世代でした。多分、最後の体罰世代でしょう。また、親からも不条理な差別を受けて育ちました。当然、今では考えられない体罰もありましたし。
しかしながら、あえて言います。
「それでも体罰を容認すべきでない」と。体罰は問題を変化させてしまいます。即ち「問題行動を起こすこと」ではなく「殴られること」がイヤだから大人しくしている、ということです。これは本質の改善ではありません。
罰することと殴ることは同一ではありませんし、世の中が不条理だからといって不条理を行使してよい理屈もありません。
それで鶏を軽蔑されるのでしたら、それも仕方ありませんが。

鶏様 毎度ありがとうございます。
別に私は体罰が良いとは主張しません。
ただし私の子供時代を含めて、先生の言うことを聞かないものをどのように扱うのかということが問題でしょう
良く、引退した先生が「断固たる決意で指導すればできる」なんて言いますが、できるわけありません
そういう極限状態でどうするかということを考えるとどうなるのでしょうか
ちなみに柔道問題についてではありません

或るけみすと(仮)様からお便りを頂きました(2013/2/12)
この問題については、“Rightness is nothing, only deference”で意見表明したいと思います。
いかなる理由・背景があろうとも、如何なる思想信条を持っていたとしても、件の「行動」は法的要求事項に対する「不適合」(学校教育法第11条)であることは明確です。たとえ、罰則のない条項であったとしても。
「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」
あるいは、罰則規定のある刑法に対しても「不適合」であるかもしれません。(刑法204条〜刑法208条の2など)
・どの様に「心の中で考えたり、意思を表明すること」自体は自由であり、他人の内心に対して「ある考えを強制する」ことは出来ませんが
・決められた「ルール」に違反する「行動」は、その「ルール」に基づいて制限されると考えます。
正式な手続きを経て制定された「ルール」を、個々人の心の中にある「モラル感覚等」で覆すことは出来ないと考えます。
よって、現段階においては、「体罰という行動」の是非を論ずる余地はありません(明確に、法違反である故に)。
但し、刑法に対する除外措置(体罰の一部を合法化)を法制化することの「必要性の議論を妨げるものではありません」
尚、小生自身の信条としては、「如何なる場合においても、『教育上の懲戒の手段』として、校長および教員が『体罰を行使する』ことには反対」であることを付言します」。
勿論、他の方に「この考え方を強制することは致しません」が。

或るけみすと(仮)様
ISOできましたか(笑)
おっしゃるとおりですね
では法改正を提案します
なお、鶏様にも書きましたが、私は体罰大賛成ではありませんが、反抗するあるいは悪事を働く生徒をどのように或るけみすと(仮)様がご指導されるのか、興味があります。
なお、お断りしておきますが私は自分の子供も他人の子供も叩いたことはありません。

shinoyan様からお便りを頂きました(2013/02/12)
体罰に関する私の体験です
私もおばQさんとあまり変わらない世代と思います、体罰はいやと言うほど受けた思いがあります。父親からのが一番多いと思いますが、今では全然恨むとか思えません。
一番思い出深いのがある年の正月です、その前の暮れの年に来年の正月は小遣いやれると言われ楽しみにしていました。しかし何かがあったのでしょう、正月の小遣いはなしになったといわれ私は反発しました。何でお年玉がないのかと抗議する私を父親は柱に縛り付けて、頭を何回も殴りました。そのあとで鏡を見ると頭の形が変わっているぐらいでした。その時は自分には間違いがないと思い父親に反抗していましたが、後になって自分に子供が生まれ、育ててゆくうちに親だったら子供にお年玉をやりたいのが当たり前だと気づき、親父の方が悲しかっただろうと思うようになりました。貧乏が当たり前だった昭和3?年頃の思い出です。

shinoyan様 お便りありがとうございます。
体罰といってもバリエーションというか種類が多様だと思います。
悪いことをした子供を修正しようというケースもあるでしょうし、指導者の機嫌が悪くて悪いこともしていない子供を叩くケースもあり、子供がうるさいからとひっぱたくけーすもあり。。。
そこんところを議論している人がごっちゃにしていると思います。
子犬をしつけるにはほめる、叱るが必要です。子供が子犬以上なのか・・・

リス様からお便りを頂きました(2013/2/12)
子どもの集団というのは、現場を知らない人には、分からない恐ろしいものである場合があります。
子どもから「ハゲ、バカ、死ね。」など言われて平手打ちしたという中学教師の事件で、「大人げない、言って聞かせればいいのに。」とか「掃除などの懲罰を与えればいいのに。」という意見を見ましたが、そんなので聞くような子には平手打ちしたりしないと思います。
平手打ちがいいとは思わないし、言葉で言って聞くのならそれに越したことはありませんが、聞かないのなら、けがしたわけでもないし、この場合は、許容の範囲ではないでしょうか。
ルールにのっとってないからだめだというなら、生徒が図に乗って教師をバカにするようなルール自体に問題があると思います。
そういうことをした生徒に対する、法的な懲罰も(謹慎など)作るべきだと思います。
それは、教師の立場を守ることにもなりますが、授業を妨害され、授業を受ける権利を奪われた他の生徒を守ることにもなります。
今は、そういう決定的なルールがないから、あいまいになってるし、それなら、けがしない程度の体罰はあってもいいのではないかと思います。(時と場合によります。)
ということで、おばQ様の意見に一票を投じます。
戦争のことは、ことが重大なので、言及いたしません。

リス様 毎度ありがとうございます
体罰といっても多種多様です
悪いことをした子供をまっとうにしようというケースもあるでしょうし、先生の虫の居所が悪くて子供の頭をなぐるというのも多々あります・・というか経験してきました
個人的には痛い思いはしたくありませんが、私の経験から先生にたたかれて良かったということもあるということです
体罰が良いとか、全面解禁なんて言っていません
そう解釈する人がいるということは私の文章が稚拙なのか、あるいは読解力がないのか?

リス様からお便りを頂きました(2013/2/12)
体罰が良いとか、全面解禁なんて言っていません

私はそういう風には受け止めていないですよ。
本家のフロー図もとてもわかりやすくてよかったです。
ルールにがんじがらめにされるのではなく、時と場合によって、柔軟な対応ができるといいですね。

リス様
リス様に申し上げたのではなく、それ以外の方がそう理解したと受け止めております
なにしろ、私が書いているのは、私が体罰を受けたことだけで、人を殴ったことは一つもありません
ですから
そう解釈する人がいるということは私の文章が稚拙なのか、あるいは読解力がないのか?
と書いたのです


睦月様からお便りを頂きました(2013/2/13)
おばQ様
おばQ様自身が、既にたくさんのフロー図一番右側の体験をされたのですね。辛かっただろうとお察しいたします。
学校教育において「従わせる」という絶対権力が本当に必要なのか?
という部分から考えてしまいました。
奇異に見えるかもしれませんが、生徒の素行がどんなに悪くても絶対に体罰という選択肢は認めず、ある日突然退学を言い渡すという状況が普通にある学校・・目指すシステムとしてアリなのかも?
なんて思ってしまいました。
家庭内の体罰は・・そんなもんアリに決まってるじゃないですか!
言って判らんガキは、叩いて修正です!^^

睦月様
アハハハハ 私の子供時代は体罰なんて珍しくありません。
親が子を、先生が生徒を、上司が部下を、殴るける(けるはなかったか 笑)
もちろんそれが良いことではないでしょう。書いたように機嫌が悪いことのうさばらしとか、話せばわかるようなことでもビンタとかは良くないでしょう。
ただ現実の問題として、話して聞かせてもいうことを聞かない子供はいるわけで、体罰ハンターイと言う人は、そういうケースについて理想論でない改善策を提示する義務があるでしょう
私はアイデアがありません


還暦じじい様からお便りを頂きました(2013.03.27)
体罰と暴力・暴言
人それぞれ考えがあるわけですので、体罰に関しては、だれがどういう考えであろうと私はいちいち関心を持ちません
しかし、暴力・暴言は別です
どんな理由があっても、暴力を振るうその時、暴言を吐くその瞬間は、相手に対して憎しみの感情しかないわけですので、擁護のしようも無いと考えます
暴力・暴言の定義となると、またいろいろあるでしょうが、私の定義は前述の通りです。
相手に思いやりの欠片どころか憎しみしか存在して無い状況で行われる行為です

還暦じじい様 ご投稿ありがとうございます。
お書きになられたように、人それぞれ考えがあるわけですので 人それぞれが自身の主張をする権利もあり、否定もできないということでしょう。
そういう観点では全く同意です。
私は体罰を肯定しませんが、なくすことができないことは100%間違いありません。
そして暴力・暴言もなくすことができないことは100%間違いありません。
また体罰・暴言を否定する方も、それに代わる方法論を提示できないことも間違いないでしょう。
まあ、お互いに世の中のために頑張りましょう。還暦を過ぎたと言えど、世の中に貢献することはいくらでもできますからね




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