もし(IF)

2015.11.09

もう何年も前に同名で一文書いたことがある。あれから8年、60代後半になった今、また人生の曲がり角を過ぎたという感じがするので振り返ってみる。まあ老人の回顧に過ぎない。
年寄り サラリーマンを引退して早や3年と半年、引退後というか浪人生活も板につくというか惰性になってきた今日この頃である。そんな現状からいろいろと考えた。
きっかけは先日友人と小旅行に行った家内の話である。家内は千葉に来てからの友人とも旅に行くし、昔の友人とも旅に行く。趣味のクラブの仲間、近所の知り合いとか、美容室の客同士のつきあいとか、まあ社交的な女で、そういう付き合いのカテゴリーはたくさんある。
今回は福島県に住んでいたときのお茶飲み仲間と都合5名で会津の紅葉狩りに温泉一泊で行ったのだ。一行はみな60過ぎから70前、夫たちもみなそれなりの歳で引退したか半分引退状態である。夜は部屋で夫が何をしているかということがメインの話題だったらしい。隣近所だった方ばかりだから夫たちと私も友人まではいかないが知り合いだった。
いつもは家内の話など本を読みながら聞き流すのだが、この話は興味があったので真面目に家内の話を聞いた。
お一人は定年前後に重い病気になり、それ以降自宅で闘病というほどではないが、掃除をしたり料理をする他にはなにもせず、ごろごろしているという。無理はできないらしい。
お一人は夫の父親か母親か不明であるが、親が寝たきりになり毎日実家に通って介護しているという。親はもう90近いらしい。
将棋の駒 お一人は昔の同僚とほぼ毎日将棋をして、ふた月に一度くらい仲間大勢と磐梯熱海温泉に行って一日風呂に入ったり将棋を指したりしているとのこと。優雅である。
お一人は私と同じく千葉県に移り住み、シルバーセンターに登録して公園の清掃の仕事をしているという。もちろん毎日ではない。そして稼いだ金で月に二回ほどゴルフに行っているそうだ。これまた趣味と実益を兼ね優雅である。
そして最後の一人は私である。フィットネス、趣味のクラブ、講演会、図書館などを巡るだけで、働きもせず、介護も料理もせず、堕落した生活をおくっている。
たった5人でもいろいろで日本の老後社会の縮図である。暮らしに困っている人がいないのが幸いだ。
ともかくそんな話を聞いてどんな人生がいいのかと考え、自分の人生は自分が選択したのか、なりゆきだったのか、運命だったのかとかいろいろ考えた。

振り返ると都会に出てきてからの12・13年でいろいろなことがあった。そして分岐点も多々あったように思う。ちょっと違ったら全く違う人生だったかもあったのかもしれない。
とはいえ例えば宝くじが当たったらとか、東日本大震災がなかったら、あるいはそもそもリストラがなければ都会に来なかったということは、私自身の決断とか意志とは無関係であるから除外するとして、都会に出てきてから私自身が判断したことにはどのようなことがあり、どのような分岐あるいは人生があったのかと考えた。

家を売る

千葉に住む

矢印矢印

YES

NO

矢印

家を売る

矢印矢印

YES

NO

矢印

家を買う

矢印矢印

マンション

戸建

たまたま都会に出てきたものの初めの頃は、家内と私も私が60まで働いて定年になれば福島に戻るつもりだった。だから自宅は売らずに賃貸にしておいた。
こちらに来て5年も経つと家内も知り合いとかもでき、もう福島に戻る気をなくしたようだった。それと問題がでた。借家人から庭木が伸びてなんとかしてくれという。隣との境と道路に面した1辺がヒメカナメの生垣だったのだが、この成長が早い。年に2回か3回は剪定しないと伸び放題になる。剪定のために田舎に帰るわけにもいかず、不動産屋経由でシルバーセンターを頼み処理してもらったがその費用が1回数万円になる。年に二回も頼むと家賃収入が飛んでしまう。こちらにきて6年位した時家内が家を売ってしまって千葉にマンションを買おうと言い出した。私もそれがいいと思った。
早速不動産屋に田舎の家売却を依頼したが、見積もられた金額はとんでもない値段、とんでもないというのは二束三文ただ同然である。いくらなんでもそりゃひどいと思ったがしょうがない。50坪の土地付きだったが三桁万円なかばにしかならなかった。


マンションを買う
さて家も売ったことだし、家を探すことになった。こちらに来てから3か所ほど賃貸に住んだが、いずれもマンションであった。マンションのほうが一戸建てよりも気楽だ。まず庭の手入れも生垣の剪定も必要ない。戸締りは玄関のドア1か所施錠をするだけ、暖冷房も戸建より効きがよい。田舎にいた時、家と言えば一戸建てのことだったが、なぜ一戸建てにこだわるのか今となると不思議だ。ということで買うならマンションというのは家内と一致した。休日、家内と何度かマンションを見にいった。
たまたま建築中のマンションがあり、市街地からはだいぶ離れていたが、通勤もまあまあ、買い物などもまあまあだったし、なによりもお値段が手ごろだった。定年までほんの1・2年だったからローンを組む気はなかった。ローンにしたところで定年までしか払えない。手持ち資金で賄えるという条件だと選択肢は狭い。福島の家があと数百万高く売れれば・・
千葉市よりも東側になれば物件は多々あったが、当時はまだ仕事をしていて、まして夜遅く羽田着とか東京駅着ということが多かったので、通勤時間が1時間以上かかっては二の足を踏む。どうしても千葉よりも東京寄りでなければ生活に困る。

嘱託になる

矢印矢印

YES

NO

矢印

嘱託やめる

矢印矢印

YES

NO


嘱託
定年の時に嘱託に雇用してくれるといわれた。ありがたいと承った。年金が60からはもらえないから働くことは必須だった。もし嘱託の話がなかったら、住んでいるところの近くで軽作業を探そうと思っていた。
その後高卒の人は44年特例という制度があり62歳から年金がもらえることが分かった。いろいろ事情があり、年金がもらえるようになったときすぐに嘱託を辞めた。

仕事をするか否か
最近会った元同僚というか先輩がすでに70超えているのに仕事を探しているという。定年後に新しい仕事をしていたがそれも年齢制限で終わり、まだまだ働きたいということで更なる仕事を探しているという。
うーん、その意欲はすごいが私は働きたくない。私はしたいこと遊ぶことがたくさんありすぎる。パチンコとか競馬とかに興味はないが、地域の寺社を巡ったり、縄文時代の遺跡を見たりするのが面白い。実際そんなことを毎日している。

振り返るといくつもの分岐点で別の選択肢を選んだらどういう今があったのだろう。
田舎の家を売らずに定年になったときに帰郷したらどうだったか、東日本大震災はその後であった。実は地震の後に私の住んでいた家はどうなったのかと見に行ったことがある。建物は崩壊はしていなかったが、周囲を足場を組んで補修工事していた。買った方は建て直すのも大変だから修理することにしたのだろう。
私があそこに住んでいたらどうしたのだろうか。正直言って60で定年になって、田舎に帰ったら建て直すつもりだった。そうしていたら新築後1年で地震で損壊していただろう。そうなったときはもう建て直すお金もないし、困り果てたことは間違いない。
あるいは震災前に家を売らずいたとすれば、震災で破損した家は売れないだろうから、壊して更地にして売るほかなかっただろう。そうなれば経済的にそうとうマイナスになり、こちらでマンションを買う足しにもならなかっただろう。
地震直後に家内の実家から千葉の我が家に避難したいという話がありその準備をしていた。幸い原発も落ち着いて幼稚園前の甥姪だけが短期間避難してきただけだった。あのときは大災害があったとき身内は分散して住んでいたほうが、助け合うことができ保険になるように思った。

1年でも2年でも長く嘱託をしていればそれなりに経済的に余裕だったわけだが、その間に体力は年々低下するわけで、したいことをするには早く引退したほうが良かったと思う。
スイミング したいこととは何かと言われると大したことではないが、私は泳げないのでスイミングスクールに行こうかとか、興味があるので博物館や美術館巡りをしたいとかそういうことだ。
体力低下なんていうと笑われるかもしれないが、3年前スイミングスクールに入ったとき手が肩より上に上がらなかった。長年の運動不足とデスクワークによってスポイルされてしまったのだ。もし更に嘱託を1年でも2年でもしていれば一層体力が衰えてしまただろう。今は毎日3キロ以上泳いでいるが、今からスイミングスクールに入って3キロ泳げるようになるには大変どころか無理かもしれない。

田舎に住んでいたらどうだったのか?
中学校、高校の同級生仲間とは濃密な付き合いがあり、そいつらが市会議員に出れば選挙カーに乗ったり応援に歩いたりしたことだろう。あるいは元同僚たちとしょっちゅう集まって飲んだり囲碁将棋を楽しんだり年に数回近場の温泉に泊まりがけで遊びに行ったりしていることだろう。それも面白いし、連帯感があって気持ち良いかもしれない。
だが見方によれば金魚のフンのようで、息苦しくもある。
今私が人との付き合いはどうかと言えば、あまり人づきあいが多い方ではない。田舎に比べれば人とは付き合いは非常に少ない。
元同僚を考えると退職した何人かの方とは年に1・2度会って飲むほか、年に三回、現役の人から声がかかると神田あたりで飲む程度だ。
もちろん新しい友人がいないわけではない。フィットネスクラブ、囲碁クラブ、老人クラブ、老人大学その他で知り合い、飲んだり小旅行に行ったりする付き合いの人は何人もいる。いろいろな趣味の会があって出会いの場があるのは田舎よりも恵まれていると思う。
それに友人が少なくて困るとか寂しいということはない。

大きな分岐点のほかに、細かい分岐点はたくさんあった。今の人生というか暮らしはその分岐点で生じる数多い未来の中で運命か偶然なのか行き着いたものであるが、ともかく決して悪くはない。いやほかの可能性よりも今が一番良いように思える。
あるいは今の暮らしは偶然ではなく、それぞれの分岐点で自分が選んだものであり、その時の判断が良かったから今があるのだとも思える。いや思うだけかもしれないが。

  本日のオチ
家内にそんな私の頭に浮かんだことをかいつまんで話したら、アハハハと笑い飛ばされた。
妻が言うには私は心が弱いのだそうだ。



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